3-4芳華の屋台に立つ狼
リゼリアがラーナ殿へ靴を贈る数日前のことだった。
芳華の国から来たキャラバンは、すでに王都の風景へ馴染み始めていた。
初日のように一目見ようと押し寄せる人波は落ち着いたものの、季節ごとの交易市は今も華やかな賑わいを保っている。
色鮮やかな布を垂らした屋台の間を人々が行き交い、商人の声に硬貨の触れ合う音が重なる。
焼き菓子や香辛料の匂いに、芳華から運ばれてきた花と香油の甘さが混じり、整然とした王都の大通りを普段とは違う空気で満たしていた。
リゼリアは二人の侍女と護衛を従え、磨かれた石畳の上をゆっくりと歩いていた。
淡い外套で装いを抑えていても、周囲の者たちは彼女の身分を察し、進む先から自然に道を開けていく。
誰から教えられるまでもなく頭を下げる人々を眺めながら、リゼリアは並んだ屋台へ気のない視線を流した。
本当なら、この隣にはアルヴィンがいるはずだった。
交易市が始まる前、リゼリアは芳華の珍しい品を一緒に見に行かないかと彼を誘っていた。
けれど、アルヴィンは忙しさを理由に断った。
第一王子である彼が、婚約者との外出より政務を優先すること自体は、責められることではない。
それでも後日、彼が城に滞在している客人――ラーナ殿を伴い、キャラバンを訪れていたと知った時、胸の内に小さな棘が残った。
自分には時間がないと言いながら、あの客人のためなら都合をつけられたのか。
そう考えるのは子どもじみていると分かっていたからこそ、リゼリアは不満を表情には出さなかった。
アルヴィンが客人を案内することに、何も不自然なところはない。
けれど、正しい理屈が不愉快さまで消してくれるわけではなかった。
「殿下もいらっしゃれればよかったのですけれど」
後ろを歩く侍女が、主人の心を宥めるように言った。
リゼリアは前を向いたまま微笑んだ。
「お忙しい方だもの。仕方がないわ」
声にも表情にも、不満は滲ませなかった。
ただ、陳列された異国の装飾品を見ても、いつも以上に粗が目についた。
刺繍の糸は華やかだが、配色が騒がしい。
硝子細工は珍しいが、宮廷へ持ち込むには品がない。
薬草も香辛料も、匂いが強いだけで心を惹くほどではなかった。
「やはり、目新しいというだけね」
小さく漏らした声に、侍女が返事を探していると、風向きが変わった。
大通りを満たす雑多な匂いの中へ、白い花を思わせる澄んだ香りが流れ込んでくる。
甘さはあるのに重くなく、水辺を渡る朝の風のように冷たさを残す香りだった。
リゼリアは足を止め、その匂いが流れてきた方角へ顔を向けた。
深紅と灰色の布を重ねた天幕の下に、幾つもの小瓶が並べられていた。
透明なものや薄紅色のもの、蜜のような琥珀色をしたものが陽光を受け、それぞれ小さな宝石のように輝いている。
その奥に、一人の青年が立っていた。
背中の中ほどまで伸びた銀髪を、後ろで緩く束ねている。
深い褐色の肌は日の光を受けて赤銅色に艶めき、眠たげな琥珀色の瞳には、柔らかな微笑みと同じ穏やかさが浮かんでいた。
深灰色の衣は身体の線に沿い、露出した腕には、荷を運ぶ商人というより刃を扱う者のしなやかさが見える。
異国の売り子としては整いすぎていたが、貴族のような堅苦しさもなかった。
丁寧な装いと穏やかな笑みの奥に、森の獣を思わせる静かな危うさが残っている。
リゼリアの視線に気づいた青年は、客へ向けていた笑みをそのままに、胸元へ手を添えて礼をした。
「ようこそお越しくださいました」
周囲の商人たちのように、突然現れた高貴な客を前に声を上擦らせることはなかった。
目を伏せすぎることも、媚びるように笑うこともない。
リゼリアをまっすぐに見ながら、越えてはならない距離だけを正確に守っている。
リゼリアはその態度を気に入った。
「こちらは、すべて香油なの?」
「はい。芳華で育てた花や果実から採ったものです。香りを楽しむもののほか、衣や髪につけるものもございます」
「ずいぶん上手にこちらの言葉を話すのね」
「客商売に言葉は必要ですから」
青年は柔らかく答え、棚の中から小さな硝子瓶を一つ選び取った。
「よろしければ、こちらを」
蓋を緩めた瞬間、先ほど風に混じっていた白い花の香りが、さらに鮮明になって広がった。
リゼリアは瓶へ顔を近づける。
「百合に似ているけれど、少し違うわ」
「芳華の南部で咲く白い花です。咲いている間は香りが薄いのですが、花弁を摘んで油へ移すと、夜が深まるほど甘くなります」
「夜になると?」
「肌の熱で、少しずつ香りが開きます。強く主張する香りではありませんので、他の香油と重ねても濁りません」
青年の説明は流暢だったが、買わせようと急かす様子はない。
ただ必要なことだけを伝え、選ぶ権利が初めからリゼリアにあるかのように待っている。
その控え方さえ、彼女には好ましく思えた。
「これをいただくわ」
「ありがとうございます」
リゼリアが香りを確かめていた瓶を返すと、青年は受け取るために半歩近づいた。
白い花の香りが、リゼリアの衣に焚きしめられた香と混ざる。
その瞬間、青年の琥珀色の瞳が、ごくわずかに細められた。
変化は一瞬で、リゼリアも侍女たちも気づかなかった。
青年は何事もなかったように瓶の蓋を閉じ、柔らかな布へ包んでいく。
「あなたは香油を売るために、芳華からいらしたの?」
リゼリアの問いに、ヴァルグは包みを差し出しながら笑った。
「私は商人というより、キャラバンの護衛です。人手が足りない時には、こうして売り子も務めております」
「護衛なのね」
リゼリアの視線が、露出した腕から腰元へ流れた。
武器は目立たないよう収められているが、立ち姿には隠しきれない均衡があった。
美しいだけではなく、役に立つ。
そう思うと、青年の価値が一段上がったように感じられた。
「名は何というの?」
「ヴァルグと申します」
聞き慣れない響きを、リゼリアは一度だけ胸の内でなぞった。
「ヴァルグ」
自分の声で呼んでみると、青年は嬉しそうに目元を和らげた。
もちろん、その表情のどこまでが本心なのか、リゼリアには分からなかった。
けれど彼女は、自分に向けられる微笑みの裏を読む必要などないと信じて生きてきた。
「差し支えなければ、お名前を伺ってもよろしいでしょうか。次にお越しの折には、お好みに合いそうな品を取り置いておきます」
ヴァルグが尋ねると、侍女が一歩前へ出た。
「こちらはアルマード公爵家のご令嬢、リゼリア様でいらっしゃいます。第一王子アルヴィン殿下のご婚約者です」
ヴァルグはわずかに目を見開いた。
驚きは、異国の売り子として不自然にならない程度に抑えられている。
「これは失礼いたしました」
彼はすぐに姿勢を正し、先ほどより深く頭を下げた。
「リゼリア様とは存じ上げず、申し訳ございません」
「気にすることはないわ。名を知らなかったからこそ、あなたは自然に話せたのでしょう」
リゼリアは機嫌よく答えた。
だが、ヴァルグの内側では、事前に与えられていた王城の情報が静かに組み直されていた。
アルマード公爵家の令嬢であり、第一王子の婚約者。
そのうえ、衣には塔の薬品と結界魔術の残り香が染みついている。
想定していたよりも、はるかに価値のある相手だった。
「芳華には、ほかにも変わった香油があるのでしょう?」
「もちろんございます。今回は運び切れなかった品も多く、王都へ持ち込んだものはほんの一部です」
リゼリアは並べられた小瓶を眺めながら、先ほどまで胸に残っていた不愉快さが薄れていることに気づいた。
自分との外出を断ったアルヴィンが、ラーナ殿とはこの市へ足を運んだのなら、今度はこちらから珍しいものを王城へ招けばいい。
自分が見つけたものを、あとから彼に見せるのも悪くなかった。
「では、王城へいらしてはいかが?」
ヴァルグは顔を上げた。
「王城へ、でございますか」
「ええ。芳華の品をもう少し見てみたいの。殿下も異国の文化には関心をお持ちでしょうし、塔の研究者たちなら、香料や薬草の扱いにも興味を示すかもしれないわ」
アルヴィンが誘いを断ったことには触れなかった。
その代わり、まるで彼のために異国の品を選ぼうとしている婚約者のように、リゼリアは美しく微笑んだ。
「滞在中に一度、品を持っていらっしゃい。話はこちらで通しておくわ」
ヴァルグはすぐには返事をしなかった。
分をわきまえる商隊の護衛らしく、突然与えられた栄誉に戸惑う間を置いてから、再び深く頭を下げる。
「身に余るお言葉にございます。キャラバンの者たちも、さぞ喜ぶことでしょう」
「楽しみにしているわ、ヴァルグ」
リゼリアは香油の包みを侍女へ渡し、満足げに屋台を離れた。
自分だけが、人混みの中に隠れていた美しい異国の青年を見つけた。
そう思うと、自分との外出を断りながらラーナ殿とはここを訪れていたことへの小さな不快感さえ、もう大したものではなくなっていた。
侍女と護衛を従えたリゼリアの姿が人波の向こうへ消えるまで、ヴァルグは恭しく頭を下げていた。
花の香りの奥に混じっていた、薬品と結界魔術の残り香。
あれは王城の外を歩くだけでつく匂いではない。
あの女は塔へ近づける。
やがて身体を起こした時にも、口元には同じ柔らかな笑みが残っている。
隣の屋台で布を畳んでいた仲間が、一度だけこちらを見たが、ヴァルグは視線を返さなかった。
必要な合図は、あとで送ればいい。
彼は香油の棚にできた隙間を詰め、何事もなかったように次の客を迎える支度を整えた。
第一王子の婚約者であり、塔の残り香をまとい、王城へ人を招き入れられる女。
彼女が欲しがるのは、美しく珍しい、自分だけが見つけたと思えるものだった。
満たすのは難しくない。
人目を忍ばず王城へ入れるというだけでも、得られるものは大きかった。
以前、夜の王城へ忍び込んだ時には、塔への道筋は掴めなかった。
ただ一つ収穫があった。
王から預かった指輪に残るものとよく似た、異質な魔力の匂いを持つ青年と出会ったことだ。
あの青年が何者なのか、なぜ王城にいるのかも、まだ分からない。
だが、リゼリアが開く門の先には、顔も名も知らない【想造士】がいるはずだった。
連れ帰れ。
無理なら、壊してしまえ。
旅立つ前に与えられた王の命令は、今も少しも色褪せていない。
ヴァルグは王城の背後にそびえる塔へ、一度だけ目を向けた。
その意味を誰にも悟らせないまま、柔らかな笑みを深める。
道は開いた。




