3-10招かれた狼
王城の外門は、朝の光の中でも硬い影を落としていた。
ヴァルグは灰色の髪を朝風に靡かせ、芳華の布で包んだ小箱を片手に、荷運びの男を一人だけ伴って検査所の前で足を止めた。
荷は多くなかったが、香油の瓶を収めた箱が一つ、乾燥させた薬草を包んだ布袋がいくつか、宮廷へ見せるための織物と細工物が少し揃えられていた。
王城へ招かれた商人の荷としては控えめで、けれど異国の品を紹介するには不足しない量だった。
門兵が招待状を確認し、封蝋に刻まれたリゼリアの家の印を見ると、ほんの僅かに態度を改めた。
ヴァルグはそれを見逃さなかった。
同じ外部の商人であっても、誰の名によって招かれたかで門の開き方が変わることを、彼はよく知っていた。
「荷を確認する」
「もちろんです。こちらの国の作法に従います」
ヴァルグは柔らかく笑い、荷運びの男へ目配せした。
男は黙って箱を下ろし、蓋を開ける。
門兵たちは香油の瓶を一本ずつ取り上げて光に透かし、栓を開けて中身の匂いを確かめた。
乾燥させた薬草は束を解かれ、布の間に刃や針が隠されていないかを調べられる。
織物は端まで広げられ、細工物は裏返された。
やがて別の兵が、簡易の魔道具を荷の上へかざした。
薄い金属の輪に刻まれた術式が淡く光り、香油の瓶の上で一瞬だけ震えたが、すぐに収まった。
香料や薬草に残る微かな魔力の揺らぎまでは拾うものの、それ以上を見分けるほど鋭い道具ではないらしい。
ヴァルグは異国の客人らしく興味深げに眺めながら、その反応の弱さを記憶に留めた。
これほど丁寧に荷を改め、刃を預かり、魔道具までかざしているというのに、あの夜は別の継ぎ目から誰にも見咎められずに入り込めたのだと思うと、少し滑稽だった。
もちろん、それを笑みに出すほど愚かではない。
門兵の数や荷を調べる順番、魔道具を扱う者の立ち位置、招待された者と荷を運ぶ者が分けられる場所を、何気ない視線の動きで拾っていった。
入るための道は一つに見えても、見る者が見れば、いくつもの継ぎ目があった。
「刃物は預けてもらう」
門兵の言葉に、ヴァルグは腰の短刀を外した。
装飾の少ない、商人の護身用として不自然ではない刃だった。
「預かっていただけるなら、かえって安心です」
そう言って差し出す手に、惜しむ様子はなかった。
手元に刃がなくても、廊下の燭台も硝子瓶も階段の段差も、使い方次第では武器になる。
それを顔に出さないことも、刃を扱う者の心得だった。
検査を終えると、荷運びの男は控えの場所へ残されることになった。
王城の奥へ入ることを許されたのは招かれた本人だけで、持ち込める荷も、案内を受けるために必要な最小限のものに限られるらしい。
ヴァルグは中を検められた小箱を持ち直し、荷運びの男へ短く頷いた。
男は何も尋ねず、その場へ下がった。
内門へ通されると、王城の空気は外とは異なる重さを持っていた。
磨かれた石の匂いが足元から立ち上り、鉄と革、兵士の汗が門の周辺に薄く残っている。
奥へ進むほど、花と香油、絹に焚き込められた香、甘い酒の匂いが幾重にも重なっていった。
その下には、魔道具が放つ乾いた熱と、焦げた石に似た魔力の痺れが潜んでいる。
夜に忍び込んだ時とは違う。
あの時は影と壁の切れ目を辿り、人目を避けながら匂いを拾った。
今は正面から招かれ、開けられた扉の中を歩いている。
同じ城の敷地内でも見えるものは違い、だからこそ来る意味があった。
「ヴァルグ」
涼やかな声が、回廊の先から響いた。
リゼリアが侍女を伴って立っていた。
花を思わせる淡い衣に、よく磨かれた宝石を添え、王城の朝の光の中で、彼女は自分が人の目を引くことを少しも疑っていない顔をしていた。
その視線が、ヴァルグの髪から衣、手にした小箱までゆっくりと辿る。
「よく来てくれたわ」
「お招きいただき、光栄です。リゼリア様」
ヴァルグは深くなりすぎない礼を取った。
商人としては丁寧に、けれど卑屈にはならない。
こうした女が好むのは、ただ従うだけの者ではない。
礼儀の奥に、僅かな危うさを残しておく方がいい。
リゼリアは満足したように微笑み、歩き出した。
「こちらへ。まずは控えの間へ案内するわ。宮廷へ見せる前に、わたくしが先に確かめたいもの」
「リゼリア様のお目にかなうものを選んで参りました」
「そういう言い方は上手ね」
「お褒めの言葉と受け取りますね」
ヴァルグが穏やかに答えると、リゼリアは扇の陰で笑った。
貴族用の回廊へ入ると、すれ違う者たちの視線が自然とヴァルグへ集まった。
深い褐色の肌と灰を混ぜたような銀の髪に、琥珀色の瞳と芳華の織物を思わせる深い色の衣も相まって、ヴァルグは磨かれた石と淡い花の香りに包まれた王城の中でよく目立った。
リゼリアはその視線を不快がるどころか、楽しんでいるようだった。
自分が見いだし、自分が招いた異国の客人が注目されることは、彼女自身の価値が注目されることでもあるのだろう。
ヴァルグはそれを理解し、少しだけ目を伏せた。
リゼリアより前へは出ないが、完全に背景へ沈みもしない。
「あなたの髪、不思議な色をしているのね。光の中では銀に見えるのに、影へ入ると淡い灰へ変わるわ」
リゼリアは歩調を緩め、もう一度ヴァルグの髪を眺めた。
「どちらも綺麗ね」
「初めてそのような言葉をいただきました」
ヴァルグは柔らかく笑った。
「けれど芳華では、この灰色の髪はあまり好まれません。枯れた灰や、火の終わりを思わせると言う者もおりますから」
「まあ。見る目がないのね」
リゼリアは本気でそう思ったように言った。
「わたくしは綺麗だと思うわ。本当に」
「それなら、今日はラドミアの光に感謝しなければなりませんね」
声は礼儀正しく、表情も控えめだった。
けれど伏せた視線は、回廊の出口と窓の位置、壁際に立つ衛兵の手元を順に拾っている。
リゼリアは、自分のそばに置くものは、花であれ侍女であれ異国の商人であれ、すべて自分を飾るものになると信じているようだった。
「こちらの王城は、石まで香りを持つのですね」
ヴァルグが感心したように言うと、リゼリアは少し目を細めた。
「変わった褒め方をするのね」
「芳華の天幕は、布と香油の匂いが強く残ります。こちらの石は、長く使われた香や魔力まで覚えているようです」
「あなたには、そんなふうに分かるの?」
「仕事柄、香りには少しばかり敏いだけです」
嘘ではない。
ただ、それだけではないだけだった。
回廊を抜け、庭に面した通路へ出ると、花の匂いが濃くなり、噴水の水音が石の壁に反響した。
その奥を、冷えた金属と薬品の気配が細く流れている。
古い紙や封じた術式、乾いた魔力の残り香が、研究区画か塔へ続く方向から漂っていた。
さらに奥には、ヴァルグがあの夜に嗅いだものと似た匂いがある。
芳華の王がかつて手に入れた、ラドミアの【想造士】の手による指輪には、現実にないものを現実へ押し出したような匂いが残っていた。
それと似た気配が、この城のどこかにある。
夜に忍び込んだ時、ヴァルグはすでにそれを確信していた。
だが、厚い石と結界に匂いを阻まれ、場所までは掴めていない。
今も、近づいているのか遠ざかっているのかは分かるものの、手を伸ばして掴めるほど明確ではなかった。
「こちらの庭は?」
ヴァルグは何気なく尋ねた。
回廊の先に、ほかの庭よりも人通りの少ない一角が見えている。
あの夜、毒と魔力が混ざった気配を辿ったこの庭で、ヴァルグは黒髪の青年と向き合った。
その青年は【想造士】にどこか似ていながら、まったく同じではない残り香を纏っていた。
「そこは第一王子殿下の離れに続く庭よ。招かれていない者は、あまり近づかない方がいいわ」
リゼリアは軽く言った。
ヴァルグは興味を持ちすぎたように見えない程度に、庭へ視線を流した。
あの黒髪の青年がいたのは、この第一王子の離れに続くという庭だった。
夜に見たものが、王城の地図の中で初めて位置を持つ。
「殿下の離れに続く庭ですか。異国の商人には、ますます興味深いですね」
「商売熱心ということかしら?」
「ええ。王室御用達となれば箔が付きますから。その機会を逃せば、キャラバンの皆に叱られてしまいます」
リゼリアはその言葉に微笑み、庭に咲く花へ扇の先を向けた。
「芳華の香りに、少し興味を示すかもしれない方がいるの」
「その方は、どのような香りをお好みなのですか」
ヴァルグは穏やかに尋ねた。
リゼリアはすぐには答えず、花の上を飛ぶ小さな虫を目で追う。
「分からないわ。だから知りたいの。とても美しい客人よ」
リゼリアが口にした美しい客人という言葉には、花や宝石を選ぶ時と同じ響きがあった。
ヴァルグは小箱を持つ指に余計な力を込めず、僅かに首を傾げた。
「では、いくつかの香りを試していただくのがよろしいでしょう」
「ええ。特に芳華の花の香りを試したいわ」
「芳華の花を?」
「その方を初めて見た時、芳華のものとよく似た花を身につけていらしたの。でも、同じ系統の香り袋を贈っても、使われた様子がなかったわ」
リゼリアの声音は軽かったが、言葉の端には、思い通りに動かなかったものへの小さな苛立ちが滲んでいた。
その話を聞きながら、ヴァルグは城下で黒髪の青年へ白い花を手渡した時のことを思い出していた。
あの青年は、金の髪をした身なりのよい男とともにキャラバンを訪れていた。
そして、第一王子の離れに続く庭で対峙した黒髪の青年とも、その姿は重なった。
「その方のお名前を伺っても?」
「ラーナ様よ。第一王子殿下のおそばにいる、病弱で美しい客人」
ヴァルグには、その名に覚えがなかった。
病弱という言葉を、ヴァルグは表には出さずに舌の裏へ置いた。
城下で白い花を受け取った黒髪の青年。
金の髪をした男とともにキャラバンを訪れ、第一王子の離れに続く庭では、毒と魔力の匂いを纏ってヴァルグの前に立っていた。
その姿が、リゼリアの口にしたラーナという名の下で重なっていく。
夜の庭で嗅いだ気配は、病に伏す者のそれとは違っていた。
毒に近く、魔力に近く、触れればこちらの皮膚まで痺れさせるような危うい匂いだった。
まだ断じることはできない。
それでもヴァルグの中では、その線はほとんど一つに繋がっていた。
「では、ラーナ様に似合う香りをお探しなのですね」
「そうね。間違いではないのだけど」
リゼリアは花を見ながら答えた。
「反応を見る、と言った方が近いかしら」
ヴァルグは笑みを深めすぎないようにした。
リゼリアは、自分が何をしているかを分かっている。
誰かを飾るためだけではなく、揺らすために香りを使おうとしていた。
乱暴に手を伸ばす女ではないが、欲しいものが思い通りに動くまで、静かに周囲を変え続けるつもりなのだろう。
「香りは、記憶に触れることがあります」
ヴァルグは小箱の蓋へ指を添えた。
「懐かしむ方もいれば、嫌う方もいる。何も感じない方もいます」
「なら、なおさら見てみたいわ」
リゼリアは楽しそうに笑った。
「ラーナ様が、何を思い出すのか」
ヴァルグはその言葉に、柔らかな笑みだけを返した。
リゼリアは、ラーナと呼ぶ青年を探っている。
それは、ヴァルグにとって都合がよかった。
あの夜に対峙した、【想造士】に似た匂いを持つ黒髪の青年がラーナであるなら、リゼリアの招きに乗ることで、彼へ近づく機会を作れるかもしれない。
リゼリアが再び歩き出すと、花に囲まれた通路の先で空気が僅かに冷えた。
噴水の水音と女たちの衣擦れに紛れて、薬品と金属、古い紙に染みた術式の匂いが細く流れてくる。
ヴァルグは目でリゼリアの背を追いながら、鼻先ではその流れを辿っていた。
【想造士】は、この城のどこかにいる。
石と結界が匂いを幾重にも折り曲げているため、正確な場所までは分からず、近づいているのか遠ざかっているのかさえ、時折曖昧になる。
それでも、あの指輪と同じ気配は、確かに王城の奥から滲んでいた。
そんな力を持つ者なら、ラドミアでも相応の地位を与えられているはずだった。
ヴァルグは【想造士】を、稀な力によって国に重く扱われる者だと考えていた。
リゼリアの衣擦れが先へ流れていくのを聞きながら、芳華の王を思い出す。
芳華では、王の力について不用意に語る者は少ない。
王位争いを力で勝ち取ったあの王の逆鱗に触れることを、誰もが恐れているからだ。
ラドミアで【想造士】の名が表へ出ないのも、似た種類の畏れによるものなのだろう。
隠されているのは、弱いからではない。
隠しておかなければならないほど価値があり、危ういからだ。
もしかすると、自分の価値を知るがゆえに、傲慢ですらあるのかもしれない。
王城の奥へ続く匂いを追いながら、ヴァルグはそう想像していた。
「ヴァルグ?」
リゼリアの声に、ヴァルグはすぐに顔を戻した。
「失礼いたしました。王城の香りは、層が深いものですから」
「あなた、本当に香りの話が好きなのね」
「香りは嘘をつきにくいので」
口にしたあとで、ヴァルグは少しだけ笑った。
「もちろん、人が隠したいことまで暴くほど無作法ではありません」
「そうかしら」
リゼリアは扇を開き、目だけで笑った。
「あなたは、ずいぶん礼儀正しく見えるけれど、そうではないところも多そうだわ」
「そのように見えましたか」
「だから呼んだのよ」
その答えに、ヴァルグは静かに頭を下げた。
リゼリアは美しいが、扱いを誤れない招き主だった。
甘い香りの中で笑いながら、人も物も同じように並べようとする。利用しやすくはあるものの、欲しいものを見つければ、こちらの予定など構わず動き始める女だった。
鍵として使うには便利だが、こちらが望む扉だけを開けるとは限らない。
それでも、今のヴァルグには必要な鍵だった。
庭を抜けた先に、灰色の塔の上部が僅かに見えた。
凹凸の少ない石の壁が空へ伸び、数少ない窓は、近づく者を拒むように光を弾いている。
リゼリアが庭の花へ視線を向けている間、ヴァルグはその塔の影を見ていた。
【想造士】は、この王城の奥にいる。
だが、その者がどこに置かれ、塔へ近づく導線がどこに隠され、あの黒髪の青年とどのように関わっているのかは、まだ何一つ掴み切れていない。
それでも、国へ持ち帰るべきものが王城の奥にあることだけは、以前よりもはっきりしていた。
城の中を歩くための鍵は手に入った。
ただ、その鍵が次にどの扉を開けたがるのかまでは、まだ読めない。




