3-3塔に持ち込まれた残り香
昼の光が、塔の白い部屋を静かに満たしていた。
朝ほど鋭くはない光が、窓辺の床をゆっくりと這い、本の頁の端を淡く照らしている。
ミオリは寝台にもたれたまま本を開いていた。
文字は追えている。
けれど、読んだ内容は頭の中へ残らない。
頁をめくるたびに、文字の隙間から昨日流し込まれた知識が顔を出す。
歯車や、魔力を留める芯材や、小さな時計の内部構造が、薬草の説明を押しのけるように浮かび上がってくる。
追い払おうとしても、頭の奥に薄く沈んだそれらは、勝手に形を取り戻してしまった。
「今日は昨日より顔色がいい」
アステルが記録板へ視線を落としたまま言う。
ミオリは小さく頷いた。
「少しだけ」
「眠れたか」
「……少し」
嘘ではなかった。
眠れた時間は確かにあった。
ただ、その眠りは浅く、目を閉じるたびに装置の低い唸りと、焦げたような魔力の匂いが夢の中まで追いかけてきた。
アステルは記録を書き込みながら、小さく息をつく。
「無理をする必要はない」
「してないよ」
「本当に?」
ミオリは少しだけ笑った。
「今日は、まだ」
その笑みは儚く、すぐに消えた。
その時だった。
控えていた研究員が扉を叩く。
「副室長がお見えです」
アステルの眉がわずかに寄る。
「……通せ」
短い言葉に、警戒が混じっていた。
扉が開き、ベリオンが静かに部屋へ入ってくる。
腕には、黒い布で包まれた細長い箱を抱えていた。
「失礼します」
穏やかな声だった。
「室長、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「何の用だ」
アステルが問う。
ベリオンは箱を抱えたまま微笑んだ。
「以前の【想造】の処置後に残った反応と、比較したいものがありまして」
「何を持ってきた」
「まだ分類できていない反応です」
それ以上は言わなかった。
曖昧な答えだった。
アステルは納得したようには見えなかったが、この場で問い詰めることもしなかった。
ベリオンは部屋の中央にある卓へ歩み寄る。
黒い布に包まれた箱を、静かに置いた。
小さな音だった。
木へ何かが触れただけの、ごく軽い音。
けれど、その瞬間だった。
ミオリの胸の奥で、何かが震えた。
思わず息を止める。
痛みではない。
もっと静かで、もっと近い。
遠くへ置いてきたはずの何かが、急にすぐそばまで戻ってきたような感覚だった。
それなのに、胸が勝手に思い出してしまう。
夜の中に溶けるような黒い髪と、白い肌に浮かんだ鮮やかな毒の模様。
そして、名前を呼んでほしいと願った、あの瞳。
あの子。
そう思ったあと、ミオリは胸の内側で、その呼び方をそっと置き直した。
違う。
もう違う。
あの子、ではない。
心の中だけで、小さく名前が形になる。
ヤドク。
その瞬間、胸の奥がもう一度だけ揺れた。
どうして。
なぜ、ベリオンがそれを持っているのだろう。
ミオリの視線は、自然とベリオンの抱えてきた箱へ吸い寄せられる。
あれだ。
あの中にある。
何かが、ヤドクへ触れてきた。
そう思った。
理屈でも、匂いでも、目に見えるものでもなかった。
それでも分かった。あれは、ヤドクに近づいたものだ。
胸がざわつく。
聞きたかった。
あの箱は何なのか、どこで手に入れたのか。
ヤドクに会ったのか、怪我をしていないのか、捕まってはいないのか。
喉まで言葉が上がってきた。
けれど、そこで止まる。
もし、ベリオンが何も知らないのだとしたら。
ここで自分が反応すれば。
ヤドクという名前を口にすれば。
二人が繋がっていることを、自分で教えてしまう。
それだけは、駄目だ。
もし、ベリオンに知られれば、ヤドクはもう隠れていられない。
自分に繋がるものとして調べられ、きっと自由に動くこともできなくなる。
ミオリはゆっくりと指先へ力を込め、本の頁を押さえた。
胸の鼓動だけが少し速くなる。
「ミオリ」
アステルの声だった。
顔を上げる。
彼はもうこちらを見ていた。
「どうした」
「……少し」
声がかすれる。
ベリオンが静かにこちらを見ているのが分かった。
「少し、眩暈がしただけ」
嘘だった。
けれど、初めて自分から選んだ嘘だった。
アステルはすぐには返事をしない。
本当ではない。
そう思ったのだろう。
それでもベリオンの前で問い詰めることはしなかった。
「無理はするな」
それだけ言って、ミオリから視線を外す。
ベリオンはそのやり取りを、穏やかな笑みのまま見ていた。
「今日は照合に必要な資料を確認するだけですので」
その声は柔らかかった。
けれど、ミオリには、彼が何も見逃していないように思えた。
ベリオンは箱を抱え直す。
その瞬間、胸の奥の揺れも少しだけ遠ざかった。
やはり。
あの中だ。
ミオリは何も言わない。
言えない。
ベリオンは軽く一礼すると、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静けさだけが戻る。
アステルはしばらく扉を見つめ、それからミオリへ向き直った。
「本当に、眩暈だけか」
優しい声だった。
責めてはいない。
だからこそ苦しかった。
ミオリは静かに頷く。
「うん」
また嘘をついた。
アステルはその頷きを見つめる。
何かを言おうとして、結局何も言わなかった。
その沈黙が、白い部屋へ落ちる。
ミオリは窓を見た。
窓の外には、止まった時計台と、空を白く霞ませる結界、その向こうにある遠い空が見えた。
胸へそっと手を当てる。
さっきまで感じていた気配はもう薄くなっていた。
近くにいるわけではない。
無事なのかも分からない。
それでも、どこかにいる。
そんな気がした。
ヤドクは、まだ自分をここから連れ出そうと思っているのだろうか。
そうであってほしいと思う気持ちと、もう塔へ近づかず、自分のことなど忘れて自由に生きてほしいという願いが、胸の中で同じ場所に重なっていた。
名前を呼ばれることだけを望んだ、あの静かな瞳だけは、何度目を閉じても消えてくれなかった。
その姿だけは、何度目を閉じても、ミオリの中から消えてくれなかった。




