[ 土曜日-2-]
ヨハネス・ブラームス作 ピアノ五重奏曲ヘ短調作品34
第一楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ヘ短調4分の4拍子 ソナタ形式
第二楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージオ 変イ長調 4分の3拍子 三部形式
第三楽章 スケルツオ アレグロ―トリオ ハ短調 8分の6拍子
第四楽章 ポコ・ソフテヌート―アレグロ・ノン・トロッポ―テンポⅠ(プリモ)―プレスト・ノン・トロッポ ヘ短調 8分の6拍子 序奏付きロンド形式
ブラームスが三十一才の時に完成させた唯一のピアノ五重奏曲は、情熱的でありながらメランコリック、しなやかな情感や諦念といった後年の作風の片鱗を垣間見せる。
この曲は一八六八年にパリで初演され、プロイセンの王女に捧げられた。数多のピアノ五重奏曲の中でも最高傑作と評される、名曲中の名曲である。
鍵盤に触れた瞬間、悦嗣はブラームスの作り出した音楽の中に取り込まれた。
自分の指から生み出された音は、四つの弦に吸い寄せられる。
それは縒り合され、そして螺旋となり、ステージを巡り、ホールを巡る。
一瞬のようであり、永遠のようであるこの一曲。ただ、不思議と落ち着いていられた。
昨日までとは違う、楽屋で感じていたものとも違う。幸せな緊張感――悦嗣のその感覚は、形容するとそういったところかも知れない。
長く忘れていた『楽』の世界。緊張感さえも魅力的に変容する。
「こんな緊張感なら、永遠に続いてもかまわない」
そう思えるほど、悦嗣は『楽』に酔っていた。
「エツ?」
立ち上がった悦嗣に、英介はミハイルとの会話を止めて声をかけた。
「ちょっと風にあたってくる。調子に乗って飲み過ぎた」
と答えて、悦嗣は非常口の表示が出ているドアに向った。
日本での三公演を無事終えての打ち上げが、ホテルのバーを借り切って行われていた。英介以外の三人は、明日日曜日の便でウィーンに帰ることになっている。
今回の演奏会が盛況であったことに加え、滞在最後の夜ということもあり、皆の酒量も自然と進んでいた。特に悦嗣には、次々に注ぎ手がやってくる。さすがに悦嗣も『公式の場』での限界に近づいていて、酔い覚ましがそろそろ必要だった。
非常口を開けると地上に下る長い階段が右手に、バーのテラス席がある空中庭園に上る短い階段が左手に伸びている。悦嗣は迷わず左に足をかけた。
演奏がいつ終わり、どうやって楽屋に戻ったか覚えていない。記憶は楽屋のドアを、夏希が蹴破るがごとく開けたところから始まった。
「エツ兄! なんで黙ってたのよ! ひどいじゃない!」
彼女の声はあまりに大きく、音の世界にいた悦嗣を容赦なく現実に引き戻し、隣の控室にいた英介を引き寄せた。
「エースケさんも、教えてくれたらよかったのに!」
夏希は顔を覗かせた英介にも噛みついたが、
「それじゃあサプライズにならないじゃないか」
と彼が例の最強の笑顔でかわしたので、毒気を抜かれたように押し黙った。
その後、次々と知人が訪れ、慌ただしく打ち上げ会場へ移動し、悦嗣は余韻や心地よい疲労感に浸ることが許されなかった。
やっと一人になれる。人に囲まれるのは嫌いではないが、今はあの時の音を思い出したい気分なのだ。
五段ほどの階段を上ると、こじんまりと整えられた庭に出た。夜景の邪魔にならないように、常夜灯は地面の植え込みの間に直置きにされていた。
半月が浮んでいる。周りに、薄い雲と高層ビルを従えて。
「風流だなぁ」
悦嗣は上着のポケットから煙草を取り出すと火を点けた。
ライターの小さな炎に照らされたのは、自分の手。二時間前の感触が、まだ残っている。「弾ききったんだな」と、あらためて見直した。
ゆっくりと煙を吸い込み、紫煙の行方を追って上げた目に人影が映った。
「うわぁ!?」
思わず声が上がる。
庭を囲む手すりに身をもたせて地上を見ていた人影は、その声に気づいて振り返った。夜に慣れた目が中原さく也だと確認した。
「おどかすなよ」
悦嗣は口から落ちた煙草を拾い上げながら言った。
「驚いたのはこっちだ」
さく也はまた外に目を戻す。
悦嗣は隣に立った。
「何してるんだ、こんなところで?」
大仰に驚いたことのバツの悪さをごまかすように話し掛けると、彼は「酔いさまし」と答えた。
眼前に都会の夜景が広がる。週末とあってビルの窓の灯りは少ない。それでも地上に下りるにしたがい、灯りの数は増えていく。使い古された『宝石のような』という表現が、やはりぴったりと合う。
「俺も。調子に乗って勧められるまま飲んじまった。さすがにキツイな」
「強そうだ」
「どうかな。でも若い時ほど飲めなくなった」
さく也がクスクス笑う。
「なんだよ」
「若い時ほどって、まだ若いじゃないか」
「今よりもっと若い頃だよ。それにな、日本じゃ三十過ぎたらもうおじさん呼ばわりなんだぞ」
新しい煙草に火を点けて、すぐに消した。ここのところ本数が増えたことは自覚している。さく也はまだ笑っていた。アルコールが入っているせいか、彼は普段になくよく笑った。
「今日、いい演奏だった」
そしてよく話す。
「自分でもそう思う。出来はともかくとしてな」
「いい出来だったよ」
「そりゃ、どうも」
酔っているとはいえ、中原さく也に誉められるの悪い気はしない。
演奏の間中、悦嗣の耳は無意識に第一ヴァイオリンの音を追っていた。一度も臆することなく弾きつづけていられたのは、その音が必ず聴こえていたからだ。
「ファーストのおかげだ。俺はその音に何度も助けられたよ」
それは素直な気持ちから出た言葉だった。
「その音があると思うから、開き直って弾けたのさ」
さく也の反応はなかった。少し奇妙な間が空く。
「照れてるのか?」
悦嗣はからかい気味に言った。言った自身が照れているのだが。
「酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
答えたさく也の額を、軽く悦嗣の手が弾いた。笑い声が夜に響く。
二人は並んで手すりにもたれ、テールランプが流れるアスファルトの川を、見るとはなしに見ていた。
「この話、エースケに無理やり推しつけられた時は腹立ったけど、今は受けてよかったと思ってる。世界レベルの音と一緒に演れたんだからな。この先二度とない機会を与えてもらって、あいつには感謝してるよ」
「これからだって演れるさ。あんたのピアノは弾きたがってる」
「俺のピアノは、いいとこ学生レベルだ」
「レベルなんて関係ない。聴く人間が決めるんだ、その演奏の価値を。あの拍手、聞いたろう?」
さく也は悦嗣の方に向き直った。
「あの拍手はクインテットのものだ。アンバランスな演奏にスタンディングオベーションするほど、東京の客は程度低いのか?」
悦嗣の耳に、割れんばかりの拍手の音が蘇った。フラッシュバックされる自覚のない記憶。ただ拍手の音は鮮明だ。
「少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った」
その言葉は呟きに近かった。
悦嗣の手が、彼の頭をクシャクシャと撫でた。
「さんきゅ、でも酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
二人はまた笑った。
中原さく也とは、ウィーンから来た他の二人以上に今回時間を共にしたが、こんなに打ち解けた雰囲気での会話はなかった。常に間には英介がいて、もっぱら悦嗣は英介と話していたからだ。さく也は聞いているのかいないのかわからない表情で、傍らにいただけだった。案外と気安く、話せば面白い男なのかも知れないと、その青年らしい笑顔を見ながら悦嗣は思った。
ひとしきりに笑った後、さく也の両腕が不意に悦嗣の首に回される。
まだ笑みを作ったままの悦嗣の唇に、彼のそれが重なった。閉じられた目元に、月明かりが睫毛で影を作る。
冷たい唇、熱い舌先。
突然のことに腕を引き剥がすことも出来ず、悦嗣はただ呆然と口づけを受ける。
やがて名残惜しげに唇が離れて、ほろ酔いの潤んだ瞳が呆けた悦嗣を見つめた。
「俺、一人部屋なんだけど」
と言う言葉に、やっと悦嗣は我に戻った。
酔いはすっかり醒めていた。
「い…いや、俺は…、ごめん、俺、その気は…その、無いんだ」
さく也の言葉はつまり、その手の意図があるということだろう。悦嗣がしどろもどろになってどうにか答えると、彼は一度瞬きして腕を外した。
「そうなんだ? てっきり同じだと思ってた。エースケのこと、いつも熱っぽい目で見てるし」
「え、ええ!?」
さく也は悦嗣から体を離す。
「でも違ったのなら、今のは忘れてくれ」
彼は腕時計を見た。
「そろそろ戻らなきゃな」
そう言うと、再び呆けて立ち尽くす悦嗣におかまいなしに歩き出した。実にあっけなく、何事もなかったかのようだ。
悦嗣は無意識に唇を指でなぞり、その後姿を見ていた。まだ彼の唇の感触が残っている。
さく也の姿が短い階段を下り視界から消える頃になって、ようやく悦嗣の足も前に出た。
現実感のなさが空気となって身体にまとわりつき、足元に酔いにも似た頼りない感覚を生み出して、悦嗣を戸惑わせた。




