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想造のファルマコン  作者: 源泉
第三章 少女は塔から髪を垂らさない

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3-2靴底に残る影



ベリオンの研究室には、朝の柔らかさがほとんど入ってこなかった。


魔術塔の上層にあるその部屋は、最上階の白い部屋とは違い、壁も床も灰色の石で囲まれている。


細い窓から差し込む光は、硝子器具の縁で冷たく砕け、黒い記録板の上に薄い線を落としていた。


乾いた紙の匂いと、魔力を通した器具に残る金属に似た匂いが、部屋の中に静かに沈んでいる。


温室の湿った甘さも、リゼリアの衣に残る香油の匂いも、ここには届かない。


扉を叩く音がしたのは、ベリオンが前夜の記録を整理し終えた頃だった。



「どうぞ」



短く返すと、扉が静かに開き、リゼリアに仕える侍女が白い包みを両手で抱えて入ってきた。


侍女は研究室の中へ足を踏み入れてから、灰色の石壁と黒い記録板を一度だけ見た。


城内のどの場所ともあまりにも違う空気に、ほんのわずかに肩が強張ったが、すぐに表情を整えて礼をする。



「リゼリア様より、お預かりいたしました」


「先日の靴ですね」



ベリオンが言うと、侍女は白い包みを研究台の上へ置いた。



「はい。ラーナ殿がお怪我をなさらなかったか、リゼリア様も大変案じておいでです。仕立てに不備があったのであれば、今後のためにも確認していただきたいと」


「それはご丁寧に」



ベリオンは穏やかに微笑んだ。


侍女はその微笑みを見ても、少しも安心した様子を見せなかった。


彼女は主人であるリゼリアの私室に仕える者らしく、余計な言葉を持たない。


だが、目の端だけで研究台の上の包みを追っていた。



「こちらで確認し、必要なことがあればリゼリア様へお伝えします」


「よろしくお願いいたします」



侍女は再び礼をし、音を立てずに部屋を出ていった。


扉が閉まると、研究室にはまた乾いた静けさが戻った。


ベリオンはしばらく白い包みを見下ろしていた。



「仕立ての不備、か」



ひとりごとのように呟く。

その声は、石壁に吸われてすぐに消えた。


ベリオンは手袋をはめた指で布の端を開いた。


中から現れたのは、片方の留め具が砕けた室内履きと、細かく集められた硝子片だった。


柔らかな灰色の布地は、病弱な客人の足を傷つけないように選ばれたものだ。


甲の部分には透明な硝子細工の留め具が縫い込まれていたはずだが、今は片側だけが欠け、残った縁が白い光を鈍く返している。


リゼリアからの手紙も添えられていた。


筆跡は美しく、文面はどこまでも丁寧だった。


ラーナ殿の足に負担がないよう選ばせたつもりでしたが、試し履きの際に留め具が破損してしまいました。


仕立てに不備があったのであれば、今後のためにも確認しておきたく存じます。


ラーナ殿にお怪我がなかったことだけが幸いでした。


柔らかい言葉が、きれいに並んでいる。


どこにも不自然な棘はない。


ベリオンは手紙を読み終えると、軽く息を吐いた。



「本当にお優しい方だ、リゼリア様は」



そう口にしながら、彼の目は少しも笑っていなかった。


リゼリアが本当に仕立ての不備だけを気にしているとは思わない。


彼女は美しいものを手元に置きたがる。


そして、自分の手に収まらないものを見ると、まず形を確かめようとする。


その執着は偏っているが、観察眼は決して鈍くない。


ラーナの小さな乱れを、リゼリアは見逃していない。


靴が壊れたことを謝罪しながら、それを回収し、調べさせる場所まで用意した。


善意の形を崩さないまま、必要なものを自分の手元へ寄せる。



「……見事なものだな」



ベリオンは静かに言った。


ただし、その周到さは彼にも恩恵を与えていた。


この靴が彼の研究室に届いた時点で、ベリオンにとっても十分な価値がある。


彼は手紙を脇へ置き、靴を慎重に持ち上げた。


まず布地を見る。


裂け目はない。


足を入れた跡は浅く、長く歩いた痕跡もない。

履いた者は数歩しか動いていないはずだった。


それでも靴底には、ほんのわずかな重心の乱れが残っている。


踏み出す前に躊躇したような圧と、次の一歩で足元よりも別の場所へ意識を奪われたような傾きが、柔らかな底に薄く残っていた。


単に靴が合わなかっただけなら、もっと違う跡になる。



「足に合わなかった、という説明でも通るが」



ベリオンは靴底を光にかざした。



「それでは、面白くない」



彼は靴を戻し、硝子の留め具を手に取った。

砕けた縁は鋭く、透明な花弁のように薄い。


肉眼で見る限り、ただの破損だった。


歩いた拍子に床の端へ当たり、力の加わった部分から割れた。


そう説明することはできる。


実際、リゼリアへの返答としては、それで十分かもしれない。


しかしベリオンは、硝子片をそのまま判断するつもりはなかった。


研究台の横に置いた薄い結晶板を取り上げ、硝子片の下へ滑り込ませる。


指先からごく少量の魔力を流すと、結晶板の表面に淡い光が走った。


普通の硝子であれば、そこには何も残らない。


職人の手癖や、仕上げに使われた魔力の薄い跡が見えることはあるが、それは表面に沿って均一に広がるものだ。


けれど、この硝子片の縁には、別のものがあった。


肉眼では見えないほど薄い。


それでも結晶板越しには、湿った影のような滲みが、割れた部分に沿って細く残っている。



「腐食……ではないな」



ベリオンは硝子片を少し傾けた。


結晶板の上で、湿った影のような滲みが、光の角度に合わせて薄く浮かび直す。


酸や薬液なら、縁はもっと乱れ、浸食の広がり方も不規則になる。


生物由来の毒なら、触れた場所から外側へ崩れていく。


魔力による劣化なら、流れの向きに従って歪みが残る。


けれどこれは、そのどれとも違っていた。


硝子を蝕むようでありながら、形そのものは乱れていない。


むしろ、見えない線に従って薄く留まっている。


壊すためだけの力ではなく、広がるためだけの毒でもない。



「形を保っている」



ベリオンは低く呟いた。



「壊したものの跡ではなく、形を持ったものの跡か」



自分の声を聞きながら、彼は硝子片を一つずつ並べ、同じように結晶板の上へ置いた。


どの破片にも、濃淡の差はあれ、同じ湿った影がある。


留め具の内側、靴底の縁、そして足が触れていた布の深い部分にも、ごく微かな反応が残っていた。


報告書のために結果を書き込んでいく。


室内履き、右足甲部硝子留め具破損。

外的衝撃のみでは説明困難。

破断面に、毒性に近い反応を示す微弱な魔力残滓あり。

ただし、通常の魔力とも、既知の毒とも一致せず。


そこで、彼の指が止まった。



「毒が魔力を帯びているのか。魔力が毒の性質を得ているのか」



そう呟いてみても、どちらもしっくりこなかった。


この反応を毒と呼んでしまえば、大事なものを取り落とす気がした。


ベリオンは硝子片を見下ろしながら、塔の最上階で記録してきた幾つもの反応を思い出す。


想造士の処置後に残る魔力の揺れ。


この世界の魔術では説明しきれない、異なる構造を持った残滓。


物がこの世界に形を持つ瞬間に、ほんの一瞬だけ生じる歪み。


ベリオンはアステルほど想造士の主担当ではない。


それでも、補助実験と記録の確認を通じて、その反応を知らないわけではなかった。


想造士が何かを形にした後、周囲には独特の跡が残る。


既存の魔術で素材を変化させた場合とは違う。


魔力を注いで変質させたというより、初めからそこにあったはずのものとして、世界の側を書き換えたような跡。


この硝子片に残る滲みは、それに似ていた。

完全には一致しない。


似ていると言い切るには、まだ情報が足りない。


それでも、ただの偶然として片づけるには、反応が整いすぎていた。



「想造士の反応に近い」



ベリオンは記録板にはまだ書かず、声だけでその言葉を確かめた。


研究室は静かだった。


誰も聞いていない。


だからこそ、その言葉は紙に記すよりも少しだけ自由だった。



「ただし、同一ではない。魔力由来の毒に思えるが、同じではない。魔術障害に似ているが、障害ではない。想造の残滓に近いが、単なる物の生成とも違う」



ベリオンは結晶板に指を添え、滲みの縁を見つめる。



「名づけるには早い。だが、見なかったことにするには遅い」



彼は記録板へ視線を戻し、続きを書き加えた。

自然発生の魔力変異とは異なる。


肉体由来の魔術障害としては、反応の構造が不自然に整っている。


想造士の【想造】処置後に残る魔力残滓と、一部構造が類似。


対象ラーナ、継続観測の必要あり。


黒い板の上に並んだ細い文字を、ベリオンはしばらく見つめた。


ラーナ殿。

病弱な客人。


アルヴィン殿下が連れて歩く、黒髪の青年。


リゼリアが美しいと評し、ベリオン自身も一度見ただけで違和感を覚えた相手。


あの青年は、ただ肌が白いだけではない。


ただ何かを隠しているだけでもない。


手袋の下にあるものは、おそらく病ではない。


そして、あの魔力は、人が自然に抱えるものとしてはあまりに奇妙だった。



「面白い」



気づけば、ベリオンは小さく呟いていた。


その声は先ほどよりも少し低かった。


すぐに彼は、自分の思考が熱を持ち始めていることに気づく。


熱は、観測を濁らせる。


そう知っているから、ベリオンは硝子片から一度手を離した。


もしも。


声には出さずに考える。


もしも、想造士が物だけでなく、人に近いものを生み出したのだとしたら。


歩き、話し、他者の言葉を理解し、感情に応じて魔力を揺らす存在。


それが偶然生まれたものなのか、想造士自身の意思によるものなのかはまだ分からない。


だが、可能性としては十分に記録する価値がある。


想造士は一人しかいない。


それは、この国にとっても、研究にとっても、あまりに不安定な状態だった。


想造士が眠れば成果は止まり、拒めば予定は崩れ、死ねばすべてが失われる。


国はそれを理解していながら、塔の結界と管理局の数字で安心しようとしている。


だが、ベリオンは安心していなかった。

一つしかないものは、貴重であると同時に脆い。


どれほど厳重に囲っても、失われる時は失われる。


ならば、増やせるのか。


同じ力を持つ存在を、あるいは同じ現象を起こせる器を、想造士から生み出せるのか。


ラーナ殿がその一例であるならば、彼は客人ではなく、答えに近いものになる。



「……早いな」



ベリオンは自分を戒めるように呟いた。

ラーナ殿が想造された生命である。


そんな言葉は、今の段階では早すぎる。


仮説は、形になるまで仮説のまま置くべきだった。


ただ、観測対象の扱いは改める必要がある。


ベリオンは硝子片を小さな容器へ移し、室内履きを白い布の上へ戻した。


靴底と内側の残滓は、後で別の結晶板に写して保存する。


これ以上魔力を流せば、反応を崩す可能性がある。


触れすぎれば壊れるものは、花や硝子だけではない。


「リゼリア様へは、仕立ての不備だけでは説明しきれない、と」


ベリオンは独り言のように言いながら、別の紙を取った。


文面は穏やかに整える。


留め具の破損は、単なる仕立ての不備だけでは説明しきれない部分がございます。


ラーナ殿のお怪我を防ぐためにも、靴と破片はこちらで詳細を確認させていただければ幸いです。


新しい履物をご用意される際には、硝子細工を避け、柔らかい布と軽い留め具をお選びになるのがよろしいかと存じます。


どの言葉も、リゼリアが望む形に沿っている。


彼女の気遣いを否定せず、仕立ての問題として処理し、靴を預かる理由も用意する。


核心はどこにも書かない。


リゼリアはこの返書を読み、ベリオンが何かを見つけたことには気づくだろう。


しかし、何を見つけたかまでは分からない。

その距離が、今はちょうどよかった。


ベリオンは封を閉じ、侍女へ渡すための小さな呼び鈴に指を触れた。


澄んだ音が研究室の灰色の壁に淡く響く。


その余韻が消えるまで、ベリオンは研究台の上に残された靴を見つめていた。


美しいものを手元に置きたがるリゼリアと、外側を整えることで安心したがる宮廷。


そのどちらにも、この靴の中に残ったものは扱えない。


湿った影のような滲みは、結晶板の薄い光の下で、まだ微かに形を保っている。



「客人、ね」



ベリオンは低く呟いた。



「便利な言葉だ」



黒い記録板の端へ、最後に一行だけ追記する。


対象ラーナ、通常分類から除外。


それを書き終えてから、彼は静かに息を吐いた。


まだ名前を与えるには早い。


けれど、ただの人間として記録するには、もう遅い。

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