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Slow Luv Op.1  作者: 紙森けい
8/8

[ 日曜日 ]

 

 夏休みにはまだ早く、連休もない六月の日曜日。夕方の国際線は、それでも出入国者や見送り・出迎えの人々で大した混みようである。

 その人ごみの中に悦嗣もいた。夜の便で離日する英介以外の三人を見送る為だ。

 ウィルヘルム・ブルナーとミハイル・クルセヴィッツは、英介や日本で懇意になった人たちと楽しげに話をしていた。

 悦嗣はメンバー以外と面識がなかったので、ロビーのイスに腰掛けて頭上で交わされる英語の会話を聞いていた――と言っても、内容が理解出来るほどの英語力はない。その上ひどい二日酔いで、頭の回転も今ひとつだ。

 それでも聞いているフリをしているのは、隣に中原さく也が座っていたからである。

 さく也は本に目を落としていた。チラリと横目で見ると彼の唇が視界に入る。昨日の夜の感触が悦嗣の唇に蘇った。

 結局あの後、席を同じくして飲むことはなかった。先に戻ったさく也は、座るなり眠ってしまっていたから。

「なんだ、やっぱり酔ってたんだ」

 と、悦嗣は自分に納得させたのだが、どうにも意識してしまい、お開きになるまで彼を避け続けた。

 そして、今もやはり彼を避けている。少しあからさまかも知れない。

 悦嗣の耳は、さく也のヴァイオリンの音を覚えている。酔った上の冗談であったなら、気まずいままで別れたくなかった。

(でも何て話しかける?)

 視界の端のさく也が、顔を上げて悦嗣を見た。思案していたことを見透かされたのかのようなタイミングである。

「あ、いや、退屈だなって思って」

 英介達はいつの間にか離れた場所で輪を作っていた。知人があいさつに来るたびに、その方向へずれるためだろう。

「あいさつしなくていいのか? 知り合いもいるだろう?」

 空港に着いてから、さく也の元にも何人か別れのあいさつに来たが、彼は軽く会釈するだけでほとんど話さなかった。相手も本命はウィルやミハイルであるらしく、常套句を二言三言残して、すぐに二人の元へと歩み寄って行く。

「見知っているだけだ。話したことない」

 悦嗣の問いに彼は素っ気なく答えた。


『さく也は人に対してひどく慎重で、なかなか自分を表に出さない』

 

 英介の言ったことが思い出される。

「何読んでるんだ?」

 会話になるような話の糸口を探す。

「ミハイルが日本土産に買った本。暇つぶしに貸してくれた」 

 本を閉じて、悦嗣に表紙を見せた。

「『日本の名勝百選』? 面白いのか?」

「それなりに」

 沈黙。

「今回は観光も目的だって聞いたけど、どっか周ったのか?」

「寝過ごしてばかりだったし、東京近辺は地元だから」

 沈黙。

 努力は三、四回で底を尽いた。さく也には英介と共に練習に付き合ってもらい、日本語で会話出来ることもあってウィルやミハイルよりは話をした方だが、必要最低限と言える程度だった。昨夜ぐらいである、何となく会話が弾んだのは。演奏会が終わった解放感と、アルコールが作用していたのは明白だ。

 さく也は閉じた本を開いて目を戻してしまった。悦嗣は知らずに溜息をついていたのだろう、「昨日のことなら、忘れてくれと言っただろ?」とさく也が言った。

 悦嗣は彼を見る。さく也は片頬を向けたままだった。

「覚えてたのか」

「記憶が無くなるほど飲めないんだ。それに酔った勢いで誘ったことはない」

 口調は淡々としていたが、彼の頬は少し上気している。


『無防備に自分を出すようになるのは、よほど相手を信頼してるってことなんだ』


 また英介の声がした。

「なあ、」

 上気した頬に語りかける。さく也が振り向いた。

「俺、その気はないとか言ったけど、」

 どうしてこんなことを口走ったのかわからない。

「おまえが気づいた通り、エースケが好きなんだ」

 不器用な感情表現を見せられたからなのか。

「エースケだから、好きなのかもしれない」

 自分に寄せられる信頼を――英介の言った通りだとして――裏切りたくなかったからか。

「どうして俺に?」

 だからさく也のその問いに答えられず、「いや、何でかな?」と悦嗣は逆に問い返す有様だった。

 彼が悦嗣を見つめる。悦嗣の目を逸らさせない。

「そのことは、あんたにとって、ものすごい秘密なのか?」

「エースケには一生言うつもりはないから、そう言うことになるかな」

 さく也の表情が緩んだ。

「だったら、チャンスはあるってことだ」

「え?」

 さく也の言葉は呟きに近く、周りの声に溶け込んで、何を言ったのか聞き取れなかった。

 聞き返す悦嗣の鼻先に、彼の顔がある。

 キスをされるのではないかと思った時、英介がさく也を呼びに来た。そろそろ搭乗開始の時刻だった。

 さく也はゆっくり立ち上がる。悦嗣がぎこちなく続いて、英介と三人、ウィルとミハイルの元へ向った。見送る側はロビーから先に進めない。

「また機会があったら演ろうぜ。久しぶりに緊張感があって面白かった」

 ミハイルが言ったことを英介が訳すと、悦嗣は苦笑した。

 三人は見送る人に軽く手を振り、ゲートの方に向った。

 入り際、さく也は入り口にいた係員に何やら話しかけた後、悦嗣達の元へ駆け戻って来た。

「どうしたんだ? 何か忘れ物か?」

 英介の問いはあっさり無視され、彼は悦嗣の前に立った。

 手に持っていた『日本の名勝百選』を適当に開く。見開きのページには青く晴れ渡った空に優美にそびえる富士の写真、その青空にボールペンで文字を書き始めた。ペンは入り口の係員に借りたものだろう。

 アルファベットと数字の羅列。

「俺の連絡先」

 書き終えるとそれを悦嗣に渡し、笑みを作った――素面で見た初めての笑みである。それから再びゲートへ向う。

「…って、おい、これミハイルのじゃ」

 後姿を悦嗣の声が追う。しかしさく也は振り返りもせずにまっすぐ行き着き、係員にペンを返して入り口を潜った。姿はすぐに人波に消えた。

 悦嗣は手に残された『日本の名勝百選』を見る。雲ひとつなかった青空に躊躇いもなく綴られた文字は、彼の口元を緩ませた。




 空港の展望台から、三人を乗せた飛行機を見送る。

 既に薄暮を通り越して、夕陽の名残は西の雲に細い筋となっていた。それでも雲を抜けた機上の彼らは、まだオレンジ色の夕陽を見ることが出来るかもしれない。

 悦嗣にとって現実離れした一週間が終わった。十年分は鍵盤を叩いた気分だ。寂莫感がないと言えば嘘になる。が、英介には口が裂けても言えない。

「いい演奏会だったよ」

 隣に立つ英介の声は、感慨深げに響いた。

「そうだな、記憶はぶっ飛んでるけど、音は覚えてるよ」

「どうだ? 少しはやる気出たろう?」

「…出るもんか」 

 言葉の最初に間が開いた。「しまった」と思った時には、案の定、英介が突っ込んだ。

「今一瞬、肯定しそうになったくせに」


『あんたのピアノは弾きたがってる』


 英介の言葉に、あの無愛想なヴァイオリニストの声が重なる。

 たちまち耳はあの時の『楽』の音を追い、そして指先は鍵盤の重さを懐かしんだ。

「エースケ、おまえなぁ」

 あきれた口調で答えることで、その感覚を記憶の隅に追いやった。

 悦嗣のそんな胸中を見抜いているのかいないのか、英介は破顔する。

「もう行こうぜ、腹減った」

 悦嗣は強引に演奏会の話は終わりだとばかりに踏み出した。後ろで英介がクスリと笑う声がしたが無視した。

 二人は滑走路を背にして、並んで歩き始めた。

「エースケのおごりだからな」

「なんで?」

「この一週間、本業を犠牲にして協力したんだ、当然だろ?」

「はいはい、好きなだけ飲み食いしてくれ。エツのやる気の代金と思えば、安いもんだ」

「なんじゃそら」


『少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った』


 『日本の名勝百選』が、悦嗣の手の中でささやく。

「そうだな、俺もだよ」

 英介に聞こえない声で、それに応えた。



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