3-5王子は塔を見上げない
ヤドクが履いた靴の硝子細工が砕けた翌日、アルヴィンは王城の回廊でベリオンと顔を合わせた。
昼を少し過ぎた頃だった。
高い窓から差し込む光が磨かれた床へ細長く伸び、行き交う侍従たちの影を静かに横切っている。
向こうから歩いてきたベリオンは、アルヴィンの姿を認めると足を緩め、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべた。
「アルヴィン殿下。昨日のラーナ殿の件で、少々お伝えしておきたいことがございます」
アルヴィンは足を止めた。
偶然行き会ったように見えるが、ベリオンがこの時間にこの回廊を通ることは珍しい。
だが、アルヴィンがこの時間に離れへ戻ることを、ベリオンが把握していても不思議ではなかった。
「靴のことか」
「はい。回収した硝子片を確認したところ、ごく微量ではありますが、毒性を帯びた魔力の残滓が見つかりました」
ベリオンは胸元へ片手を添え、病人の容体を報告する医師のように静かに続けた。
「硝子が砕ける直前、ラーナ殿は急にお加減を崩されたように見受けられました。
残滓との因果関係はまだ断定できませんが、無関係とも言い切れません」
ベリオンが口にしたのは、砕けた硝子片に残った魔力のことだけだった。
だが昨日、彼は靴が壊れる前からヤドクを観察していた。
塔へ向けられた視線も、手袋に包まれた指先の強張りも、遅れた返事も、発しかけた言葉も見逃してはいないはずだ。
アルヴィンがヤドクの前へ出て、その場を打ち切ったことまで記憶しているだろう。
それでも、ベリオンは硝子片に残った魔力のことしか口にしない。
自分がどこまで気づき、何を疑っているのかを、アルヴィンへ教えるつもりはないらしい。
「ラーナ殿はお身体があまり強くないと伺っております」
ベリオンの声には、客人を案じる者らしい柔らかな温度があった。
「体調不良の原因が単なる病ではなく、魔術的な呪いや障りに由来している可能性もございます。一度、塔で詳しくお身体を調べた方がよろしいかと」
表面だけを見れば、親切な申し出だった。
原因不明の不調を抱えた異国の客人を心配し、宮廷魔術師として力になろうとしている。
だが、ベリオンの関心が向いているのは、ラーナの苦痛ではない。
靴に残った異質な反応と、それを生じさせたかもしれない身体だ。
「その残滓が、まさかラーナから生じたとでも言いたいのか?」
アルヴィンが尋ねると、ベリオンはわずかに首を傾けた。
「現段階では、断定できません。衣服や床から付着した可能性も、外部の魔術に触れた可能性も否定できません」
「ならば、本人を調べる根拠にもならない」
「根拠がないからこそ、確かめる必要があるのではないでしょうか。
ラーナ殿自身から生じたのではないとわかるだけでも価値はありませんか?」
ベリオンは微笑んだまま答えた。
証拠が足りないことを、検査を見送る理由にはしない。
分からないものがあるなら、分かるまで調べればいい。
「私はそうは思わない。ラーナに負担をかけたくない」
アルヴィンはベリオンの目を見たまま告げた。
「必要があると判断すれば、こちらで対処する」
ベリオンの表情は変わらなかった。
ただ、薄い金灰色の瞳が、アルヴィンの言葉を確かめるようにわずかに細められた。
「承知いたしました」
あまりにも素直な返事だった。
「ですが、呪いや魔力的な障りであれば、時間を置くほど深く根づくこともございます。
ラーナ殿のためにも、どうか慎重にご判断ください」
「忠告は受け取っておく」
ベリオンは丁寧に一礼すると、何事もなかったようにアルヴィンの脇を通り過ぎた。
静かな足音が回廊の先へ遠ざかっていく。
アルヴィンは振り返らなかった。
ひとまず、ヤドクを塔へ行かせずに済んだ。
しかし、自分がラーナを塔へ渡したくないと考えていることも、ベリオンへ伝わったはずだ。
拒めば拒むほど、ラーナには調べられては困る何かがあると教えることになる。
ベリオンがその程度のことへ気づかないはずがなかった。
アルヴィンは窓の外へ視線を向けかけ、そのまま足を進めた。
硝子越しに何が見えるかは、確かめるまでもない。
王城の多くの場所から、塔は見える。
見ようとしなくても、そこにある。
アルヴィンは塔の方角へ顔を向けず、自身の離れへ足を向けた。
城の本棟から渡り廊下と小さな庭を隔てたその建物は、公務のために人を迎える場所ではない。
庭を含む一帯への出入りは厳しく制限され、アルヴィンが認めた者以外は立ち入ることを許されていなかった。
そこにラーナという客人が滞在していることは、すでに城内でも知られている。
隠しているのは存在ではなく、その名の下にいる青年が、塔から逃げ出した人ならざる者であることだった。
人の気配がない庭を抜け、アルヴィンは離れの扉を開けた。
ヤドクは窓辺の長椅子に座っていた。
膝の上にはアルヴィンが貸した本が開かれているが、頁を追ってはいない。
黒い瞳は窓の外へ向けられていた。
その先に何があるのかを、アルヴィンは見なくても知っている。
扉の音に気づき、ヤドクが顔を上げた。
「遅かったね、アル」
「ベリオンに呼び止められた」
その名を聞いた瞬間、ヤドクの手がわずかに動いた。
開いた本の端を押さえる指に力が入り、黒い手袋に浅い皺が寄った。
以前、穏やかな言葉をかけながら手首へ触れようとした男を、ヤドクも警戒していた。
「お前が履かされたあの靴から、毒性を帯びた魔力の痕跡が見つかったそうだ」
アルヴィンが告げると、ヤドクは膝の上の本を閉じた。
驚いた様子はなかった。
「あれ、調べたのか」
「あの場で回収した時から、そのつもりだったのだろう」
「靴から、俺のことが分かる?」
「まだ何も確定していない」
アルヴィンは窓辺から少し離れた椅子へ腰を下ろした。
「だが、お前自身を調べさせれば、ベリオンが確信を得るための材料は増える。
ベリオンは、お前の体調不良が呪いや魔力の障りによるものかもしれないと言って、塔での検査を求めてきた」
ヤドクの瞳が冷たく細められた。
「俺を、心配してるわけじゃない」
「私もそう思う」
短く答えると、ヤドクは視線を落とした。
昨日、靴が砕けた瞬間から、こうなることは予想していたのかもしれない。
ヤドクも、ベリオンが破片を受け取った意味を察していたのだろう。
それでも、次に口にしたのは自分の身を案じる言葉ではなかった。
「俺を調べれば、ミオリまで辿れるのか」
アルヴィンはすぐには答えられなかった。
ヤドクの身体には、ミオリへ繋がる何かがある。
彼はミオリに呼ばれて、この世界へ現れたと語った。
彼女の記憶や感覚の一部を持ち、ミオリの知る人間へ、初対面とは思えない反応を示している。
アルヴィンは、ヤドクがミオリの【想造】によって生まれた存在ではないかと強く疑っている。
ベリオンが同じところまで辿り着けば、ミオリへの監視はさらに強まるだろう。
彼女の身体をこれまで以上に詳しく調べ、何を生み出したのか、どのような条件で生み出したのかを確かめようとするはずだ。
だが、それと同時に別の考えが、あまりにも自然にアルヴィンの内側へ浮かんだ。
ヤドクを塔へ行かせれば、ベリオンは必ず強い関心を示す。
検査を許可する代わりに、ミオリの研究記録を開示させられるかもしれない。
彼女の処遇について譲歩を求め、塔の内部へ踏み込む足掛かりを得られる可能性もある。
一人を差し出すことで、ミオリへ近づけるかもしれないが、ベリオンが誠実に取引に応じる保証などない。
王族として損得を量るなら、検討に値する取引だった。
その計算が、驚くほど速く、迷いなく組み上がった。
守れるものと守れないものを分け、より大きな利益のためなら、手元にあるものを切ることも求められる。
人も、恩義も、秘密も、国を動かすための手札になり得る。
アルヴィンの中にも、その考え方は深く染みついていた。
たとえお飾りの王族であっても、国を背負う者として考えることだけは捨てずにきた。
昨日、自分はヤドクへ、「ラーナ」という立場はお前を守るためにも、ミオリへ近づくためにも必要だと告げた。
その翌日には、守ると決めた青年へ交換価値をつけている。
ヤドクをベリオンへ渡せば、ミオリを救うための何かが得られるかもしれない。
だが、塔で行われる検査が、その穏やかな言葉の通りに終わるはずもなかった。
過去にも、保護や検査を名目に塔へ連れていかれ、そのまま戻らなかった者がいる。
死んだとも、逃げたとも、どこかへ移されたとも説明されないまま、初めから存在しなかったかのように記録と噂の中から消えていった。
ヤドクを塔へ行かせることも同じであり、それは検査を受けさせることではなく、ベリオンへ引き渡すことに等しかった。
「あいつが俺を調べれば、ミオリは自由になれる?」
ヤドクの声で、アルヴィンは顔を上げた。
黒い瞳に、自分の身を惜しむ色はなかった。
ヤドクが考えているのは、ミオリを守れるかどうかだけだった。
目の前の青年が自分の危険よりミオリを案じている間に、アルヴィンはその命と引き換えに何を得られるかを数えていた。
胸の奥に、冷たい嫌悪が広がった。
ヤドクを守りたいという思いは嘘ではない。
だが、この青年を失えば、塔で何が起きたのかへ繋がる手掛かりも失われる。
守るために手元へ置いているのか、失えない手掛かりとして抱え込んでいるのか、アルヴィンにはもう切り分けられなかった。
ベリオンへ渡して利益を得ることが利用なら、塔の真相へ繋がるからと手元へ置くことも、別の形の利用ではないのか。
ミオリを一人の少女ではなく、国力を生む資源として見る塔の魔術師たちと、自分は本当に違うのだろうか。
違うと断言できるほど、アルヴィンはまだ何ひとつ変えられていなかった。
ミオリが塔で管理され、自由を奪われ、国のために力を利用されていることを知っている。
過去の転生者たちも、同じように国へ取り込まれ、使い潰されてきたことを知っている。
それでも王族である自分は、塔の扉を開けることさえできずにいる。
彼女が塔の奥で具体的に何をされ、どれほど傷ついているのかさえ知らない。
知らないのではなく、知るところまで踏み込めていない。
その無力さもまた、ミオリを閉じ込めている壁の一部だった。
「……アル?」
ヤドクが名前を呼ぶ。
返事を待つ黒い瞳が、アルヴィンへ向けられている。
アルヴィンは一瞬だけ視線を逸らした。
その僅かな遅れに、ヤドクも気づいたようだった。
けれど、理由を尋ねようとはしない。
アルヴィンの迷いより、ミオリへ危険が及ぶかどうかの方が重要なのだろう。
そのことが、言い訳を許さない重さで胸に残った。
「お前を調べれば、ミオリとの繋がりを疑われる可能性はある」
アルヴィンはようやく答えた。
「その後、何が起きるのかは私には断言できない。
だから、絶対に一人で離れを出るな。
ベリオンや塔の者に何を言われても、ついていく必要はない。身体にも触れさせるな」
「断り続けて平気なのか」
「平気ではない」
アルヴィンは正直に答えた。
「拒むほど、私がお前について何かを隠していると教えることになる。ベリオンも、簡単には諦めないだろう」
「なら、どうする」
「検査には応じさせない」
今度は間を置かなかった。
その言葉が純粋な善意だけから出たものではないことを、アルヴィン自身は知っている。
それでも、この青年を犠牲にすることで塔へ近づく道だけは選ばない。
今のアルヴィンに決められるのは、それだけだった。
ヤドクはしばらくアルヴィンを見つめていたが、それ以上は何も尋ねなかった。
閉じた本を長椅子の上へ置き、再び窓の外へ目を向ける。
黒い瞳の先には、ミオリが囚われている塔がそびえていた。
あの中にいる少女のことだけを考えながら、ヤドクは塔を見上げていた。
アルヴィンは、その横顔を見つめたまま、塔へ目を向けることができなかった。




