表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Slow Luv Op.1  作者: 紙森けい
PR
7/8

[ 土曜日-2-]

 ヨハネス・ブラームス作 ピアノ五重奏曲ヘ短調作品34

 第一楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ヘ短調4分の4拍子 ソナタ形式

 第二楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージオ 変イ長調 4分の3拍子 三部形式

 第三楽章 スケルツオ アレグロ―トリオ ハ短調 8分の6拍子

 第四楽章 ポコ・ソフテヌート―アレグロ・ノン・トロッポ―テンポⅠ(プリモ)―プレスト・ノン・トロッポ ヘ短調  8分の6拍子 序奏付きロンド形式

 ブラームスが三十一才の時に完成させた唯一のピアノ五重奏曲は、情熱的でありながらメランコリック、しなやかな情感や諦念といった後年の作風の片鱗を垣間見せる。

 この曲は一八六八年にパリで初演され、プロイセンの王女に捧げられた。数多のピアノ五重奏曲の中でも最高傑作と評される、名曲中の名曲である。

 鍵盤に触れた瞬間、悦嗣はブラームスの作り出した音楽の中に取り込まれた。

 自分の指から生み出された音は、四つの弦に吸い寄せられる。

 それは縒り合され、そして螺旋となり、ステージを巡り、ホールを巡る。

 一瞬のようであり、永遠のようであるこの一曲。ただ、不思議と落ち着いていられた。

 昨日までとは違う、楽屋で感じていたものとも違う。幸せな緊張感――悦嗣のその感覚は、形容するとそういったところかも知れない。

 長く忘れていた『楽』の世界。緊張感さえも魅力的に変容する。

「こんな緊張感なら、永遠に続いてもかまわない」

 そう思えるほど、悦嗣は『楽』に酔っていた。

 


 

「エツ?」

 立ち上がった悦嗣に、英介はミハイルとの会話を止めて声をかけた。

「ちょっと風にあたってくる。調子に乗って飲み過ぎた」

 と答えて、悦嗣は非常口の表示が出ているドアに向った。

 日本での三公演を無事終えての打ち上げが、ホテルのバーを借り切って行われていた。英介以外の三人は、明日日曜日の便でウィーンに帰ることになっている。

 今回の演奏会が盛況であったことに加え、滞在最後の夜ということもあり、皆の酒量も自然と進んでいた。特に悦嗣には、次々に注ぎ手がやってくる。さすがに悦嗣も『公式の場』での限界に近づいていて、酔い覚ましがそろそろ必要だった。

 非常口を開けると地上に下る長い階段が右手に、バーのテラス席がある空中庭園に上る短い階段が左手に伸びている。悦嗣は迷わず左に足をかけた。

 演奏がいつ終わり、どうやって楽屋に戻ったか覚えていない。記憶は楽屋のドアを、夏希が蹴破るがごとく開けたところから始まった。

「エツ兄! なんで黙ってたのよ! ひどいじゃない!」

 彼女の声はあまりに大きく、音の世界にいた悦嗣を容赦なく現実に引き戻し、隣の控室にいた英介を引き寄せた。

「エースケさんも、教えてくれたらよかったのに!」

 夏希は顔を覗かせた英介にも噛みついたが、

「それじゃあサプライズにならないじゃないか」

と彼が例の最強の笑顔でかわしたので、毒気を抜かれたように押し黙った。

 その後、次々と知人が訪れ、慌ただしく打ち上げ会場へ移動し、悦嗣は余韻や心地よい疲労感に浸ることが許されなかった。

 やっと一人になれる。人に囲まれるのは嫌いではないが、今はあの時の音を思い出したい気分なのだ。

 五段ほどの階段を上ると、こじんまりと整えられた庭に出た。夜景の邪魔にならないように、常夜灯は地面の植え込みの間に直置きにされていた。

 半月が浮んでいる。周りに、薄い雲と高層ビルを従えて。

「風流だなぁ」

 悦嗣は上着のポケットから煙草を取り出すと火を点けた。

 ライターの小さな炎に照らされたのは、自分の手。二時間前の感触が、まだ残っている。「弾ききったんだな」と、あらためて見直した。

 ゆっくりと煙を吸い込み、紫煙の行方を追って上げた目に人影が映った。

「うわぁ!?」

 思わず声が上がる。

 庭を囲む手すりに身をもたせて地上を見ていた人影は、その声に気づいて振り返った。夜に慣れた目が中原さく也だと確認した。

「おどかすなよ」

 悦嗣は口から落ちた煙草を拾い上げながら言った。

「驚いたのはこっちだ」 

 さく也はまた外に目を戻す。

 悦嗣は隣に立った。

「何してるんだ、こんなところで?」

 大仰に驚いたことのバツの悪さをごまかすように話し掛けると、彼は「酔いさまし」と答えた。

 眼前に都会の夜景が広がる。週末とあってビルの窓の灯りは少ない。それでも地上に下りるにしたがい、灯りの数は増えていく。使い古された『宝石のような』という表現が、やはりぴったりと合う。

「俺も。調子に乗って勧められるまま飲んじまった。さすがにキツイな」

「強そうだ」

「どうかな。でも若い時ほど飲めなくなった」

 さく也がクスクス笑う。

「なんだよ」

「若い時ほどって、まだ若いじゃないか」

「今よりもっと若い頃だよ。それにな、日本じゃ三十過ぎたらもうおじさん呼ばわりなんだぞ」

 新しい煙草に火を点けて、すぐに消した。ここのところ本数が増えたことは自覚している。さく也はまだ笑っていた。アルコールが入っているせいか、彼は普段になくよく笑った。

「今日、いい演奏だった」

 そしてよく話す。

「自分でもそう思う。出来はともかくとしてな」

「いい出来だったよ」

「そりゃ、どうも」

 酔っているとはいえ、中原さく也に誉められるの悪い気はしない。

 演奏の間中、悦嗣の耳は無意識に第一ヴァイオリンの音を追っていた。一度も臆することなく弾きつづけていられたのは、その音が必ず聴こえていたからだ。

「ファーストのおかげだ。俺はその音に何度も助けられたよ」

 それは素直な気持ちから出た言葉だった。

「その音があると思うから、開き直って弾けたのさ」

 さく也の反応はなかった。少し奇妙な間が空く。

「照れてるのか?」

 悦嗣はからかい気味に言った。言った自身が照れているのだが。

「酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」

 答えたさく也の額を、軽く悦嗣の手が弾いた。笑い声が夜に響く。

 二人は並んで手すりにもたれ、テールランプが流れるアスファルトの川を、見るとはなしに見ていた。

「この話、エースケに無理やり推しつけられた時は腹立ったけど、今は受けてよかったと思ってる。世界レベルの音と一緒に演れたんだからな。この先二度とない機会を与えてもらって、あいつには感謝してるよ」

「これからだって演れるさ。あんたのピアノは弾きたがってる」

「俺のピアノは、いいとこ学生レベルだ」

「レベルなんて関係ない。聴く人間が決めるんだ、その演奏の価値を。あの拍手、聞いたろう?」

 さく也は悦嗣の方に向き直った。

「あの拍手はクインテットのものだ。アンバランスな演奏にスタンディングオベーションするほど、東京の客は程度低いのか?」

 悦嗣の耳に、割れんばかりの拍手の音が蘇った。フラッシュバックされる自覚のない記憶。ただ拍手の音は鮮明だ。

「少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った」

 その言葉は呟きに近かった。

 悦嗣の手が、彼の頭をクシャクシャと撫でた。

「さんきゅ、でも酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」

 二人はまた笑った。

 中原さく也とは、ウィーンから来た他の二人以上に今回時間を共にしたが、こんなに打ち解けた雰囲気での会話はなかった。常に間には英介がいて、もっぱら悦嗣は英介と話していたからだ。さく也は聞いているのかいないのかわからない表情で、傍らにいただけだった。案外と気安く、話せば面白い男なのかも知れないと、その青年らしい笑顔を見ながら悦嗣は思った。

 ひとしきりに笑った後、さく也の両腕が不意に悦嗣の首に回される。

 まだ笑みを作ったままの悦嗣の唇に、彼のそれが重なった。閉じられた目元に、月明かりが睫毛で影を作る。

 冷たい唇、熱い舌先。

 突然のことに腕を引き剥がすことも出来ず、悦嗣はただ呆然と口づけを受ける。

 やがて名残惜しげに唇が離れて、ほろ酔いの潤んだ瞳が呆けた悦嗣を見つめた。

「俺、一人部屋なんだけど」

 と言う言葉に、やっと悦嗣は我に戻った。

 酔いはすっかり醒めていた。

「い…いや、俺は…、ごめん、俺、その気は…その、無いんだ」

 さく也の言葉はつまり、その手の意図があるということだろう。悦嗣がしどろもどろになってどうにか答えると、彼は一度瞬きして腕を外した。

「そうなんだ? てっきり同じだと思ってた。エースケのこと、いつも熱っぽい目で見てるし」

「え、ええ!?」

 さく也は悦嗣から体を離す。

「でも違ったのなら、今のは忘れてくれ」

 彼は腕時計を見た。

「そろそろ戻らなきゃな」

 そう言うと、再び呆けて立ち尽くす悦嗣におかまいなしに歩き出した。実にあっけなく、何事もなかったかのようだ。

 悦嗣は無意識に唇を指でなぞり、その後姿を見ていた。まだ彼の唇の感触が残っている。

 さく也の姿が短い階段を下り視界から消える頃になって、ようやく悦嗣の足も前に出た。

 現実感のなさが空気となって身体にまとわりつき、足元に酔いにも似た頼りない感覚を生み出して、悦嗣を戸惑わせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ