2-22 毒を削ぐ蛇
アルヴィンたちを招いた茶会を終えて私室へ戻ってからも、リゼリアの袖には温室の花の香りが残っていた。
侍女が背後に立ち、髪に挿していた翡翠の飾りを一つずつ外していく。
白金の髪が肩へ流れ、深紅のドレスの襟元から、温室の湿った甘さがかすかに立ちのぼった。
鏡の中のリゼリアは、いつも通り美しかった。
けれど、その瞳だけは、鏡の中の自分ではなく、別のものを見ている。
黒い髪と白い肌を持つあの客人が、温室の光の中で礼をした時の姿。
整いすぎた所作の奥に残るぎこちなさや、手袋に隠された指先がこちらの言葉に反応した一瞬が、リゼリアの中で静かに浮かび上がる。
そして何より、アステルの名を聞いた時に生まれた、ほんのわずかな間が忘れられなかった。
リゼリアは外された耳飾りを指先で転がしながら、小さく微笑んだ。
反応はあった。
それが何を意味するのかまでは、まだ分からない。
けれど、触れた場所が間違っていなかったことだけは分かる。
扉の向こうで侍女の声がした。
「ベリオン様がお見えです」
「通してちょうだい」
リゼリアは鏡から視線を外さなかった。
やがて扉が開き、ベリオンが静かに入ってくる。
灰白のローブは温室の花の香りなど少しも纏っておらず、研究室の冷えた空気をそのまま持ち込んできたようだった。
彼は穏やかに礼をする。
「お呼びとのことでしたので」
「ええ。今日の茶会のことを、あなたにも聞かせておこうと思って」
リゼリアは侍女たちへ目配せした。
彼女たちは慣れた動きで一歩下がり、部屋の端で控える。
完全に人払いをするほどではない。
けれど、何を聞いても表情を変えない者だけが残された。
「ラーナ殿は、菓子にほとんど手をつけなかったわ」
リゼリアは鏡越しにベリオンを見た。
「病のせいで食べられないものが多いと、殿下はおっしゃっていたけれど」
「殿下らしい説明ですね」
「ええ。とても自然だったわ」
リゼリアは微笑んだ。
「けれど、ラーナ殿は菓子そのものを見ていなかった。もっと別のものを見ているようだったの」
ベリオンは表情を変えずに聞いている。
その沈黙は、続きを促すものだった。
「私が一番気になったのは、アステル様の名を出した時に、一瞬だけ黙ったことね」
「ほう、アステル様の名に」
「ええ」
リゼリアはゆっくり頷く。
「あなたが塔の話をなさった時にも、似たような反応があったのでしょう?」
「反応と言えるほど大きなものではありませんでしたが、記録する価値はありました」
「私が見たものも同じよ。大きな反応ではないわ。けれど、何も知らない者の顔ではなかった。
殿下も、少し早く話を引き継いだように見えたわ」
リゼリアはそこで、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「でも、それで何かを決めつけることはできない」
「ええ。塔に関わる者でなくとも、塔という言葉やアステル様の名に反応する理由は作れます」
「そういうところが、あなたは退屈なのに便利ね」
「退屈であることは、観測には有利です」
ベリオンは微笑んだ。
その微笑みは、リゼリアのものとは違う。
リゼリアの微笑みが花の香りを含むなら、ベリオンの微笑みは、磨かれた硝子の器に残る冷たさに似ていた。
「それから、もうひとつ」
リゼリアは指先の耳飾りを卓の上に置いた。
金の細工が小さく鳴る。
「あの方、少しアステル様に似ていないかしら」
ベリオンの瞳が、ほんのわずかに細くなった。
「アステル様に、ですか」
「馬鹿げているでしょう」
リゼリアは自分でそう言い、鏡の中で笑った。
「髪も、瞳も、声も、何も似ていないもの。アステル様は淡金で、薄氷の瞳をしていらっしゃる。ラーナ殿は黒くて、影のようだわ」
「では、どこが」
「目を伏せる時の静けさ」
リゼリアは少し考えるように、鏡の中の自分から視線を落とした。
「感情を奥へ沈めるような間。礼をした時の、整いすぎた角度。人から少し離れたところに立っているような、美しさ」
ベリオンは黙っていた。
「顔ではないわ。色でもない。ただ、美しさの質が、ほんの少し似ているの」
「興味深い観察ですね」
「あなたなら笑うかと思ったわ」
「いいえ。リゼリア様の目は、美しいものに関しては正確です」
ベリオンは穏やかに言った。
「外見ではなく、印象の類似。記録しておく価値はあります」
「記録ばかりね」
「記録できるものは、いずれ輪郭を持ちます」
その言葉に、リゼリアは満足げに目を細めた。
形になれば手で掴めるし、手で掴めるものなら、いずれ整えることもできる。
「不用意に刺激することはおすすめしません」
ベリオンが続けた。
「殿下が庇っている相手です。反応が大きく出れば、観測どころではなくなる可能性もあります」
「けれど、乱れた時の方が見えるものもあるのでしょう?」
リゼリアは鏡越しに尋ねる。
ベリオンは、否定しなかった。
「乱れ方にも、価値はあります」
「やっぱり、あなたは研究者ね」
「リゼリア様も、ずいぶん研究者向きの目をお持ちです」
「それは光栄ね」
リゼリアは立ち上がった。
侍女がすぐにドレスの裾を整える。
「美しいものを見分けているだけよ」
ベリオンは深く頭を下げた。
リゼリアは窓辺へ歩き、そこから見える温室の硝子屋根を見下ろした。
光を受けて白く輝く屋根の下に、先ほどの茶会の光景が重なって見える。
白い卓布の向こうに座っていた黒髪の青年と、こちらの言葉に反応して手袋の中でわずかに動いた指。
あれがただの病弱な客人なら、もっと美しく見える場所と形を与えてやればいい。
塔の事件に関わる危険なものなら、その危険だけを削ぎ落とせばいい。
壊す必要も、傷つける必要もないが、危険なままでは傍に置けない。
毒を削ぎ、弱らせ、扱える形に整えてしまえば、あの美しさを損なわないまま、自分の手の届く場所へ置ける。
「見舞いの品を用意するわ」
リゼリアは言った。
「病弱なお客様を気遣うだけですもの」
「形式としては、何も問題ありませんね」
ベリオンは穏やかに答えた。
「次にラーナ殿がどう反応するか、私も興味があります」
リゼリアは笑った。
「観測対象が乱れるのは、好ましくないのではなくて?」
「制御できる範囲であれば、むしろ有益です」
そう答えるベリオンの声は、やはり少しも熱を持たなかった。
ベリオンが部屋を去ったあと、リゼリアは侍女を呼び、贈り物の箱を用意させた。
白く上質な箱の内側に、薄い絹が敷かれていく。
そこへ、肌に負担が少ないとされる薬草茶と、柔らかな黒い手袋が置かれた。
手袋は、茶会でラーナが身につけていたものよりもずっと薄く、指先の縫い目まで美しい。
肌を守るためのものというより、白い手をさらに美しく見せるためのものだった。
「黒は似合っていたわ」
リゼリアは手袋を指先でなぞる。
「けれど、今のものは少し硬く見えたの。肌が弱いのなら、もっと柔らかい布の方がよろしいでしょう」
侍女は静かに頷いた。
リゼリアの視線が、別の小箱へ向く。
そこには乾かされた白い花が入っていた。
花弁はまだ形を残しているが、生きていた時の瑞々しさはない。
薄く乾いた白は、指先で触れればすぐに崩れそうだった。
「この花を」
リゼリアが言うと、侍女は少しだけ目を伏せた。
「芳華の国の花でございますね」
「ええ」
リゼリアは花を一輪摘み上げる。
乾いた花弁が、ほんのかすかな音を立てた。
「以前、ラーナ殿が胸に挿していたものと同じ種類の花よ」
一度城内で見かけた時、ラーナの胸元には白い花があった。
王城の庭に何気なく咲く花ではなく、華やかな香料と花で知られる芳華の国から入るものだった。
なぜラーナがそれを身につけていたのかまでは分からない。
けれど、リゼリアは覚えていた。
美しいものと、それに添えられた不釣り合いなものを、彼女は見落とさない。
「白い花がお好きだとおっしゃっていたもの。香り袋にして差し上げましょう」
「かしこまりました」
「花は、生きたままではすぐに傷むわ」
リゼリアは乾いた花を小箱へ戻した。
「けれど、乾かして香りを閉じ込めれば、長く傍に置ける」
その言葉を聞いても、侍女は何も言わなかった。
リゼリア自身も、自分の言葉に残酷さがあるとは思っていない。
美しいものを、美しいまま役に立つ形にする。
それのどこが悪いのか、彼女には分からなかった。
やがて薬草茶と手袋と白い花の香り袋が、絹の上に整えられた。
リゼリアは添える手紙の文面を、少しも迷わずに決めた。
病弱な客人を気遣う言葉だけで整えればいい。
使ってもよいし、使わなくてもよい。
そう書いておけば、相手には断る理由がなくなる。
リゼリアは封をした箱を見下ろし、満足げに微笑んだ。
「丁寧に届けてちょうだい。病弱なお客様を驚かせてはいけないわ」
箱が侍女の手に渡る。
リゼリアはその行方を見送りながら、温室の花を思い出していた。
硝子の中で咲くものは、野の花よりも美しく見える。
光も、水も、香りも、すべてを整えられているからだ。
ラーナ殿も、きっとそうだ。
美しいものは、正しい場所に置いてこそ価値が分かる。
そのためなら、少し危うい棘くらい、削いでしまえばいい。
アルヴィンの離れに、アルマード家の封蝋が押された箱が届いたのは、その翌日の午後だった。
庭に面した部屋には穏やかな光が入っていたが、アルヴィンは封蝋を見た瞬間、表情をわずかに硬くした。
ヤドクは窓辺に立ち、外の木々を見ていた。
「また、リゼリア様?」
「そうだ」
アルヴィンは手紙を開き、黙って目を通した。
文面は、丁寧すぎるほど丁寧だった。
先日の茶会への礼から始まり、ラーナの身体を案じる言葉が続く。
肌に負担の少ない布を選んだこと、白い花が好きだと聞いて香り袋を添えたこと、そして気に入らなければ使わなくても構わないという気遣いまで、すべてが穏やかな言葉で整えられていた。
どこにも悪意はない。
だからこそ、アルヴィンはすぐに返事を決められなかった。
敵意なら拒めるし、侮辱なら言い返せる。
だが、善意の形をした干渉は、拒んだ瞬間にこちらが不自然に見える。
その沈黙に気づいたのか、ヤドクが窓辺からゆっくり近づいてきた。
「ラーナ殿へ、だと」
「俺に?」
「そういうことになる」
ヤドクは箱を見下ろした。
薄い絹の中に、黒い手袋と薬草茶と、小さな香り袋が入っている。
どれも美しかった。
高価で、丁寧で、悪いものには見えない。
けれど、箱を開けた瞬間から、部屋の空気に別の匂いが混じった気がした。
温室の匂い。
白い花と、熟した果実と、硝子の中に閉じ込められた熱の匂い。
ヤドクは香り袋へ視線を落とした。
小さな布袋の中には、乾かされた白い花が入っている。
その形を見た瞬間、城の外で銀髪の男から渡された花が、ヤドクの中に浮かんだ。
同じ種類の花だと、すぐに分かった。
けれど、あの時の花はまだ柔らかく、生きていた。
箱の中の花は、形だけを残して乾かされ、香りを長く保つために小さな袋の中へ閉じ込められている。
その姿が、なぜかミオリに重なった。
塔の中で、彼女は力だけを取り出されている。
心が擦り減っても、役に立つ限り大切に扱われ、壊れないように守られているのではなく、壊れるまで使えるように整えられている。
乾かされ、香りだけを残すために袋へ閉じ込められた花と、何が違うのか分からなかった。
ヤドクは、香り袋に触れないまま手を止めた。
「これは、使わないと駄目?」
声は小さかった。
アルヴィンはすぐには答えなかった。
使わなくていいと言うことは簡単だ。
だが、完全に無視すれば、また別の意味を持つ。
リゼリアはそこまで分かっている。
アルヴィンは慎重に言った。
「返礼はこちらで考える。お前が嫌なら、身につけなくていい」
ヤドクは箱を見たまま尋ねる。
「嫌だと言っていい?」
「贈り物を悪く言うのは、表では避けた方がいい。だが、私の前でなら言っていい」
「これは、悪いものじゃない」
「そうだな」
「綺麗だ」
「ああ」
「でも、嫌だ」
その言葉は、短くてもはっきりしていた。
アルヴィンは黙ってヤドクを見る。
ヤドクは黒い手袋を指先で持ち上げた。
布は柔らかく、縫い目も細かい。
肌に触れても痛くなさそうだった。
だが、今ヤドクが身につけている手袋とは、意味が違う。
アルヴィンが用意した手袋は、毒を隠すためのものだった。
誰かを傷つけないためであり、ヤドク自身を守るための布だった。
けれど、箱の中の手袋は違う。
白い手を美しく見せるために、形を整えられている。
「これは、俺を守るものじゃない」
ヤドクはぽつりと言った。
アルヴィンは返す言葉を失った。
その感覚は、おそらく正しい。
ヤドクは手袋を箱へ戻し、香り袋を見つめる。
白い花の香りは控えめだった。
けれど、控えめだからこそ消えにくい。
皮膚の上ではなく、空気の奥に薄く残り続けるような匂いだった。
ヤドクは、香り袋に添えられた小さな札を見た。
そこには、芳華の国の花を乾かしたものだと記されている。
「芳華の国」
ヤドクが小さく読む。
「南方の大国だ。花と香料で知られている」
アルヴィンはそう答えたあと、ヤドクの表情が強張ったままであることに気づいた。
箱の中の花から少しでも意識を逸らそうとして、深い意味などなく、昔聞いた話を口にする。
「その国の奥地には、毒を持つ蛙を食べる蛇がいるらしい」
「蛇」
「ただ噛みつくのではなく、地に擦りつけて毒を弱めてから呑み込むのだと聞いたことがある」
言い終えた瞬間、アルヴィン自身の表情がわずかに変わった。
気を逸らすための雑談のつもりだった。
けれど、言葉にした途端、アルヴィンはそれがただの話では済まないことに気づいた。
リゼリアは“ラーナ”を傷つけようとしているわけではない。
彼女がしているのは、危険なものを殺すことではなく、毒を削ぎ、自分の手に収まる形へ整えようとすることだった。
柔らかな手袋も、白い花の香り袋も、刃ではない。
けれど、刃ではないからこそ拒みにくい。
「毒を、削ぐ」
ヤドクが小さく繰り返した。
その声に、笑いはなかった。
毒は、ミオリに触れられない理由だ。
毒があるから、ヤドクはミオリを抱きしめることができない。
それでも、毒はミオリを守るためにある。
追手を退け、塔から逃げ、ミオリに近づく道を作るためにある。
ミオリに触れるために抑えるのはいい。
アルヴィンに教えられて、誰かを傷つけないように抑えるのもいい。
けれど、リゼリアの望む形にするために削がれるのは違う。
それは、ミオリのために生まれた自分を、別の誰かのものへ変えられることに似ていた。
ヤドクは香り袋を手のひらに載せた。
中の花は軽く、少し動かしただけで乾いた音を立てる。
あの日の花は、こんな音を立てなかった。
白く、柔らかく、まだ生きたまま咲いていた。
それが今は、香りだけを残して袋の中に閉じ込められている。
「なんだか、ミオリみたいで悲しくなる」
ヤドクは小さく言った。
アルヴィンは何も言わない。
ヤドクは香り袋を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「綺麗なのに、咲いていない」




