3-6近くても遠い場所へ
アルヴィンがベリオンの提案した塔での検査を拒んでから、三日が過ぎていた。
その間に、ベリオンは靴の硝子片から検出された魔力についてまとめた資料を提出してきた。
記されていたのは、ごく微量の毒性を帯びた魔力と、ラーナの体調不良に魔術的な原因が潜んでいる可能性だった。
資料は慎重に言葉を選んで書かれ、どの記述も断定を避けている。
それでいて、塔で身体を調べる必要があるという結論だけは変わらなかった。
アルヴィンはそれを読んでも検査を認めなかった。
ヤドクにも、一人では離れを出ないよう改めて言い渡していた。
ただ、異国から来た客人をいつまでも部屋へ閉じ込めておけば、かえって人目を引く。
そのため短い外出だけは続けていたが、必ずアルヴィンが同行し、塔の者と接触しないよう周囲にも気を配っていた。
その日、二人は借りていた本を王城の図書室へ返し、離れへ戻るところだった。
ヤドクは黒い外套姿で、胸に数冊の本を抱え、アルヴィンの半歩後ろを歩いている。
腕の間からは、図書室で新たに借りた本の古びた革表紙が覗いていた。
「お前は本当によく本を読むな」
アルヴィンが振り返ると、ヤドクは本を抱え直した。
「俺は知らないことが多いから、面白い」
「そうか」
ヤドクは、人目のある場所でラーナを演じている時よりも、わずかに口調を崩していた。
周囲に人影はなく、長い回廊には二人の足音だけが響いている。
それでも完全に気を抜いているわけではなく、角を曲がる前には一度視線を上げ、近づいてくる気配がないか確かめていた。
アルヴィンの言葉を守り、一人で離れを出ようとはしていない。
塔に近づくこともなかった。
少なくとも、今のところは。
ミオリの状態を何も確かめられないまま、いつまで耐えられるのかは分からない。
ヤドクは以前、アルヴィンに何も告げず、塔の外壁を登って最上階の窓まで辿り着いたことがある。
あの時はミオリと窓越しに会えたが、今は結界も警備も強化されている。
再び同じことをすれば、塔へ着く前に拘束される可能性が高い。
アルヴィンがそのことを考えた時、回廊の先から灰白のローブが現れた。
ベリオンだった。
偶然を装っているのか、本当に行き会ったのかは分からない。
ただ、ヤドクが単独で動かなくなってから、少なくともアルヴィンの知る限り、ベリオンは彼へ個別に接触する機会を得ていなかった。
「アルヴィン殿下、ラーナ殿。ご機嫌よう」
ベリオンは足を止め、穏やかに一礼した。
「図書室へ行かれていたのですか」
「ああ。ラーナは本が好きだからね」
アルヴィンが答えると、ベリオンは二人の横へ自然に歩調を合わせた。
来た道を引き返してまで二人に歩調を合わせた以上、声をかけた目的が挨拶だけでないことは明らかだった。
「随分と熱心でいらっしゃる。ラーナ殿は、どのような本をお読みになるのですか」
ベリオンの視線が、ヤドクの抱える本へ向いた。
「特に決めてはいません。知らないことが多いので」
ヤドクは教えられた通り、丁寧な口調で答えた。
「目についたものを、少しずつ」
「それはよいことです。異国へ来られたばかりなら、この国の歴史や文化に触れるだけでも退屈は紛れるでしょう」
ベリオンは本の背を眺めるように目を細めた。
「魔術や魔道具については、いかがですか」
ヤドクの表情は変わらなかった。
「詳しくはありません」
「でしたら、かえって興味深く感じられるかもしれませんね」
ベリオンの声は、世間話を続けているように軽かった。
「この国で広く使われている小型の魔力時計も、元を辿れば【想造士】が生み出した品です。
それを研究室長のアステルが再現できる形へ整えたことで、今では王都以外にも広く普及しました」
【想造士】という言葉が出た瞬間、ヤドクの歩調がほんの一歩分だけ遅れた。
すぐにアルヴィンの隣へ並び直し、それ以上の事情を知らない異国の客人を装って、ベリオンを見た。
以前なら、返事が遅れたり、塔の方角へ視線を向けたりしていたかもしれない。
今は、表に出た揺れをすぐに覆い隠すことを覚え始めている。
それでも、ベリオンの視線が一度だけヤドクの足元へ落ちたのを、アルヴィンは見逃さなかった。
「塔には、【想造士】が生み出した品も研究資料として保管されています」
ベリオンは何気ない調子のまま続けた。
「以前お返しいただいたノートも、その一つです」
「珍しい品なのですね」
ヤドクは間を置かずに答えた。
声にも表情にも、ミオリへの思いは滲んでいない。
ベリオンはその返答を追及せず、何も見つけなかったように話題を滑らかに移した。
「塔は研究施設ですので、外観からは想像しにくいほど、内部には様々な魔道具がございます。
もっとも、見慣れない方には少々物々しく映るかもしれませんが」
「ラーナに塔を勧めるつもりか」
アルヴィンが口を挟むと、ベリオンは僅かに眉を上げた。
「身体を調べる必要があるとは申し上げません」
その答えは、あまりにも早かった。
検査を拒まれたため、今度は見学という形で近づこうとしている。
名目が変わっただけで、ベリオンの目的まで変わったとはアルヴィンには思えなかった。
「検査や診察とは関係なく、ラーナ殿にこの国のことをもっと知っていただければと思っただけです」
ベリオンは穏やかに説明を続けた。
「私の同行者として申請すれば、通常の事前審査や待機期間は省略できます。
もちろん、入塔記録や当日の身分確認は必要ですが、私の研究室がある階まででしたら、私の権限でご案内できます」
「……中層までか」
「はい。それより上は、私一人の判断でお通しすることはできません」
そこだけは曖昧にしなかった。
ミオリのいる最上階へは行けない。
ベリオンの研究室がある中層までであり、彼の同行中だけの見学だ。
それでも、塔の外にいるよりは遥かに近い。
「通路の窓からは、王都を広く見渡せます」
ベリオンはヤドクへ視線を戻した。
「他国からお越しになったラーナ殿にも、よい気晴らしになるかと」
王都の景色を見せる。
異国の客人を塔へ招く理由としては、あまりにも穏当だった。
ヤドクが望んでいるのは景色ではなく、ベリオンが本当に差し出している餌もまた景色ではないことを、アルヴィンは分かっていた。
【想造士】という言葉を口にし、返却されたノートへ触れたあとで塔へ誘った。
ヤドクが何に反応したのかを確かめるための提案だ。
塔へ入り、ミオリとの距離が縮まるほどヤドクの反応が強くなれば、それだけで二人の繋がりを疑う材料を与えることになる。
その結果、ミオリへの監視や検査が強まるかもしれない。
ヤドクの毒が制御できなくなれば、彼自身もその場で捕らえられる可能性がある。
危険は大きかった。
だが、ヤドクを離れへ閉じ込め続けることにも限界がある。
ミオリの状態を何も確かめられないまま閉じ込めておけば、ヤドクはいずれ衝動だけで塔へ向かうかもしれない。
結界が強化された今、外から登ることは以前より遥かに危険だ。
ヤドクがアルヴィンの知らないところで無謀な侵入を試みるより、自分が同行して正式な経路から塔へ入る方が、まだ状況を制御しやすい。
少なくとも、異変が起きた時に傍にいて、連れ戻すために動くことはできる。
ベリオンに観察される危険を承知で踏み込むか、ヤドクが一人で動き出す日を待つか。
どちらにも安全な道はなかった。
「見学という言葉だけで、先日の件がなかったことになるとは思っていない」
アルヴィンが言うと、ベリオンは笑みを崩さなかった。
「もちろんです」
「私も同行する」
「当然でございます」
「ラーナには触れさせない。検査も、本人へ向けた魔術の行使も認めない」
「承知いたしました」
「少しでも体調に変化があれば、その場で引き返す」
「異存はございません」
条件を告げるたび、ベリオンは迷いなく受け入れた。
あまりにも容易に認めることが、かえって彼の目的を明らかにしている。
ベリオンにとっては、触れることも検査することも必要ではなく、塔へ入ったヤドクがどこを見て、何を感じ、どう変化するのか、それさえ観察できれば今は十分なのだろう。
アルヴィンはヤドクへ視線を向けた。
ヤドクも同じ瞬間に顔を上げた。
黒い瞳の奥に、抑えきれない願いが見えた。
塔へ行き、たとえミオリに会えなくても近くまで辿り着いて、彼女がそこにいることを自分の感覚で確かめたい。
硝子細工が砕けたあの回廊では、アルヴィンが視線だけで無理をするなと伝えた。
今度はヤドクの方が、何も言わずに行きたいと伝えている。
アルヴィンは、尋ねる前からその答えを知っていた。
それでも本人に選ばせる形を取るのは、断る道を残すためなのか、それとも望んだ答えをヤドク自身に言わせたいだけなのか、自分でも分からなかった。
「ラーナ」
アルヴィンはベリオンの前で、その名を呼んだ。
「行ってみるか?」
ヤドクはすぐには答えなかった。
ヤドクはラーナとして考える間を置き、一度目を伏せてから静かに顔を上げた。
「よろしいのであれば、拝見してみたいです」
声は穏やかだった。
塔へ向かいたいという焦りも、ミオリを案じる気配も、その表情や声には滲んでいない。
ベリオンは満足を露わにはせず、ただ客人の希望を受け入れる宮廷魔術師として微笑んだ。
「では、明日の午後にでも」
穏やかに告げたベリオンの微笑みが、ほんの僅かに深まったのを、アルヴィンは見逃さなかった。




