3-9魔女が欲しがるものは
リゼリアの私室には、朝から甘い香りが満ちていた。
侍女の一人が花瓶の花を替え、淡い桃色の花弁を水面へ落とさないよう、白い指先で茎の角度を整えている。
別の侍女は硝子の小瓶から香油を銀の皿へ数滴垂らし、もう一人は窓辺に掛けられた薄い布の皺を伸ばしていた。
彼女たちは、それぞれに美しかった。
黒髪の侍女は夜のように艶やかで、栗色の髪を編んだ侍女は柔らかな日差しの中で肌を明るく見せ、淡い金髪の侍女は花の匂いがよく似合った。
けれど、その誰もが部屋の中心にはいなかった。
色も香りも姿も、すべては椅子に腰かけるリゼリアを引き立てるために整えられていた。
美しいものは嫌いではない。
花も、硝子も、宝石も、侍女たちも、リゼリアはよく選び、よく磨き、もっとも美しく見える場所へ置いた。
花が庭を飾るように、侍女たちは自分の部屋を飾る。
その中心にいる自分こそが、もっとも目を引くものだと知っていた。
リゼリアは香油を含ませた扇を開き、侍女が差し出した茶へ口をつけた。
舌の上に花蜜の甘さが広がる。
けれど、今日の彼女が待っていたのは、茶でも花でもなかった。
扉の向こうで来客を告げる声がし、侍女が静かに扉を開ける。
ベリオンが入ってきた。
塔から来た男は、リゼリアの部屋に満ちる花と香油の匂いの中へ、紙と薬品と冷えた石の気配を連れてくる。
深い礼を取る動作は丁寧だったが、その目は部屋の美しさを味わってはいなかった。
香りを嗅いでも、花の甘さを楽しむのではなく、どの香料がどの順に混ぜられているのかを考えているように見えた。
リゼリアは扇の陰で薄く笑った。
「お待ちしていたわ、ベリオン」
「以前頼まれたことについて、聞きたいとのことで」
「ええ、何か進展があれば聞きたいの。さっそく聞かせてくださる?」
ベリオンは用意された椅子へ腰を下ろした。
侍女が茶を置いても、彼はその香りへ目立った反応を示さない。
つまらない男だと思う。
けれど、今日ばかりは、そのつまらなさも許せた。
ラーナについて何かを持ってきたのなら、花よりも茶よりも、よほど退屈を紛らわせてくれる。
侍女たちは茶を置くと、リゼリアの合図を待って一礼し、静かに部屋を出ていった。
扉が閉じるのを待ってから、ベリオンは口を開いた。
「塔を訪れたラーナ殿について、いくつか確認できたことがあります」
「そう。やはり、ただの病弱な客人ではなかったのかしら」
リゼリアが先にそう言うと、ベリオンは否定しなかった。
彼は茶器の縁へ視線を落とし、それからリゼリアを見た。
「ラーナ殿は、想像以上に希少です」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の香りまで少し濃くなったように感じた。
リゼリアは扇を閉じる。
ぱちりと乾いた音が、花の匂いの中で小さく響いた。
「希少、ね。あなたたち研究者は、便利な言葉を使うのね」
「価値がある、と言い換えても構いません」
「何の価値かは、教えてくださらないの?」
ベリオンはすぐには答えなかった。
微笑んでいるわけではない。
けれど、答えないことそのものを選んでいる顔だった。
リゼリアは、その沈黙を見て、ゆっくりと背もたれへ身を預けた。
何かを隠している。
しかも、隠していることを完全には隠そうとしていない。
ただ美しいだけなら、ベリオンがそんな言い方をするはずがない。
青白い顔や細い手首、衣に包まれた触れれば熱を失いそうな身体が、花の香りの中で思い出される。
アルヴィンのそばで守られていた黒髪の客人。
初めて見た時から、リゼリアはラーナを美しいと思っていた。
美しいものは、美しい場所へ置かれるべきだ。
けれど、今のラーナはアルヴィンの手の届く場所にいる。
王子の庇護に隠され、塔の研究者には価値を見つけられ、自分の部屋にはいない。
それが気に入らなかった。
「ラーナ様は、何かを持っているのね」
「持っている、という言い方が正しいかは分かりません」
「では、隠している?」
「それも、まだ断じられません」
「あなたは、何も言わないふりをして、わたくしに余計なことばかり考えさせるのね」
リゼリアが笑うと、ベリオンは薄く目を伏せた。
「リゼリア様は、私が何も言わなくとも欲しがる方でしょう」
貴族令嬢へ向けるには、ずいぶん礼を欠いた言葉だった。
けれどリゼリアは怒らなかった。
むしろ、唇の端を上げる。
「分かっているじゃない」
欲しいものを欲しいと言って、何が悪いのだろう。
美しい花も、珍しい宝石も、毒を含むほど鮮やかな色も、リゼリアにとっては手元へ置き、もっとも似合う器へ閉じ込めて眺めるためのものだった。
ラーナが何を望んでいるかなど、リゼリアの中ではまだ形を持たなかった。
どう扱うかも、決めてはいない。
客人として招くのか、侍女たちより奥へ隠すのか、美しい病人として柔らかな寝台へ眠らせるのか、考えればいくつもの形が浮かぶ。
ただ一つ確かなのは、今のまま他人の手元に置かれていることが気に入らないということだった。
「けれど、あなたがそう言うということは、急いで奪うには向かないものなのかしら」
「急ぎすぎれば、壊れるかもしれません」
壊れる。
その言葉に、リゼリアの指が扇の骨をなぞった。
壊れやすいものなら、なおさら乱暴な手に触れさせてはならない。
誰かの無理解で傷つけられる前に、正しい箱へ収めなければならない。
花は花瓶へ、宝石は箱へ、毒は栓をした小瓶へ。
美しく危ういものには、それにふさわしい囲いが必要だった。
「壊れるかもしれないものを、塔はずいぶん面白そうに見ているのね」
「壊したいわけではありません」
「では、何をしたいの?」
「見極めたいのです」
「何を?」
「価値の形を」
リゼリアは、ベリオンの顔を見つめた。
塔の研究者らしい言葉だった。
美しいものを美しいまま味わうのではなく、切り分け、測り、分類し、価値という冷たい名前を付けようとしている。
リゼリアは扇を開き、唇の前へ添えた。
「あなたも欲しいのね」
「研究対象として、興味はあります」
「それを欲しいと言わないところが、あなたのつまらないところだわ」
ベリオンは返答しなかった。
リゼリアが茶器を持ち上げると、花蜜の香りが湯気に乗って漂う。
リゼリアはその甘さを吸い込みながら、ラーナの衣に挿されていた小さな花を思い出していた。
初めて見た時、ラーナの胸元には、王都ではあまり見かけない花が飾られていた。
色は淡く、形も控えめだったが、花弁の反り方が芳華の国から来た花に似ていた。
それが本当に芳華の花だったのか、ただよく似た別の花だったのかは分からない。
けれど、リゼリアはその小さな飾りを覚えていた。
美しいものがどこに置かれているかを見落とすほど、自分の目は鈍くない。
その後、リゼリアは同じ系統の花を乾かして作らせた香り袋をラーナへ贈った。
絹の袋に香草を詰め、芳華の香油をほんの少し含ませたものだった。
強すぎず、けれど一度身につければ、髪や衣の端に淡く残る香りになるよう調えさせた。
しかし、それ以降、遠目にラーナの姿を見る機会はあっても、その衣や髪に香りが移った様子はなかった。
贈り物は返されていない。
贈り物は返されておらず、拒まれたわけでもなかった。
ただ、使われた気配だけがなかった。
だからこそリゼリアの指先に引っかかったまま残っている。
あの黒髪の客人は、芳華の花に似たものを身につけていた。
それなのに、同じ香りを与えられると使わなかった。
好みではなかったのか。
香りに意味があったのか。
それとも、あの花はラーナ自身が選んだものではなかったのか。
「……芳華のものに、反応するかもしれないわね」
リゼリアが呟くと、ベリオンの視線がわずかに上がった。
「芳華、ですか」
「ええ。香油や薬草を扱うキャラバンが王都に来ているでしょう。以前、わたくしも天幕を見に行ったの」
色鮮やかな布の下で、銀の髪を緩く束ねた青年が香油の小瓶を差し出していた。
深い褐色の肌に琥珀色の瞳を持つその青年は、売り子のように柔らかく笑いながら、護衛のように周囲を見て、演舞の者のようにしなやかに動いていた。
ただの商人でも、ただの護衛でもないことくらいは、リゼリアにも分かっていた。
けれど、分かっているからこそ面白い。
飾るだけでは、時に退屈だ。
時には、美しい刃も手元へ置きたくなる。
自分へ向くかもしれない刃であっても、向ける先を誤らせなければよいだけのことだった。
「その一行の者を、王城へ招こうと思うの」
「宮廷へ香料を紹介するために?」
「最初は、わたくしの客としてよ。珍しい香油を見せてもらうだけなら、不自然ではないでしょう」
ベリオンはすぐには答えず、茶器の縁に残った花蜜の香りへ視線を落とした。
彼が思い浮かべているものは、花の美しさではないのだろう。
芳華の香料に含まれる成分。
異国の薬草の効能。
それらが王城へ入り、いずれ塔へ持ち込まれるまでの道筋。
リゼリアは、彼の沈黙の中にそれを見た気がした。
「その後、宮廷へ紹介する名目も立ちますね。薬草を扱うのであれば、なおさらです」
「でしょう。珍しい薬草なら、あなたたちも興味を示すのではなくて?」
「塔としては、関心があります」
「なら、都合がいいわ」
リゼリアは微笑んだ。
自分が見たいのは、芳華の香料そのものではない。
異国の花の匂いが王城へ入り、ラーナの近くをかすめた時、あの美しい客人が何を思うのか。
顔色を変えるのか。
目を逸らすのか。
それとも、何も知らないふりをするのか。
ラーナの周囲に異国の空気を流し込めば、美しい箱の奥にしまわれたものが、ほんの少し顔を出すかもしれない。
ベリオンも、それを理解したらしい。
彼は否定も肯定もしないまま、静かに言った。
「ラーナ殿へ近づくなら、慎重に」
「壊れるから?」
「壊れるものもあれば、乱されただけで見えなくなるものもあります」
「あなたは本当に、嫌な言い方をするのね」
「よく言われます」
リゼリアは声を立てずに笑い、扇を閉じた。
この男は、自分を動かそうとしている。
ラーナを欲しがらせ、アルヴィンの周囲を揺らし、異国の商人を王城へ引き込み、その中でラーナがどう反応するのかを見ようとしている。
その程度のことは分かる。
けれど、利用されていると気づいたからといって、欲しいものが欲しくなくなるわけではなかった。
ベリオンが自分を使うつもりなら、こちらもベリオンの知識を使えばいい。
塔の扉を開ける鍵になるなら、研究者の無礼な沈黙くらい許してやる。
「いいわ。あなたが見届けたいものを見届ける間に、わたくしは欲しいものを選ぶだけですもの」
「お選びになるだけで済めばよろしいのですが」
「手に入れるところまでが、選ぶということよ」
リゼリアがそう言うと、ベリオンはわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
けれど、その表情はすぐに消えた。
リゼリアは立ち上がった。
声をかけると侍女たちがすぐに部屋へ戻り、薄い紙と香りを含ませた封蝋を用意する。
紙は芳華の布に似た淡い色をしており、光に透かすと細い繊維が花脈のように浮かんだ。
侍女の一人が赤い封蝋を温めると、甘すぎるほど濃い香りが立ちのぼる。
花の香りに混じって、ほんの少しだけ血を思わせる色が、銀の匙の先で溶けていった。
リゼリアはそれを美しいと思った。
美しいものは、少し危ういくらいがいい。
ラーナの白い顔も、アルヴィンの庇護も、ベリオンが言葉の奥へ隠したものも、芳華の天幕で見た琥珀色の瞳も、いずれすべて手の届く場所へ置けばいい。
欲しいものは、一つではない。
美しい客人だけでなく、その秘密も、揺れた表情も、扉を開くための異国の商人も必要だった。
侍女が筆を取る。
「宛名はいかがいたしましょうか」
リゼリアは香りの立つ封蝋を見つめたまま、静かに告げた。
「芳華の商人、ヴァルグへ」




