[風邪っぴき]季節の変わり目
視界が揺れる。まるで陽炎のようだ、なんて思った。
熱に浮かされた脳みそは、決壊したダムめいて止め処なく思考を流していく。
足取りはふらついて、まっすぐ歩くことさえままならない。傍から見れば千鳥足だ。
口元から鼻の上までを覆う大きなマスクは、呼吸を妨げて息苦しさを与えてくる。思わずぐしゃぐしゃにして放り投げたくなるが、自分の状況を鑑みれば、それは憚られる。
しかし衝動を堪えたところで、次に襲ってきたのは別の生理的な衝動だった。喉を強く刺激する咳が吐き出される。一通り咳き込み終わって、鼻をすする。
要するに、風邪を引いていた。
季節の変わり目には風邪を引きやすい、と云うが、それは疑う余地もなく、通例となって自分の身に降りかかっている。今回のこれもその一つだ。周囲を見れば、どこか暖かな空気と、景色を彩る桜の花びらが舞っている。こんな小春日和でも、昨日や明日が同じだとは限らないのがこの時期なのだ。三寒四温は例外ではなく、更に加えて言えば、前日後日の限りなく、朝晩の冷え込みも加わるので、体調を崩すのは仕方ないともいえる。
「……」
とは言え、そんなことは言い訳なんだと分かっていた。
鼻をすすりつつ、揺らぐ風景の中、俺は通い慣れた高校へと足を進めた。
「よ。風邪ひいたのか。おいおい、移すなよ」
教室に入るなり、話しかけてきた友人に手を掲げて応える。声を出すのは躊躇われた。
「ばっかだなぁ。この時期は風邪を引きやすいんだぜ。季節に体を合わせていかないとな。変わっていくことに対応する。大事」
別の友人がそんなことを言ってくる。俺は苦い目線だけで答える。
「って、病人なんだから労わってあげようよ。ね。顔色悪いみたいだけど、大丈夫? 具合悪かったら保健室行った方がいいよ」
やってきたクラスメイトの女子(そこそこ仲の良かった)に声を掛けられる。俺は、大丈夫だよ、と小さく呟いた。
ややあって、始業のベルが鳴った。鐘の音は頭の中でずっと響いていた。
次の日も、俺の視界は同じだった。揺らいで、定まらない。マスクは息苦しさを相変わらず与えてくる。
通い慣れた通学路を進み、自分の教室へ。
「なんだ。まだ治ってないのかよ。早く治せよ」
教室に入るなり、話しかけてきた友人に手を掲げて応える。
「本当に大丈夫? 結構長引くようだったら、学校休んででも病院に行った方がいいよ……?」
やってきたクラスメイトの女子(そこそこ仲の良かった)に声を掛けられる。俺は、大丈夫だよ、と小さく呟いた。
ややあって、始業のベルが鳴った。鐘の音は頭の中でずっと響いていた。
その次の日も、視界が落ち着くことは無かった。地に足がついてないように、ふわふわとしていた。それでも、逆にマスクにはすっかり慣れてしまっていた。それだけが幸いだった。
通い慣れた通学路を進み、自分の教室へ。
「……全然良くなってないみたいだけど」
やってきたクラスメイトの女子(そこそこ仲の良かった)に声を掛けられる。俺は、大丈夫だよ、と小さく呟いた。
ややあって、始業のベルが鳴った。鐘の音は頭の中でずっと響いていた。
決して、消えることはなかった。
その日、俺は突然意識を失った。
目が覚めて、最初に気が付いたことは、視界が驚くほどクリアになっていることだった。
喉の奥の違和感も、鼻を押さえつける息苦しさも、綺麗さっぱり無くなっていた。
だから、いつも通り、通い慣れた通学路を進み、自分の教室に行った。
これまで揺れていた視界は、すっかり透明になっていた。だから、それはそのままの姿で目に入った。
がらんとした教室。机や椅子だけが、整然と並んでいるだけの光景。そこに、見知った顔はいない。
しばらくして、始業のベルが、変わらずに同じ時刻を知らせる。だけど、何も始まらない。
「…………」
もう、終わったんだと、すっかり冷静さを取り戻した思考は告げてくる。
時計の針は、かちり、かちり、と進み続けている。
八時十五分。八時二十分。八時二十五分。八時三十分。
SHRの時間が終わり、一時間目の始業のベルが鳴る。それぞれを聞き取ることは出来た。でも、景色は何も変わらなかった。
「…………」
否応なしに目に付く、窓の外を見てしまう。目を奪われるほどの、桜の花がそこにあった。
続けて、視線は教室の前と、後ろへ。そこには、真っ黒の黒板がある。だけど、今日は、真っ黒じゃない。その一面には、様々な色のチョークで、びっしりと文字が書かれていた。
「さようなら」「また会おうぜ」「ずっと忘れない」「俺達はずっと友達だ」「○○先生大好き」「←これ書いたの誰?」「3年7組一同」「熱血」「大学に行っても遊ぼうね」「成人式で飲み会!」
「卒業おめでとう」
視界が揺らいだ。もう風邪は治ったはずなのに、それでも、視界は歪んでいく。
ああ、もう終わったんだな、と。
無駄だったんだな、と。
迷惑を掛けるかもしれない、と。
それでも最後まで、と。
残りわずかな時間を、と。
そう願った事が最後に届かなかったのだ、と。
窓の外には、春を告げる桜の花びらが風に舞っている。
歪んだ視界には、それは全てを覆い尽くす桜色の壁のように見えた。そして、そうだったらいいのに、と思った。
「……なんで、こんな時に風邪なんか引いたんだよ」
誰もいない教室に、自分の声だけが響く。
「……なんで、すっかり終わってから、治るんだよ」
風がさあと吹いた。桜の花びらが散っていく。
「……こんなことなら、ずっと寝ていたかった。始めから倒れていたかった」
もう終わってしまったのだ。最後の数日が、消えてしまったのだ。時計が同じ方向にしか進まないように、時間は前にしか進まない。決して戻らない。無かったことにはならない。
卒業式を前に、風邪を引いたことも。そして、倒れている間に、卒業式が終わったことも。
一時間目終了のベルが鳴った。嫌という程に聞き慣れたそれは、かつての景色を思い浮かばせる。
それが、とてつもなく悲しくて、それ以上はそこにいることが出来なかった。椅子を蹴飛ばし、かばんをひったくる様に取って、教室を出た。
「――って!?」
「……え?」
そこで、見知った顔がいた。
「あ、やっぱりいたぜ」
「良かった良かった。家に電話したら、元気になったから学校に行ったって聞いてさ」
「ん。顔色もいいみたいだね。もう、無茶したら駄目だよ」
友人たちの姿に言葉を失う。もう、ここに居るはずはないのに。
「よし、風邪っぴきの遅刻野郎がやっときたところで」
「ん。卒業式の続き、初めよっか」
そうして、風邪はもう治ったはずなのに、俺の視界はもう一度歪んでいった。
fin (季節の変わり目にはご注意を)
1時間SS お題『風邪っぴき』
執筆:2013年




