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想造のファルマコン  作者: 源泉
第二章ガラスの靴を踏み砕く音

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2-21 白い菓子と黒い手袋

温室の扉が開くと、外の空気とは違う柔らかな湿り気が、ヤドクの頬に触れた。


硝子の屋根から落ちる昼の光は、白い石床の上で薄く砕け、色とりどりの花の影を淡く揺らしている。


花々は季節を忘れたように咲きそろい、蔓は金属の支柱に沿って整えられ、枝葉のひとつまで人の手で美しく導かれていた。


硝子の壁と天井が風を遮り、暖かな日差しだけを通している。

香りだけが、逃げ場を失ったように温室の中へ満ちていた。


甘い花と熟した果実の匂いに、磨かれた木と、熱を含んだ硝子の匂いが混じっている。


外の庭にある風や土の匂いとは、まるで違っていた。


ここにあるものはすべて生きているのに、どこか閉じ込められている。

その美しさが、ヤドクの胸の奥で、塔の白い部屋にいる少女の気配と重なった。


ヤドクは一歩だけ足を止めかけたが、隣にいるアルヴィンの気配を感じて、教えられた通りに目を伏せた。


温室の奥には、白い卓布をかけられた丸いテーブルが用意されていた。


その傍らに、リゼリアが座っている。


白金の髪は柔らかく巻かれ、温室の光を受けて銀糸のように輝いていた。

深紅のドレスには金糸の刺繍が細く走り、胸元に飾られた翡翠が、彼女の瞳と同じ冷たい色を宿している。


リゼリアは二人に気づくと、花の中で咲くもののようにゆっくりと立ち上がった。


動作に乱れはなかった。


微笑みは柔らかく、礼は優雅で、どこから見ても第一王子の婚約者にふさわしい令嬢だった。



「お待ちしておりました、アルヴィン殿下」


「招待に感謝する、リゼリア」



アルヴィンは穏やかに応じた。


リゼリアの視線は、礼儀として一度アルヴィンに向けられたあと、ごく自然にヤドクへ移る。



「ラーナ殿も、よくいらしてくださいました」



リゼリアは微笑んだまま言った。



「お身体に障らなければよいのだけれど」



ヤドクは教えられた通り、一歩遅れて会釈した。



「お気遣い、感謝いたします。リゼリア様」



声は落ち着いていた。

目線も低く、間も悪くない。


けれど、リゼリアの瞳はその返答を聞きながら、ヤドクの顔だけでなく、伏せられた睫毛の影や、襟元まで覆われた外套の合わせ目や、手袋で隠された指先まで静かになぞっていた。



「どうぞ、お掛けになって」



リゼリアが軽く手を動かすと、控えていた給仕が音もなく椅子を引いた。


その給仕は、城の者というより、リゼリアの私室に仕える者に見えた。

動きに無駄がなく、誰の指示を待つべきかをよく知っている。


リゼリアが目を向けるだけで、茶器が運ばれ、皿が置かれ、花瓶の位置がわずかに整えられる。

温室そのものが、リゼリアの手の中にあるようだった。


ヤドクは椅子に腰を下ろし、膝の上で手を揃えた。

布越しに毒紋のある肌が温まっていくのを感じる。


温室の熱のせいなのか、目の前に座るリゼリアの視線のせいなのかは、よく分からなかった。


給仕が運んできた銀の盆の上には、白い花の形に絞られた砂糖菓子や、透き通るほど薄い皿に並べられた果実の蜜漬けが載っていた。


花弁のように重ねられた焼き菓子には淡い金色の蜜がかけられ、食べ物というより、壊れやすい飾りのように見える。


茶器には花の香りを移した茶が注がれ、湯気が白く立ち上るたびに、温室の空気がさらに甘くなる。


ヤドクは皿の上をじっと見つめた。

綺麗だと思った。

けれど、すぐには手が伸びなかった。


ミオリの記憶の中に、こういうものはなかった。


塔に運ばれていた食事は、白い皿に決められた分だけ置かれていた。

味は薄く、形は崩れにくく、体に必要なものだけを間違えずに入れるための食事だった。

甘いものがなかったわけではない。


けれど、それは疲労を戻すための糖分で、誰かを喜ばせるために花の形へ整えられたものではなかった。


ミオリは、こんなものを見たことがない。


皿の上から好きなものを選ぶことも、この菓子の名前を知ることも、きっとなかった。


そう思った瞬間、ヤドクの胸の奥に、言葉にならないものが沈んだ。


それは怒りに似ていたが、怒りと呼ぶにはあまりにも静かで、悲しみと呼ぶにはまだ形を持っていなかった。


ただ、目の前の美しさが、ひどく遠いものに見えた。



「お気に召しませんか?」



リゼリアの声が、花の香りの中を滑るように届いた。

ヤドクは顔を上げる。


リゼリアは心配そうに見える微笑みを浮かべていた。

だが、その瞳は菓子ではなく、ヤドクの反応を見ている。


アルヴィンが先に口を開いた。



「ラーナは病のせいで、食べられないものが多いからね」



その声は自然だった。



「見た目を楽しんでいるだけでも、本人には十分だと思う」


「まあ、それはお気の毒に」



リゼリアは眉をわずかに下げた。


その声音は優しかったが、ヤドクはなぜか手袋の指先を膝の上で握った。


お気の毒。

その言葉は柔らかい。


けれど、自分より高い場所から落ちてくるように聞こえた。



「無理に召し上がらなくて構いませんわ。ラーナ殿が少しでも楽に過ごせるようにと思って用意したものですもの」


「ありがとうございます」



ヤドクはそう答えた。

感謝の言葉は、教えられた通りに出た。


それでも、皿の上の白い砂糖菓子は、ミオリには与えられなかったものとして、ヤドクの目に残り続けた。


リゼリアは茶器を手に取り、花の香りを楽しむように目を細めた。



「それにしても、ラーナ殿は本当に白い肌をしていらっしゃるのね」



ヤドクは一瞬だけ返答に迷った。

肌が白い。


それを言われる意味が分からなかった。


けれど、リゼリアの言い方は、ただ色を述べているのではなく、飾り棚の硝子細工を褒める時のようだった。



「外に出ることが少なかったからだろう」



アルヴィンが穏やかに言葉を継ぐ。



「病のこともあって、長く屋外にいるのは負担になる」


「大切に守られていたのですね」



リゼリアは微笑んだ。


その言葉が、ラーナ家のことを言っているのか、アルヴィンの離れのことを言っているのか、ヤドクには分からなかった。


ただ、茶器を持つ指にほんのわずか力が入る。

リゼリアはそれを見ていた。



「手袋は外されないの?」



何気ない問いだった。


花の話をするのと同じ声で、リゼリアはそう言った。

ヤドクの指先が、膝の上でわずかに動く。


手を引いて隠したいと思ったが、ここで動けば、その動きごと見られる。


顔に出すな、とアルヴィンは言っていた。


ヤドクは手袋を握りしめそうになる指を、途中で止めた。

その小さな停止を、リゼリアは見逃さなかった。



「肌が弱いんだ」



アルヴィンの声が、何事もなかったように間へ入る。



「布越しでなければ、少しの刺激でも負担になる。見苦しいかもしれないが、許してほしい」


「見苦しいだなんて」



リゼリアはすぐに首を振った。



「むしろ、よくお似合いですわ。黒い手袋は、その白さを引き立てますもの」



褒め言葉だった。

誰が聞いてもそう聞こえる。


けれどヤドクは、胸の奥に小さな石を入れられたような気がした。


自分の手は、ミオリに触れるためにある。

ミオリを守るためにある。


飾りとして似合うかどうかを考えたことは、一度もなかった。



「初めて言われました、ありがとうございます」



ヤドクは目を伏せて答えた。


声は乱れていない。

アルヴィンが教えた通りだった。


リゼリアは満足げに微笑み、茶器を皿へ戻した。

硝子の屋根の向こうで、雲がゆっくりと流れていく。


光の角度が変わり、テーブルの上に置かれた銀匙が細く輝いた。



「殿下は、ずいぶんラーナ殿を大切にしていらっしゃるのね」



リゼリアの視線がアルヴィンへ向く。

声は柔らかい。

けれど、その柔らかさの奥には、細い針のようなものがあった。


ヤドクはアルヴィンを見た。


リゼリアはアルヴィンの婚約者だ。

婚約者なら、大切にされるのはリゼリアのはずではないのか。

それなのに、リゼリアは笑いながら、自分を見ている。


ヤドクには、その意味が分からなかった。



「客人を粗末に扱うわけにはいかない」



アルヴィンは静かに返した。



「それに、ラーナは身体が弱い」


「ええ。殿下はお優しい方ですもの」



リゼリアは、まるでその言葉をよく知っているもののように言った。



「けれど、まるで誰にも触れさせたくない宝石みたい」



その瞬間、ヤドクの目がわずかに揺れた。


宝石。

リゼリアは、自分をそう呼んだ。


ミオリは、ヤドクを見て名前を呼んだ。

アルヴィンは、危険だと知りながら言葉を教えた。

ベリオンは測ろうとし、庭で出会ったあの銀髪の男は、匂いを辿るようにこちらを見ていた。


リゼリアは違う。


彼女は、自分を物のように見ている。

花や菓子や硝子細工と同じように、見栄えのいい角度を探している。


それは攻撃ではなかった。

刃でも、拘束でも、命令でもない。


だからこそ、ヤドクはどう嫌がればいいのか分からなかった。



「リゼリア」



アルヴィンが名を呼ぶ。

咎めるほどではないが、線を引く声だった。



「ラーナは人だ。宝石ではない」



リゼリアは瞬きをしたあと、困ったように微笑んだ。



「もちろんですわ。たとえが悪かったかしら」



その謝罪は美しかった。

美しすぎて、ほんの少しも傷ついていないことが分かるほどだった。



「けれど、美しいものを美しいと言うことまで禁じられてしまったら、温室の花たちも寂しがりますわ」



アルヴィンはそれ以上追わなかった。


ここで声を荒げれば、リゼリアの言葉に棘があったことを認める形になる。


リゼリアはそれを知っている。

知っていて、微笑んでいる。


ヤドクは、テーブルの下で手袋の指先をゆっくり開いた。

毒はまだ出ていない。


けれど、布の下で肌が熱を持っている。



「ラーナ殿は、アステル様にお会いになったことは?」



リゼリアが、ふいにそう尋ねた。

ヤドクは顔を上げる。


アステル。


その名は、ヤドクの中で、ミオリのいる塔の気配と結びついていた。


白く冷たい部屋に満ちていた魔力の感触と、低い声がミオリの名を呼ぶ響きが、ひとつの影のように浮かぶ。


ヤドク自身の記憶ではない。

それでも、断片のようなものが、ヤドクの奥でかすかに揺れた。


けれど、“ラーナ”はそれを知らない。

ヤドクは答えようとして、言葉を見つけられなかった。

そのわずかな沈黙より早く、アルヴィンが口を開く。



「研究室長とは、城内ですれ違ったことぐらいはあるかもしれないが、ラーナに直接の面識はない」


「そうでしたの」



リゼリアはあっさりと頷いた。

追及はしない。


けれど、その瞳は一度だけヤドクへ戻った。


聞かれたのはラーナだった。

答えたのはアルヴィンだった。


その事実だけを、リゼリアは静かに手元へ残したように見えた。



「アステル様は、この温室にも城の庭園にも、あまりいらっしゃいませんものね」



リゼリアは茶を一口含んだ。



「お花より、研究室の魔力灯の方がお好きなのかもしれませんわ」



冗談めいた声だった。

アルヴィンは薄く笑う。



「彼は忙しい人だからね」


「ええ。本当に」



リゼリアの言葉はそこで終わった。


だが、ヤドクはアステルという名が温室の中に残っているように感じた。


リゼリアがなぜここでアステルの名を出したのか、アルヴィンにもすぐには読めていないようだった。


花の香りの奥に、ミオリの眠る塔の空気が混ざったような気がする。


ヤドクは皿の上の菓子をもう一度見る。

白い花の形をした砂糖菓子は、光を受けて淡く透けていた。


綺麗だ。

けれど、ミオリには与えられない。


ヤドクはそれを抑えるように息を整えた。


アルヴィンの横顔が見える。

今は毒を、感情を、出してはいけない。

ここで失敗すれば、ミオリに近づく道が遠くなる。


そう思うことで、手袋の下の熱を押し戻した。

茶会は、穏やかに進んでいるように見えた。


リゼリアは花の話をし、アルヴィンは宮廷の季節行事の話へ逸らし、ヤドクは必要なところだけ短く答えた。


白い花が好きだと言えば、リゼリアは嬉しそうに温室の奥に咲く花の名を教えた。


ヤドクが植物図鑑で覚えた名をひとつ口にすると、リゼリアは褒めた。



「よくご存じなのね」



その声は優しい。

けれど、ヤドクは褒められている気がしなかった。


覚えたばかりの言葉を、正しい場所へ置けたかどうかを見られているようだった。


少しでも違えば、リゼリアは声を荒らすことなく正すのだろう。

微笑んだまま、似合うものを選び、美しく見える角度を探し、自分の望む形から外れたものを少しずつそこへ戻していく。


リゼリアの視線が触れるたび、ヤドクは自分の体の輪郭を薄く削られていくような気がした。


ミオリは違った。


ミオリは、ヤドクを見た時、怖がっても、異物として遠ざけなかった。


アルヴィンも違う。


アルヴィンは危険を知っていても、ヤドクの言葉を待つ。


リゼリアは、待たない。


微笑みながら、相手がどこに置かれれば最も美しく見えるのかを、もう決めてしまっている。



「ラーナ殿」



茶が新しく注がれた頃、リゼリアはふたたびヤドクを呼んだ。


給仕が静かに下がり、テーブルの上には湯気と花の香りだけが残る。

リゼリアの視線は、ヤドクの手袋へ落ちていた。



「綺麗な手をしていらっしゃるのね」



ヤドクは自分の手を見る。


黒い手袋に覆われていて、肌は少しも見えていない。

指の形なら分かる。


けれど、リゼリアは手そのものを見ているわけではないように思えた。


見えないものを、見えているように言っている。

そのことが、ひどく落ち着かなかった。


アルヴィンが口を開きかける。

しかし、それより早くリゼリアが微笑んだ。



「いつか、その手にも触れてみたいわ」



声は優しかった。

誰が聞いても、親しみを示す言葉に聞こえただろう。


だが、ヤドクの体の奥では、別のものが反応した。


触れられる。

その想像だけで、手袋の下の毒紋がわずかに疼く。


まだ、布の外には出ていない。

色も、香りも、誰にも見えない。


それでもヤドクには分かった。

毒が、目を覚ましかけている。


アルヴィンの視線が、ほんの一瞬だけヤドクの手元へ落ちる。


リゼリアは微笑んでいた。

気づいているのか、いないのか。


その瞳の奥は、硝子越しの花のように、綺麗なまま何も語らなかった。

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