3-1髪を梳かない塔の朝
塔の朝は、白かった。
窓から差し込む光も、壁も、寝台の薄い布も、ミオリの膝にかかる羽織も、すべてが同じ色へ沈んでいくように見える。
その白さは清潔で、静かで、何も間違っていない顔をしていた。
けれどミオリは、朝の光が窓枠を越えて部屋へ入ってくるたび、どこかで薄い膜を通っているような違和感を覚えた。
先日の侵入者騒ぎのあと、塔の結界は張り直されている。
格子の向こうに見える空も、城壁も、遠くの庭も、昨日までと同じ形をしているはずなのに、光の端だけがほんの少し滲んでいる気がした。
青は少し薄く、白は少し冷たく、外の世界は、前よりも遠い場所に置き直されたようだった。
ミオリは窓辺の椅子に座り、膝の上に開いた本へ視線を落とした。
頁には、薬草の効能と保存方法が細かな文字で記されている。
けれど、その文字は目の前を通り過ぎるばかりで、意味になって胸の内側へ沈んでこない。
指先で頁の端を押さえたまま、ミオリは格子の外をぼんやりと眺めた。
塔に閉じ込められた少女の話を、ふと思い出した。
今読んでいる本とは、何の関係もない。
この世界の物語でもない。
前の人生で、どこかで読んだか、聞いたかした古い童話だった。
塔の上に閉じ込められた少女がいて、その少女は長い髪を下へ垂らす。
下から誰かが呼ぶと、髪は梯子のようになり、塔の外と内側を繋ぐ。
ラプンツェル。
その名を思い出した瞬間、ミオリは自分の髪へ視線を落とした。
朝のうちに、女の研究員が最低限整えていった髪は、肩の少し下で静かにまとまっている。
櫛目は通っていた。
乱れてもいない。
けれど、それはミオリが自分の手で梳いたものではなかった。
櫛も鋏も、細い針も、肌を傷つけるかもしれないものはこの部屋に置かれない。
必要なら研究員が持ってきて、必要が終われば持ち去っていく。
その気になれば、櫛の一本くらい【想造】することはできるのだろう。
形も、材質も、前の人生で見たものを思い出せば、きっと難しくはない。
けれどミオリは、そうしようと思ったことがなかった。
自分の髪を自分で梳くという行為が、どこか遠かった。
髪は乱れれば整えられ、身体は弱れば休まされ、魔力値が下がれば薬湯を飲まされる。
それらはすべて自分のことのはずなのに、ミオリには、自分の外側で誰かが管理しているもののように思える。
鏡の中に映る白い肌も、細い指も、朝になると整えられる髪も、自分のものだと知っている。
知っているのに、時々、少し遅れてそこへ入っているような気がした。
前の人生の記憶があるからなのかもしれない。
会社へ向かう朝の慌ただしさ、目覚ましの音、洗面台の冷たい水、電車の窓に映る疲れた顔。
そういうものを覚えているせいで、今の自分の朝は、どこか他人のもののように見える。
この部屋で目を覚まし、研究員の問いに答え、薬湯を飲み、決められた時間に本を読む。
それが今のミオリの朝だった。
塔の少女は髪を垂らして誰かを呼んだのだろう。
けれどミオリの髪は、垂らせるほど長くない。
たとえ伸ばしたとしても、きっと誰にも届かない。
窓の下には厚い壁があり、格子があり、張り直された結界があり、塔の高さがある。
それらすべてを越えてまで、誰かが呼んでくれるとは思えなかった。
そう思おうとした時、胸の奥で、かすかな声が揺れた。
白い窓の外から、かつて自分の名を呼んだ声。
あれは夢ではなかった。
けれどミオリは、その声の主の名を、今はまだ胸の奥にしまい込んだ。
呼べば何かが動いてしまう気がして、怖かった。
ミオリは本へ視線を戻そうとして、窓の外に見える時計台に目を止めた。
城の端に立つ古い時計台は、細い尖塔の下に大きな文字盤を抱えている。
けれど、その針はもう動いていない。
かつては城中に時を知らせていたのだろうし、ミオリも窓辺からその針を眺めるのが好きだった。
今は誰も、あの針を見上げる必要がなくなった。
小型の時計魔導具が広まったからだ。
一度魔力を込めれば、数年は正確に時を刻み続ける小さな時計。
それは、ミオリの中にあった前の世界の知識を、アステルがこの世界の魔術へ繋いで形にしたものだった。
ミオリは歯車の形を思い出し、アステルは魔力を留める芯材を選んだ。
二人で作ったものが、この国の人々の手に渡り、誰もが自分の時を持つようになった。
その結果、城の時計台は止まった。
ミオリは止まった針を見つめる。
自分とアステルが進めたはずの時間が、あそこで止まってしまったように見えた。
「……」
本の頁が、膝の上でわずかに揺れる。
指に力が入っていないのだと気づいて、ミオリはゆっくりと本を押さえ直した。
再開された【想造】の疲れは、まだ身体の奥に残っている。
昨日よりは楽になったと研究員には答えた。
眠れたかと問われれば、少し眠れたと答えることもできた。
食事も、決められた分は口にした。
だから記録の上では、ミオリは回復に向かっているのだろう。
けれど、身体の内側にはまだ、魔力が通り抜けた後の気持ち悪さが残っていた。
血の流れとは違う道を、何か冷たいものが撫でていく感触。
自分で知りたいと思ったわけではない知識が、薄い刃のように頭の奥へ差し込まれる感覚。
小型時計の内部構造、歯車の噛み合う角度、魔力を長く留めるための芯の形。
それらが本の文字の隙間から、ふいに浮かび上がることがある。
ミオリは瞬きをした。
薬草の効能を読んでいたはずなのに、頁の上の線が一瞬、歯車の歯先に見えた。
それを追い払うように目を閉じると、今度は部屋の奥に残った匂いが鼻の奥を刺した。
焦げたような匂い。
それは火の匂いではなく、紙や木が燃えた時のものとも違っていた。
装置が起動し、魔力が結晶板を通り、ミオリの身体を通過した時にだけ生まれる、冷たく焦げたような不快な匂いだった。
白い壁も、寝台の布も、何もかも清潔に整えられているのに、その匂いだけは薄く残っている。
ミオリはそれを吸い込まないように、静かに息を浅くした。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
研究員の足音ではなかった。
彼女たちは必要なものを運ぶ時、柔らかく歩こうとして、かえってわずかな迷いを床に残す。
管理局の使者は、踵を均等に鳴らして歩く。
けれど、その足音は急がず、乱れず、重すぎもしなかった。
石の床に落ちる音が、一定の間隔で近づいてくる。
ミオリは顔を上げる前に、それが誰か分かった。
指先の力が、ほんの少し抜ける。
胸の奥に固まっていた息が、静かにほどけた。
扉の前で足音が止まり、短い間のあと、控えていた研究員が扉を開ける。
「ミオリ」
アステルの声がした。
正式な場で、彼はミオリをそう呼ばないことがある。
管理局の者がいる時や、記録に残る場では、彼女は【想造士】になる。
対象、被験者、保護対象。
そう呼ばれるたびに、ミオリは自分の名前が部屋のどこかへ片づけられてしまうような気がした。
けれど今、アステルはミオリと呼んだ。
それだけで、胸の奥に小さな温度が灯る。
「おはよう、アステル」
声に出してから、少し掠れていることに気づいた。
アステルも気づいたのだろう。
彼は部屋に入ると、まずミオリの顔色を見て、次に膝の上の本と、指先の位置を見る。
そうしてから、何も指摘しないまま近づいてきた。
「読めているのか」
「文字は見えてる」
「内容は?」
ミオリは少しだけ考えた。
嘘をつくほどのことではない。
けれど、本当のことを全部言えば、アステルの顔が曇ることも分かっていた。
「少し、逃げていく」
そう答えると、アステルは一瞬だけ目を伏せた。
責めるでもなく、慰めるでもなく、彼はミオリの隣に置かれた小さな卓へ視線を移す。
「昨日の処置の影響が残っている。今日は無理に読まなくていい」
「でも、読んでいることになっているでしょう」
「記録のために本を開く必要はない」
「記録には、開いていた方が安心する人もいると思う」
ミオリが静かに言うと、アステルは返事をしなかった。
その沈黙に、二人とも慣れていた。
本当は、アステルが悪いわけではない。
ミオリはそれを知っている。
前の人生で、会社というものの中にいた。
誰か一人が優しくても、仕組みそのものは変わらないことがある。
正しいと思っても、決裁が下りなければ止められないことがある。
上から来た言葉が、下で働く人間の息の仕方まで決めてしまうことがある。
だからミオリは、アステルを責められなかった。
責められないことが、時々、責めるより苦しかった。
アステルは懐から小さな包みを取り出した。
薄い紙に包まれたそれを開くと、淡い琥珀色の飴がひとつ、朝の光を受けて静かに透けた。
「喉にいい。蜂蜜を使っている」
薬です、とは言わなかった。
処方だとも、必要だとも言わなかった。
ただ、喉にいい、と言った。
その言い方が、ミオリには少しだけ嬉しかった。
薬湯のように決められたものではなく、検査のための道具でもなく、記録に書かれる数値でもない。
アステルが選んで、持ってきたもの。
ミオリは本を閉じ、両手で飴を受け取った。
指先が少し冷えていたせいか、飴の丸みは小さな石のようにも感じた。
「甘い?」
「蜂蜜だからな」
「前にも、似たようなのをもらった気がする」
「前のものより、少し柔らかくした。噛まなくても溶ける」
「私、噛んでた?」
「噛もうとして、途中で諦めていた」
アステルの声がわずかに柔らかくなる。
その記憶が彼の中に残っていたことに、ミオリは少し驚いた。
そして、胸の奥が静かに温かくなった。
「覚えてたんだ」
「覚えている」
短い返事だった。
けれど、その一言は、ミオリの中にゆっくり沈んだ。
この人は、自分を記録として見ているだけではない。
魔力値や処置時間や睡眠の深さだけではなく、飴を噛もうとして諦めたことまで覚えている。
そう思うと、嬉しいのに少し怖かった。
アステルは数少ない安心できる相手だった。
この足音を聞くと、身体の力が抜ける。
この声に名前を呼ばれると、自分がただの【想造士】ではないような気がする。
けれど、アステルもまた塔の中の人だった。
扉の外へ続く鍵を持っているように見えて、その鍵で開けられる場所は、いつも塔の内側だけだった。
ミオリは飴を口へ運ぶ前に、窓の外を一度見た。
止まった時計台が、結界越しの光の中で白く立っている。
「時計台、もう動かないのかな」
アステルも窓の方を見た。
「今は必要とされていない。小型時計の方が正確だ」
「私たちが作ったから?」
問いかけは軽く出したつもりだった。
けれど、思ったよりも深いところから声が出た。
アステルはすぐには答えなかった。
その横顔を見て、ミオリは少し後悔する。
困らせるつもりはなかった。
ただ、止まった時計台を見ると、いつも思ってしまう。
前へ進むために作ったものが、別の何かを止めてしまうこともあるのだと。
「再現したのは、君だけではない」
アステルは静かに言った。
「私も関わった」
「うん」
「だから、あれを君だけのせいにするな」
ミオリは返事をしなかった。
その言葉は優しかった。
優しいからこそ、胸の中でどこにも置けなかった。
誰かのせいではない。
けれど、自分の中を通って生まれたものが、この国の形を少しずつ変えていく。
それは確かだった。
時計も、装置も、これから作らされるものも、きっと同じように。
ミオリは飴を口に含んだ。
蜂蜜の甘さが、舌の上にゆっくり広がる。
思っていたよりも柔らかく、角のない味だった。
喉の奥へ落ちていく甘さに、少しだけ息が楽になる。
ミオリは微笑んだつもりだった。
アステルがそれを見て、安心したように目を細める。
その顔を見ていたかった。
けれど次の瞬間、部屋の奥に残っていた焦げたような匂いが、甘さの隙間へ入り込んできた。
装置が起動した時の匂い。
結晶板が低く唸り、魔力が身体の中を通り抜け、自分のものではない知識が頭の奥へ沈んでいく時の匂い。
蜂蜜の甘さより先に、それが鼻の奥でよみがえる。
ミオリの喉がわずかに動いた。
飴は甘い。
確かに甘い。
けれど、その甘さを覚えるより早く、白い部屋に染みついた焦げたような魔力の匂いが、ミオリの内側へ静かに戻ってきた。
アステルは何も言わなかった。
ただ、ミオリが息を整えるまで、そばに立っていた。




