3-8その足音に揺れる髪
朝の光が格子を抜け、床の上へ細長い影を落としていた。
ミオリは窓辺の椅子に座り、膝の上に開いた本へ目を落としていた。
頁には海辺の町が描かれていた。
白い壁の家々の向こうに青い水面が広がり、帆を張った船が風を受けて岸から離れていく。
文字を追えば、潮の匂いや波の音まで伝わってきそうだった。
けれど、同じ行を三度読み返しても、意味はほとんど頭に入ってこなかった。
視線が頁の端まで進むたび、前日に感じた気配が胸の奥から浮かび上がる。
あの子が生きている。
昨日、ヤドクはまだ王城から遠くへ去っておらず、この塔のすぐ下まで来ていた。
何のために塔へ来たのか、誰と一緒にいたのか、自分の存在を感じていたのか、そのどれも分からなかった。
ただ、自分を探しに来たのではないかと考えてしまう。
そうであってほしいと思う一方で、再び塔へ近づいたことで捕まってはいないだろうかと、不安が胸を締めつけた。
塔には来てほしくない。
危険な場所へ近づかず、外で自由に生きてほしい。
それでも、あの気配が自分を求めて近づいてきたのなら、嬉しいと思ってしまう。
相反する思いはどちらも消えず、頁の上で重なり、並んだ文字から意味だけを遠ざけていた。
扉の外で金属が触れ合う音がし、白い衣を着た研究員が薬湯の盆を持って入ってきた。
湯気とともに立ち上った匂いはいつものものより青臭く、嗅いだだけで舌の奥に苦味が蘇るようだった。
研究員は机に椀を置くと、ミオリの顔色を見て記録板を開いた。
「昨夜、頭痛はありましたか」
「なかった」
「吐き気や息苦しさは」
「ないよ」
「睡眠は取れましたか」
ミオリは答えようとして、僅かに遅れた。
昨夜、眠れなかったわけではない。
けれど、目を閉じるたびに塔の下にあった気配を思い出し、耳を澄ませてしまった。
「うん」
研究員はそれ以上尋ねず、記録板へ印を書き込んだ。
返事が遅れたことも、声が普段より小さかったことも、決められた項目のどこかへ記録されるだけなのだろう。
椀の中身を飲み切るよう告げると、研究員は本に目を向けることもなく、記録板を抱えて部屋を出ていった。
扉が閉じ、術式の光が元の形へ戻ると、低い駆動音だけが部屋に残った。
ミオリは本を机に置き、薬湯の椀を両手で包んだ。
温かさは掌へ伝わったが、口へ近づけただけで青臭い薬草の匂いが鼻の奥へ入り込み、飲む前から舌に苦味を思わせた。
覚悟を決めて一口飲むと、舌の奥まで痺れるような味が広がった。
思わず眉を寄せ、椀を机へ戻す。
いつもの薬湯も好きではなかったが、今日は格別に苦い。
もう一度本へ手を伸ばし、頁の端へ指を掛けたところで、廊下の奥から足音が聞こえた。
頁に掛けていた指から、知らないうちに力が抜けた。
一定の間隔で石床を踏む音が続き、扉へ近づくにつれて、その間隔がほんの僅かに広がった。
器具を運ぶ者の重い足取りでも、研究員たちの急いた靴音でもない。
誰なのか考えるより先に、ミオリは顔を上げていた。
肩から滑った髪が動きに遅れて揺れ、朝の光を受けて頬の横へ落ちる。
薬湯の椀に添えていた指から、知らないうちに力が抜けた。
扉の術式がほどけ、アステルが部屋へ入ってきた。
「おはよう、ミオリ」
「おはよう、アステル」
返事をした声が、研究員に答えた時よりも柔らかくなったことに、ミオリ自身が気づいた。
窓から差し込む朝の光が、扉を閉めるアステルの横顔へ触れていた。
細く柔らかな淡金の髪は、光を受けたところだけ銀色に透けている。
血の気を感じさせないほど白い肌の中で、薄氷のような瞳が静かな色を宿し、濃紺の衣の襟と袖には細い銀糸の紋様が走っていた。
冷たく近寄りがたいほど整った顔立ちなのに、ミオリを見る時だけその目元から張りつめたものが僅かに薄れる。
ミオリはしばらくアステルの顔を眺めた。
「相変わらず、綺麗ね」
褒めようとしたわけでも、からかうつもりでもなく、ミオリにとっては空が青いことと同じくらい疑いようのない事実だった。
アステルの指が、扉の術式に触れたまま止まった。
「……朝から、急に変なことを言うね」
「急ではないよ。前から綺麗だと思ってた」
ミオリが不思議そうに答えると、アステルは僅かに視線を逸らした。
髪の隙間から覗く耳だけが、白い肌の中でほんの少し色づいて見えた。
けれど、次にこちらへ向き直った時には、いつもの静かな表情へ戻っていた。
アステルは机の上を見渡し、ほとんど減っていない薬湯へ目を留めた。
そのあと、昨日渡した本が、まだ初めの数頁で開かれているのを見た。
「薬湯は飲んだ?」
「少しだけ」
「椀の量を見る限り、本当に少しだけみたいだ」
アステルは向かいの椅子を引き、ミオリの正面へ腰を下ろした。
いつもなら研究員の記録を確認すれば済む時間に、わざわざここまで来た理由が、薬湯だけではないことは分かっていた。
それでもアステルは、前日のことを尋ねなかった。
ミオリの顔を見つめ、何かを言おうとするように唇を僅かに開いたが、視線を薬湯へ落とした。
「昨日より、苦いだろうね」
「苦くしたの、アステルでしょう」
ミオリが責めるふりをすると、アステルは困ったように眉を下げた。
「苦くしたかったわけじゃないよ。気持ちを落ち着かせて、眠りやすくする薬草を増やした」
「眠らせて、苦いのを忘れさせるつもり?」
「そこまで強い薬ではないよ」
「でも、苦い」
「それは否定できない」
アステルの口元に小さな笑みが浮かび、ミオリもつられるように笑った。
部屋の中に、ほんの僅かに柔らかな空気が流れた。
けれど、アステルの視線はすぐにミオリの目元へ戻った。
「昨夜は眠れた?」
先ほど研究員にも聞かれた問いだったが、その声は同じではなかった。
眠った時間を確かめるためではなく、眠れなかった理由まで見ようとしているようだった。
「眠れたよ」
「そう」
短く答えたあとも、アステルはすぐには目を逸らさなかった。
前日、ミオリが本から顔を上げ、窓へ向きかけたことを覚えているのだろう。
ミオリが何かを感じ、それを話さずに隠したことにも気づいているのだろう。
それでも、その中身を聞き出そうとはしなかった。
ミオリが自分から差し出していないものまで奪えば、アステルもまた、塔の他の者たちと同じになってしまう。
彼がそう考えたのかは分からない。
ただ、聞かないでいてくれたことだけは分かった。
ミオリは薬湯をもう一口飲み、苦味を逃がすように小さく息を吐いた。
「その本は、海の話?」
アステルが机に置かれた本を見て尋ねた。
「うん。海辺の町から船に乗る人の話」
ミオリは開いた頁をアステルの方へ少しだけ向けた。
挿絵の中では、白い波が岸へ寄せ、遠くの水平線と空が一つに溶けている。
海が塩水で満たされていることも、月や太陽の引力によって潮が満ち引きすることも知っていた。
波がどのように起こるのかも、海の水が青く見える理由も、考えれば記憶の奥から知識として浮かび上がった。
それだけではない。
前の世界で海へ行き、泳いだ記憶も残っている。
夏の日差しに熱くなった砂を裸足で踏んだことや、目に入った塩水の痛み、濡れた髪が首筋へ貼りつく感触まで思い出せた。
波に足元をさらわれ、隣にいた誰かと笑い合ったことも覚えていた。
けれど、その者の顔は浮かばなかった。
自分の記憶であることは分かるのに、そこにいた自分は別の誰かのように遠かった。
「アステルは、海を見たことがある?」
「ないよ。ラドミアには海がないからね」
「どれくらい遠くへ行けば見られるの?」
アステルは少し考え、窓の向こうへ視線を向けた。
「いくつか国境を越えれば見られる。けれど、馬車でもかなり時間がかかるだろうね」
「そうなんだ」
ミオリは挿絵に指を置いた。
紙の上の海は、指先で簡単に端から端まで辿れる。
本の中なら頁を一枚めくるだけで行ける場所が、現実では幾つもの国境の向こうにある。
「いつか、一緒に見に行けたらいいね」
口にしたあとで、アステルの表情を見た。
彼はすぐには答えなかった。
薄青い瞳が、窓の格子越しに見える空へ向けられた。
その沈黙だけで、簡単には叶わない願いだと分かってしまった。
「そうだね」
やがて返ってきた言葉は優しかったが、約束ではなかった。
いつか連れていくとも、ここから出してみせるとも言わなかった。
ミオリは、それを責める気にはなれなかった。
前の世界で会社員として働いていた頃、白い光の落ちる会議室で、誰かが間違っていると声を上げても、すでに決められた方針や、上に立つ者の判断を覆せないことがあった。
自分自身も、納得できないまま頷き、決められた仕事を続けたことがある。
正しいと思う者が一人いるだけでは、組織の決定を簡単には変えられないことを、ミオリは知っていた。
アステルには、何もできないわけではない。
彼が止めたことで軽くなった痛みも、途中で終わった実験もあった。
本を持ち込み、苦い薬のあとには飴を残し、塔の中で息をつける時間を作ってくれる。
それでも、彼はこの塔を出るための扉だけは、まだ開けられずにいた。
理解しているから、責められない。
けれど、責められないことと、苦しくないことは違う。
ミオリは本の挿絵へ視線を戻し、指先で水平線をなぞった。
それでも、アステルがそばにいれば安心する。
足音を聞くだけで、張りつめていたものが緩む。
その安心が、この檻の内側でしか与えられないことを考えると、胸の奥に小さな痛みが残った。
「薬は、きちんと飲んで」
立ち上がったアステルが、机の上の椀を指で示した。
「半分くらいは飲んだよ」
「半分以上残っている」
アステルは衣のポケットへ手を入れ、薄い紙に包まれた小さな飴を取り出した。
薬湯の椀の隣に置き、ミオリへ視線を向ける。
「飲んだあとに」
包み紙から、蜂蜜に似た甘い匂いが僅かに漏れていた。
薬が苦い日に、アステルが時々持ってくるものだった。
「これがあるなら、最初に言ってくれればよかったのに」
「先に見せたら、薬を飲む前に食べるだろう」
否定できず、ミオリは唇を尖らせた。
アステルは僅かに笑い、扉の方へ向かった。
「また来るよ」
「うん」
ミオリは椅子に座ったまま、その背中を見送った。
アステルが檻の外へ出て扉を閉めると、術式の光が継ぎ目を埋めていった。
錠の掛かる硬い音がして、足音が廊下の向こうへ遠ざかり始めた。
来る時には安心を運んでくれた音が、今度はミオリを一人残して離れていく。
やがて足音が聞こえなくなると、部屋には装置の低い駆動音と、薬湯から立つ細い湯気だけが残った。
ミオリは椀を持ち上げ、残っていた薬湯を少しずつ飲んだ。
喉を通るたびに苦味が重なり、最後には舌の奥まで痺れるようだった。
空になった椀を机へ戻し、隣に置かれた飴の包みを開く。
淡い琥珀色の飴を口へ含むと、蜂蜜の甘さが苦味の上へゆっくりと広がった。
ミオリは舌の上で飴を転がしながら、ヤドクのことを考えた。
ヤドクは、甘いものを知っているのだろうか。
今、何を食べているのだろう。
雨や風を避けられる場所で眠れているのか。
どこかが痛んだ時には、薬を渡してくれる誰かがそばにいるのだろうか。
ミオリの前へ現れた時のヤドクは、塔の外壁にしがみつき、身体を傷つけながら、それでも窓まで登ってきた。
もう、そんな危険を冒してほしくない。
自分を助けに来なくてもいい。
塔へ近づかず、誰にも捕まらず、外の世界で温かい食事を食べ、甘いものを選べるような日々を送っていてほしい。
それが本心だった。
けれど、飴が少しずつ溶けていく中で、別の思いが胸の奥に浮かんだ。
次に会えたなら、この味を教えられるだろうか。
そう考えたあとで、ミオリの指先が包み紙の上で止まった。
ヤドクがもう一度ここへ来ることを望んでいるわけではない。
危険な目にも遭ってほしくない。
それでも自分は、次に会える時のことを考えていた。
格子を抜けた風が、机の上の包み紙をかすかに鳴らした。
ミオリは舌に残る甘さを感じながら、胸の奥に生まれた小さな願いを、まだ言葉にはしなかった。




