3-7窓辺の少女は声を落とす
塔の入口でラーナの名を記し、身分を確かめられている間も、ヤドクは顔を上げなかった。
見上げれば、石造りの壁の遥か先に、ミオリのいる窓がある。
一度だけ外から辿り着いた、あの格子のはめられた窓だ。
けれど、今は窓の周囲に以前とは比べものにならないほど強い結界が張られ、塔全体の警戒も増している。
意識を向けただけで、空気の中に張りつめた魔力が皮膚を撫でた。
「確認いたしました」
受付を担当していた魔術師が記録板から顔を上げ、ベリオンへ書類を返した。
「立ち入りは中層の指定区画までです。ベリオン副室長の同行中に限り許可されます」
「ええ、承知しています」
ベリオンは書類を受け取ると、いつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、ヤドクとアルヴィンを振り返った。
「では、参りましょうか」
塔の中へ足を踏み入れた瞬間、ヤドクは胸の奥に薄い違和感を覚えた。
痛みと呼ぶほど強くはないが、衣服の下に隠された毒紋が、眠りから覚めるように熱を持った。
ヤドクは何も感じていないふりをして、アルヴィンの隣を歩いた。
下層には魔術師や書記官が行き交い、紙をめくる音と硬い靴音が石壁へ反響している。
壁際には細い光を灯す魔道具が並び、その下を、封を施された箱や巻物を抱えた者たちが慌ただしく通り過ぎていった。
以前、ミオリのノートを返すために塔へ入った時も、ヤドクが許されたのはこの下層までだった。
今日はベリオンが先を歩き、アルヴィンがすぐ隣にいる。
正面から階段を上り、正式に中層へ向かっているのに、以前より自由がないように感じた。
「こちらの下層では、塔全体の管理や王城の結界に関わる業務が行われています」
ベリオンは歩みを緩めず、異国の客人へ施設を案内する口調で説明を続けた。
「研究に従事する魔術師の多くは、中層で過ごしています。少々階段が続きますが、ラーナ殿はお疲れではございませんか」
「大丈夫です」
ヤドクは間を置かずに答えた。
階段を上るにつれて、毒紋の疼きが少しずつ強くなる。
手袋の下から腕へ、細い棘を押し込まれているような熱が這い上がった。
ミオリが近い。
まだ、そう言い切れるほどではない。
塔そのものに満ちた魔力へ、身体が反応しているだけかもしれなかった。
それでも、一段上るたびに、胸の内側を引かれる感覚が強くなっていく。
ヤドクは足元だけを見つめた。
ここで塔の上を見れば、ベリオンはその視線を見逃さない。
身体が何を求めているか悟られれば、次はもう近づけない。
アルヴィンとの約束もある。
検査を受けず、塔の者には触れさせず、少しでも異変があればすぐに引き返す。
それが、アルヴィンと交わした約束だった。
ここで正体を悟られれば、危険にさらされるのはヤドクだけではない。
アルヴィンは彼を古い友人だと偽り、異国からの客人として離れへ迎え入れ、塔の目から庇い続けている。
何も知らずに騙されていたと言い逃れできる段階は、とうに過ぎていた。
ヤドクが塔から逃れた人ならざる存在だと明らかになれば、アルヴィンもまた、その正体を知りながら意図的に匿っていたと見なされる。
ここで衝動に負けることは、自分の身を差し出すだけでなく、アルヴィンまで巻き添えにすることだった。
中層へ入ってからも、階段はしばらく続いた。
下層に近い階には多くの研究室が並んでいたが、上るほど廊下を行き交う魔術師の数は減り、扉と扉の間隔も広くなっていく。
やがて研究室の表札に混じって、居住者の名だけを刻んだ札が現れた。
塔に属する魔術師の中でも、個人の研究室と私室を与えられた者たちの区画らしい。
「この先に、私の研究室があります」
ベリオンは分かれ道を右へ曲がった。
廊下の奥には彼の名を刻んだ札が二枚あり、一方は研究室に、もう一方はその隣の私室に掛けられていた。
その区画へ足を踏み入れた途端、ヤドクの腕を這っていた疼きが深くなった。
息を吸うだけで、服の下の毒紋が脈打つ。
通路の先には王都を見渡せるという窓があり、その少し手前には、さらに上へ続く階段を閉ざす扉があった。
扉の表面には幾重もの術式が重なり、継ぎ目から冷たい光が滲んでいる。
ベリオンは扉の前で歩みを僅かに緩めた。
「ここから先は、中層の上部区画です」
何気ない案内を装いながら、彼の淡い金灰の瞳がヤドクへ向けられた。
「アステル研究室長の部屋や、【想造士】の治療と健康管理に用いる医務室などがあります。外部の方をお通しできる場所ではありませんので、今回の見学はこの階までとなります」
【想造士】という呼び名が耳に触れた瞬間、扉の先からヤドクを上へ引く感覚が、それまでよりも鮮明になった。
服の下で毒紋が鋭く疼いた。
この扉の先にも、まだ幾つもの階がある。
アステルの部屋や医務室が置かれた区画のさらに上、結界で隔てられた塔の頂に、ミオリが生きている。
以前よりずっと近い。
身体が扉の方に引かれ、体重が僅かに前へ傾いた。
結界に阻まれると分かっていても、扉へ飛びつきたかった。
上へ行けば、もう一度ミオリに会えるかもしれない。
けれど、ここで動けば、ベリオンはすべてを見る。
自分とミオリの繋がりを疑い、彼女への監視を強めるだろう。
今日だけでなく、次に塔へ近づく道まで閉ざされる。
ヤドクは靴底に力を込め、前へ傾いた身体を押し戻した。
歯を食いしばらず、息も止めないよう意識しながら、毒紋から広がろうとする熱を自分の内側に押さえ込む。
上へ向かいたい衝動は消えなかったが、それでも足は動かさなかった。
次の瞬間、アルヴィンの手が肩に置かれた。
強く掴むのではなく、そこに残った震えを隠すような触れ方だった。
「ラーナ、疲れたか」
声音は、体調の優れない客人を案じる王子のものだった。
ヤドクはアルヴィンを見ずに、小さく息を吐いた。
「少しだけです。ですが、大丈夫です」
「無理をする必要はない」
その言葉の裏にある意味は分かっていた。
アルヴィンの指先に一度だけ力がこもった。
ヤドクは視線を上げないまま肩の力を僅かに抜き、その手を振りほどかなかった。
二人の間で交わされたものを、ベリオンがどこまで読み取ったのかは分からない。
彼は足を止め、心配そうにヤドクへ顔を向けた。
「少しお疲れになりましたか。せっかくですから、窓辺でお休みになってはいかがでしょう」
ベリオンは上階へ続く扉には触れず、通路の先にある窓を手で示した。
表向きは気遣いにしか見えない。
けれど、この場所に留めて反応が続くか確かめるつもりなのだと、ヤドクにも分かった。
「ありがとうございます」
断れば、かえって不自然になる。
ヤドクはアルヴィンとともに窓辺まで歩いた。
足を進めるたびに上階への扉が背後へ遠ざかるが、ミオリの気配はまだ消えない。
窓の向こうには、白い石造りの王都が広がっていた。
遠くの城壁や密集した屋根、その間を流れる細い水路まで見える。
ベリオンが話した通り、見晴らしはよかった。
けれど、ヤドクは景色のどこにも意識を向けられなかった。
幾層もの石床を隔てた上に、ミオリがいる。
その存在だけは確かだったが、それ以外は何ひとつ届かなかった。
「いかがですか」
ベリオンが尋ねた。
「王都をこれほど高い場所から見る機会は、そう多くないでしょう」
「綺麗ですね」
ヤドクはラーナの声で答えた。
窓硝子に映るベリオンの目が、一瞬だけこちらへ向いたことに気づいたが、ヤドクは振り返らなかった。
やがて疼きが少し収まり、呼吸も元へ戻った。
ベリオンの研究室では、壁を埋める書架や分解された魔道具を見せられた。
何を説明されても、ヤドクの意識の一部は最上階へ引かれたままだった。
それでも案内を外れて廊下へ戻ることも、上部区画の扉へ近づくこともしなかった。
見学を終え、決められた経路を通って中層から下層へ戻ると、毒紋の疼きは階段を下りるたびに薄れていった。
ミオリの気配も遠ざかっていく。
塔の入口を出た時には、胸の奥にかすかな熱が残るだけになっていた。
あれほど近くまで行き、同じ塔の中にいながら、ミオリを助け出すことも、声をかけることもできなかった。
それでも衝動に任せて上階へ向かえば、ミオリをさらに危険へさらすところだった。
今日、すべてを壊さずに戻ったことで、もう一度近づくための道は残ったのだと、今は自分へ言い聞かせるしかなかった。
ベリオンと別れ、塔の入口が背後へ遠ざかってから、アルヴィンが声を落とした。
「何か分かったか」
ヤドクは振り返らず、消えかけた気配を胸の奥へ留めるように答えた。
「生きてる。それだけは分かった」
何をされているのかも、どれほど傷ついているのかも分からない。
ヤドクは得られたわずかな確信を抱え、アルヴィンと並んで歩き続けた。
*
ヤドクがベリオンに導かれ、中層を上っていた頃、最上階では、アステルがミオリの部屋を訪れていた。
ミオリは窓辺の椅子に座り、膝の上に読み終えた本を置いて、細い指で表紙の角を何度も撫でていた。
部屋へ入ってきたアステルは、片腕に食事の盆を載せ、もう片方の手に新しい本を持っていた。
盆には根菜を柔らかく煮込んだスープとパン、小さく切られた果実が載っている。
掛けられていた布を外すと、香草を含んだ温かな湯気が、冷えた部屋の空気へ静かに広がった。
けれど、ミオリの視線は食事を通り過ぎ、アステルの手にある本へ向けられていた。
「やっぱり、そちらが先か」
アステルは苦笑し、食事の盆を机へ置いた。
「相変わらず、本が好きだね」
差し出された本を受け取ろうとミオリが両手を伸ばすと、アステルはその手前で僅かに本を引き、閉じたまま机の端へ置いた。
「先に食べて。冷めてしまう」
「少しだけ読んでからでは駄目?」
「君の言う『少しだけ』は、あまり信用していない」
淡々とした声音だったが、薄氷のような瞳には僅かな笑みが浮かんでいた。
ミオリも小さく笑い、膝の上の本を脇へ置いてから、スプーンを手に取った。
湯気の立つスープを掬い、息を吹きかけて口へ運ぶ。
柔らかく煮えた根菜の甘みが口に広がり、香草の香りが鼻へ抜けた。
アステルが見ていることに気づくと、ミオリは少しだけ眉を寄せた。
「ちゃんと食べてるよ」
「まだ一口だけだ」
「数えていたの?」
「食事を忘れる人が相手だからね」
アステルは何でもないことのように答え、パンを載せた皿をミオリの手元へ寄せた。
見張られているようで少し落ち着かなかったが、その静かなやり取りを嫌だとは思わなかった。
ミオリはもう一度スープを掬い、今度はパンも小さくちぎって口に運んだ。
数口食べたことを確かめると、アステルは向かいの椅子を引き、掌を上にして片手を差し出した。
「手を」
ミオリはスプーンを置き、言われるまま自分の手を重ねた。
アステルの長い指が手首の内側に触れ、脈を探った。
触れた箇所から薄青い魔力が細い糸のように流れ込み、身体の内側を静かに辿っていった。
「結界を強めてから、頭が痛んだり、息苦しくなったりはしていない?」
「してないよ」
「眠れている?」
ミオリが頷くと、アステルは返事だけでは足りないとでもいうように、目元と唇の色を確かめた。
それでもすぐには手を離さず、ミオリの指先にも触れ、冷えまで確かめてから、ようやく力を緩めた。
「脈に乱れはない。魔力の流れも、今のところ問題なさそうだ」
「だから、平気だって言ったでしょう」
「食事については、まだ信用していない」
アステルの口元に、かすかな笑みが残った。
ミオリの手を放すと、今度は壁に埋め込まれた術式へ意識を向けた。
この日、彼が最上階を訪れたのは、本と食事を届けるためだけではない。
強化された結界が、ミオリの身体や魔力へ余計な負担をかけていないか、直接確かめに来たのだろう。
壁を走る光に指先をかざすと、術式の一部が応じるように明滅した。
アステルは檻の格子に沿って巡る光を目で追い、しばらくして指を下ろした。
「こちらも異常はないようだ」
その声に張りつめたものがないと分かり、ミオリは小さく息をついた。
「残りも食べること」
「分かってる」
ようやく差し出された本を受け取ると、ミオリの表情が僅かに和らいだ。
深い緑色の表紙を指で撫で、題名を確かめる。
「ありがとう、アステル」
「どういたしまして」
ミオリは受け取った本を開き、新しい紙の匂いを吸い込みながら、最初の頁へ目を落とした。
外へ出られない時間を、本は昔から埋めてくれた。
知らない場所へ行くことも、誰かの目を通して空を見ることも、頁を開けばできる。
アステルは壁際に置かれた記録板を手に取り、結界の状態を示す光に目を落とした。
数行読み進めたところで、ミオリの視線が止まった。
塔の下から、何かに触れられたような気がした。
音でも、結界の揺れでも、外から流れ込んだ魔力でもない。
遠く離れていたものが一瞬だけ近づき、自分の内側に残っていた何かを撫でていった。
ミオリはゆっくりと顔を上げた。
覚えがあった。
それは、かつて自分の中にあり、自分から生まれて塔の外へ逃れていったものと同じだった。
あの日、窓の向こうで自分を見つめていた黒い瞳が胸の奥に浮かび、ミオリはようやく、その気配がヤドクのものだと確信した。
声には出さず、心の中だけで名前を呼ぶ。
生きている。
遠くへ去らず、まだ王城の中にいて、今は塔の下、以前よりずっと近いところにいる。
それ以上のことは分からなかった。
塔のどの辺りにいるのかも、誰といるのかも、何をしようとしているのかも届かない。
ヤドクが自分を感じているかどうかさえ、確かめることはできなかった。
本の端を押さえる指に力が入る。
床に視線を落としかけ、ミオリは途中で止めた。
下を探すような動きをすれば、アステルに気づかれる。
以前のように外壁を登ってきたわけではないと分かっていても、彼と向き合えた唯一の場所を求めるように、顔が窓の方へ向きかけた。
「ミオリ」
アステルの声に、ミオリは肩を揺らした。
記録板に向けられていたはずの薄青い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「何かあったのか」
「……何でもない」
ミオリは声を落とし、首を横へ振った。
アステルはすぐには答えなかった。
文字から離れた視線も、本の端を押さえた指も、窓へ向きかけた顔も見られていたのだろう。
彼はミオリの顔をしばらく見つめたあと、壁の術式に意識を戻した。
アステルが指先で魔力の流れを辿っても、術式の光は先ほどと同じ間隔で静かに明滅していた。
アステルの表情にも、異常を見つけた様子はなかった。
それでも、何でもないとは信じていないことが、その視線から伝わった。
「そうか」
やがて彼はそれだけを口にした。
ミオリが話したくないことまで、無理に聞こうとはしなかった。
代わりにスープの椀を彼女の手元へ寄せ、机に置かれたままのスプーンに視線を落とした。
「ミオリ、もう少しだけでも食べて」
ミオリは小さく頷いたが、すぐにスプーンを取ることはできなかった。
塔の下にあった気配が、少しずつ薄れていく。
ヤドクがこの場所から遠ざかっていることだけは分かった。
ミオリは開いていた本を閉じた。
追いかける術はなく、声を上げることも、窓へ駆け寄ることもできない。
閉じた本に手を置いたまま、湯気を失っていくスープにも気づかず、その気配が完全に途切れるまで動けなかった。




