2-23 狼の残り香
王都の外れに並ぶ芳華の国のキャラバンは、夕暮れが近づいても、まだ人の気配に満ちていた。
色鮮やかな布を張った天幕の下では、香油の小瓶が木箱に詰められ、乾かした花や薬草の袋が縄で括られている。
荷車の車輪が石畳を軋ませるたび、花と香辛料と熟した果実の匂いが揺れ、通りを行く者たちは異国の香りに足を止めていた。
その中で、銀髪の青年が大きな木箱を一つ持ち上げる。
動きは軽く、力を込めた様子もない。
商隊の者たちと同じように笑い、同じように荷を運び、声をかけられれば柔らかく応じる姿は、ただの若い護衛か荷運びにしか見えなかった。
「ヴァルグ、そっちの荷を頼む」
年嵩の商人が声を投げると、青年は振り返って軽く手を上げた。
「分かった。香油の箱は奥でいいんだな」
その声には異国の響きが混じっていたが、王都の者が聞いても違和感を覚えない程度には滑らかだった。
ヴァルグと呼ばれた青年は木箱を荷台へ積み直しながら、通りの向こうで商人が懐から小さな時計を取り出すのを見た。
銀の蓋を持つそれは掌に収まるほどの大きさしかなく、商人が蓋を開くと、細い針が夕暮れの光を受けて静かに動いていた。
この国には、魔力を持つ者が少ない。
それゆえ本来なら、魔力を利用する便利な魔道具が市場の端々にまで行き渡ることは少ないはずだった。
けれど王都では、同じような小型の時計を何度も見かける。
門番の腰にも、貴族の従者の手にも、帳簿をつける商人の卓にも、それは当たり前の道具のように置かれていた。
一度魔力を込めれば、数年は正確に時を刻み続けるという。
便利な魔道具と呼ぶには、あまりに出来がよすぎた。
この国の職人が、少しずつ技術を積み上げて辿り着いたものではない。
どこか別の場所にあった完成品が、いきなりこの世界の形を与えられたような匂いがする。
それが【想造士】の生み出したものだと、王都の者なら誰もが知っている。
ただし、その名も顔も知られていない。
公には居場所さえ曖昧にされているが、王城の内側で働く者たちは、皆、想造士が塔にいることを知っていた。
隠しきる必要すらないと思っていたのだろう。
塔の結界と、宮廷魔術師たちの権威がある限り、誰も連れ出せない。
この国は、そう信じていた。
少なくとも、先日の侵入者騒ぎが起きるまでは。
ヴァルグは時計の針が刻むかすかな音を聞きながら、王城の奥にそびえる塔へ視線を向けた。
暮れかけた光の中で、城壁は白く沈み、その背後にある塔だけが空へ細く突き刺さるように立っている。
あの塔には、匂いがある。
香油でも、花でも、石でも、人の汗でもない。
この世界の魔術とは少し違う、異質な魔力の残り香が、厚い壁と結界の奥からかすかに滲んでいる。
普通の人間なら、王都に満ちる花と香料の匂いに鼻を奪われるだろう。
だが、ヴァルグは違った。
芳華の国の王に仕える者の中でも、彼は匂いを読むことに長けている。
風の流れ、石に染みた足跡、布に残る魔力の薄い滲み。
そうしたものを嗅ぎ分け、追い、忘れない。
その能力と銀色の髪からヴァルグは灰狼と呼ばれることもあった。
だからこそ、この国へ送られた。
ヴァルグに与えられた命は単純だった。
この国にいる【想造士】の実態を探り、可能なら連れ帰り、叶わなければ壊す。
塔の奥に隠されている【想造士】については、名も顔もまだ知らない。
それでも、その匂いだけはもう覚えていた。
だが、芳華の国に持ち込まれたひとつの【想造物】には、この世界の魔術では説明のつかない魔力の残滓が残っていた。
ヴァルグは、その匂いを覚えている。
豪奢な指輪にまとわりついていた、作られたものの匂い。
この世界にないはずのものが、この世界の形を与えられた時に残す、薄く甘く、どこか歪んだ匂い。
それだけを手がかりに、彼はこの国へ来た。
塔へも近づいた。
だが、王城の中枢へ近づくほど、警備と結界は濃くなる。
特にあの夜以降、塔の周囲は以前より硬く閉ざされ、無理に踏み込めばこちらの存在を知らせるだけになる。
狼は、吠えて獲物を追うだけでは生き残れない。
待ち、匂いを覚え、逃げ道が狭まる時を選ぶ。
ヴァルグは荷台に手をついたまま、ふと白い花の束へ視線を落とした。
芳華の国から運ばれた花は、乾かしても香りが残る。
生きた花の匂いとは違うが、衣や髪や指先に移れば、しばらくそこに居座る。
あの日、城下で出会った黒髪の青年にも、同じ花を渡した。
ただの親切ではない。
香りの強い花は、相手の匂いを覆うこともあれば、逆に奥に隠れているものを浮かび上がらせることもある。
そして、あの青年は、花を受け取った。
病弱な客人のような顔をしていた。
白い肌に黒い髪、静かな目。
けれど匂いは違った。
探している中心そのものではない。
それでも、中心に触れて生まれたものの匂いがした。
想造物の残滓に近く、塔の奥にあるものに近く、そのうえで、毒が混じっていた。
ヴァルグは、青年の指先が白い花を受け取った時のわずかな動きを思い出す。
無垢に見えるのに、体の奥では人ではないものが眠っている。
牙を向ければ、ただでは済まない。
それでも、あの黒髪の青年を辿れば、塔の中にいるものへ近づけるという淡い確信があった。
名はまだ知らず、顔も見ていないが、塔の奥に隠されている【想造士】の匂いだけはもう覚えていた。
ヴァルグは木箱を押し込み、ゆっくりと手を離した。
匂いの記憶は、消えていない。
「ヴァルグ?」
商人が怪訝そうに呼ぶ。
ヴァルグは王城から視線を外し、いつもの明るい笑みを浮かべた。
「悪い。少し風向きを見ていた」
嘘ではない。
風は、確かに城の方から流れていた。
その風の中に、黒い毒の残り香が、まだかすかに混じっている気がした。
白い花を渡した時、青年はただ不思議そうにこちらを見ていた。
キャラバンの演舞の灯りの中で目が合った時も、その黒い瞳にはまだ確信はなかった。
けれど、あの夜に対峙した時、毒の匂いははっきりと牙を剥いた。
向こうがすべてを同じものとして結びつけているかどうかは、まだ分からない。
それでも、あの青年がこちらの匂いを忘れていない可能性はある。
アルヴィンの離れでは、窓辺の花が夕方の光を受けて淡く色を変えていた。
リゼリアから届いた贈り物の箱は、卓の隅に戻されている。
黒い手袋も、薬草茶も、白い花の香り袋も、使われてはいない。
それでも、箱を閉じたあとも、部屋の空気には乾いた花の匂いが薄く残っていた。
ヤドクは窓辺に立ったまま、その匂いを何度も確かめていた。
それは温室に満ちていた甘さとも、リゼリアの香油に似た整いすぎた匂いとも違っていた。
乾いた白い花の匂いは、城の外で白い花を差し出してきた銀髪の男を思い出させた。
けれど、それだけではなかった。
キャラバンの灯りの中で見た銀の髪や、夜に離れへ近づいてきた気配まで、その匂いに触れるたび、ばらばらの記憶が少しずつ浮かび上がってくる。
ヤドクは、その男の名前を知らない。
人の顔や声を覚え、別の場所で見た相手を同じ者だと見分けることにも、まだ慣れていなかった。
だから、白い花を渡した男と、演舞の灯りの中にいた男と、夜の気配が同じものなのかは分からない。
ただ、思い出した時に胸の奥がざわつく感じだけは似ていた。
あの男は、花を差し出しながらも、花そのものを見てはいなかった。
視線はヤドクの顔に長く留まらず、服の形を確かめるようでもなく、ほんの一瞬だけ手元と胸元をなぞった。
まるで、そこに残っている何かを確かめるような目だった。
その記憶に触れた瞬間、手袋の下で毒紋がかすかに熱を持った。
指先から手首へ、鮮やかな色が広がろうとする。
ヤドクは反射的に息を止めかけて、それからゆっくり吸い直した。
誰かに触れられたわけでも、敵が目の前にいるわけでもないのに、ただ思い出しただけで毒が動こうとすることが、ヤドクには気味悪かった。
ベリオンに触れられそうになった時は、アルヴィンが前に出てくれた。
けれど今は、誰かが止める場面ではない。
自分の中で勝手に動きかけたものだから、自分で止めなければならなかった。
ヤドクは胸の奥に溜まった熱を押し戻すように、ゆっくりと息を吐いた。
毒紋は、広がりきる前に止まった。
完全に消えたわけではないが、布の下で疼くだけに留まる。
「ヤドク」
背後からアルヴィンの声がした。
ヤドクは振り返る。
アルヴィンは卓の上の箱と、ヤドクの手元を見比べていた。
手袋の下までは見えないはずだったが、ヤドクが息を詰めたことには気づいたのだろう。
「どうした」
ヤドクはすぐには答えられなかった。
匂いで何かが分かったわけではない。
ただ、白い花の匂いが記憶を連れてきて、その記憶が毒を揺らした。
「白い花の人を思い出した」
「城の外で、お前に花を渡した男か」
「うん」
ヤドクは箱へ視線を戻した。
香り袋は見えない。
それでも、乾いた花の匂いはまだ部屋に残っている。
「この花と、同じ匂いがするのか」
「花は同じだと思う」
ヤドクは少し考えてから、手袋の指先を握った。
「でも、あの時だけじゃない」
アルヴィンの目が、わずかに細くなる。
「いつだ」
「キャラバンの灯りの中と、夜に離れへ近づいてきた気配」
ヤドクはそこで言葉を探すように黙った。
顔は分からない。
声も、同じだったかどうかは分からない。
けれど、白い花の匂いを嗅ぐと、城下の男だけではなく、演舞の灯りや夜の闇まで一緒に思い出してしまう。
「同じ人かは分からない」
ヤドクは正直に言った。
「でも、似てる。思い出すと、毒が動く」
アルヴィンの表情が硬くなった。
「夜に離れへ来た者の気配とも、似ているということか」
ヤドクは小さく頷く。
「たぶん」
その返事は頼りなかった。
けれど、アルヴィンは笑わなかった。
ヤドクが人の顔を覚え、別の場面の記憶と結びつけることに慣れていないのは、アルヴィンも知っている。
だから今この場で、白い花を渡した男と夜に離れへ近づいた者を同一人物だと決めつけることはできない。
それでも、ヤドクがその記憶だけで毒を揺らしたことまで、ただの思い込みとは言えなかった。
「その男の何を思い出した」
アルヴィンが静かに問う。
ヤドクは少し迷ってから、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの庭の向こうに、塔が見える。
そこにミオリがいる。
そのことを思った途端、胸の奥が冷えた。
「見てた」
「お前を?」
「うん。でも、俺だけじゃない気がした」
ヤドクは自分の胸元に手を当てた。
自分は、ミオリが想造した毒だ。
ミオリを守るために生まれた。
だから、ヤドクの中にはミオリへ繋がるものがある。
あの男がそれを知っているとは思えない。
けれど、知らないまま何かを嗅ぎ取ろうとしていたのだとしたら。
「俺を見て、ミオリの方まで見ようとしてる気がする」
ヤドクは小さく言った。
アルヴィンはすぐには答えなかった。
ヤドクの言葉は、確信ではない。
男の名も、正体も、居場所も分からない。
けれど、ヤドクという存在がミオリから生まれたものなら、ヤドクを見つけた者がミオリへ辿り着く可能性はある。
アルヴィンはそう考えてしまった。
そして、その可能性を否定できなかった。
「その男が、今も近くにいると分かるのか」
アルヴィンが尋ねると、ヤドクは首を横に振った。
「分からない」
その答えは、はっきりしていた。
「でも、思い出すと嫌な感じがする」
ヤドクは塔を見つめたまま、手袋の上から自分の手首を押さえた。
毒はまだ出ておらず、抑えられているはずなのに、胸の奥では何かが早くなっていた。
部屋の中には、乾いた白い花の匂いが薄く漂っている。
リゼリアの贈り物から漏れた、ただの香りのはずだった。
けれどヤドクには、その匂いが終わったはずの城下の記憶を連れてくる。
白い花を差し出した手。
笑っていた口元。
こちらの奥を確かめようとしていた、静かな目。
「アル」
ヤドクは塔を見たまま呼んだ。
「どうした」
アルヴィンの声は近い。
確かなことは何もない。
顔も、名前も、場所も分からない。
それでも、あの男に見られた時の嫌な感じだけが、毒の疼きと一緒に残っている。
「ミオリに、何か近づいてる気がする」
アルヴィンは答えなかった。
否定する言葉も、安心させる言葉も、すぐには見つからなかった。
遠く、塔の影が夕暮れの庭へ長く伸びている。
風の中に、白い花の匂いだけが残っていた。




