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想造のファルマコン  作者: 源泉
第二章ガラスの靴を踏み砕く音

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2-20 硝子の庭へ

アルヴィンの離れは、昼前の静けさに包まれていた。


庭に面した窓からは柔らかな光が入り、卓の上に置かれた茶器の縁を淡く照らしている。


遠くに城のざわめきはあるが、この場所までは薄い布を通したようにしか届かない。


ヤドクは窓辺の椅子に座り、膝の上に開いた本へ目を落としていた。

それは、城の庭に咲く花をまとめた植物図鑑だった。

文字を追う速度は、数日前よりずいぶん早くなっている。


意味を理解しているのか、ただ形を覚えているのか、アルヴィンにはまだ分からない。


それでも、ヤドクはときおり眉を寄せ、知らない言葉の上で指を止めていた。


人のように、むしろそれ以上に学んでいる。

その事実に安堵しながら、同時に胸の奥が重くなる。

人のように学び、言葉を理解するのなら、人として扱われるべきだ。


けれど、この城でそれを当然と言い切れる者が、いったいどれほどいるのか。


アルヴィンは庭の入口から戻ると、手にしていた封筒へ視線を落とし、その宛名に眉を顰める。


白く上質な紙。

封蝋には、アルマード家の紋が押されている。

それだけで、中身を読む前から差出人は分かっていた。


ヤドクが顔を上げる。



「アル?」


「ラーナ殿宛だ。リゼリアから」


「……リゼリア様から?俺に?」



ヤドクは本を閉じた。


ただ、アルヴィンの表情を読もうとするような、静かな困惑だけがあった。


アルヴィンは封蝋を崩し、便箋を開く。

リゼリアの筆跡は美しかった。


乱れがなく、品があり、見る者に不快感を与えない。

そこに綴られている言葉もまた、どこまでも穏やかだった。


先日はゆっくり話せなかったこと。

ラーナの体調を気遣っていること。

風の少ない温室で、短い茶会を開きたいこと。

アルヴィンにも同席してほしいこと。

長く引き止めるつもりはないこと。


どこにも棘はない。

どこにも責められるところはない。


むしろ、婚約者として完璧な気遣いだった。

だからこそ、アルヴィンはしばらく黙った。

ヤドクは椅子から立ち上がり、少しだけ近づく。



「悪い知らせ?」


「いや」



アルヴィンは便箋を畳まず、もう一度だけ目を通した。



「茶会の招待だ。温室で、短い時間だけ。お前の体調を気遣うという名目で」


「俺の?」


「ラーナ殿の、だ」


「ああ」



ヤドクは少し遅れて頷いた。


まだ、その名が自分を指すものだと認識するまでに間がある。

その間の幼さを、アルヴィンは見逃さなかった。


リゼリアならきっと、美しい微笑みを浮かべたまま、その名と振る舞いの間にあるわずかな継ぎ目を見つけるだろう。



「行った方がいい?」



ヤドクが尋ねる。



「リゼリア様は、アルの婚約者でしょう。断ると、アルが困る?」



アルヴィンは小さく息を吐いた。



「困る、というほどではない」



嘘ではない。

けれど、すべてでもない。



「ただ、断れば不自然には見える」



ヤドクはじっとアルヴィンを見ていた。



「不自然」


「リゼリアは、お前を気遣う形を取っている。病弱な客人を人混みに出すのではなく、風の少ない温室に招く。時間も短い。私も同席する。

これを断れば、こちらが何かを隠しているように見える」



アルヴィンは便箋を卓へ置いた。

紙は軽い音を立てただけだった。

それなのに、その白さが妙に重く見える。



「リゼリアは愚かではない。だからこそ、厄介だ。何かに感づいているのかは分からないが、逃げ道をなくすように全て整えられている」



ヤドクは首を傾げる。



「リゼリア様は、敵?」



その問いは、あまりにまっすぐで、アルヴィンはすぐには答えられなかった。


敵。

その言葉で切り分けられれば、どれほど簡単だっただろう。



「違う」



アルヴィンは慎重に言った。



「少なくとも、私の敵ではない」


「じゃあ、俺の敵?」


「それも、まだ違う」



ヤドクはますます分からないという顔をした。

アルヴィンは苦笑しそうになり、しかし笑わなかった。


ヤドクにとって世界はまだ単純だ。


ミオリを守る者。

ミオリを傷つける者。

アルヴィンに害をなす者。


それ以外の分類を、彼はまだうまく持てていない。


リゼリアのような存在は、そのどこにも綺麗には入らない。



「リゼリアは、私の婚約者だ」



アルヴィンは静かに続けた。



「物心つく前から、そう決まっていた。強い恋慕があるわけではない。だが、いずれ並んでこの国を支える相手だと、互いに理解している」



ヤドクは全てを理解できてはいないが、黙って聞いていた。



「王族の力が昔ほど強くないとしても、彼女はただの令嬢ではない。

アルマード公爵家の娘で、研究室にも影響力を持っている。無視できる相手ではない」


「なら、怒らせない方がいい?」


「これを断ったからといって彼女は怒るわけではない」



アルヴィンは少しだけ目を伏せた。



「だが、怪しまれるきっかけにはなるだろうな」



その言葉に、ヤドクの瞳がわずかに揺れる。



「リゼリアの前では、不用意に話すな。聞かれたことにすぐ答えようとしなくていい。困ったら、私を見るんだ」


「アルを?」


「ああ」


「分かった」



返事は早かった。


疑うより先に、信じる声だった。

その危うさに、アルヴィンの胸がかすかに痛む。



「分かっているのか?」


「……ごめん、全部は分からない」



ヤドクは素直に答えた。



「でも、アルがそう言うなら、そうする」



アルヴィンは便箋から目を逸らした。

その信頼は、救いでもあり、枷でもあった。


自分の判断ひとつで、この青年の振る舞いは変わる。

それは守るために必要なことでもある。


同時に、この国がミオリにしてきたことと、どこか似ている。


正しい形を教え、危険を避けさせ、名前を与え、場所を決める。

守ることと閉じ込めることの境目は、いつも思っているより薄い。



「リゼリア様は、怖い人?」



ヤドクが尋ねた。

アルヴィンは少し考える。



「怖いというより、強く賢い」


「強く賢い」


「自分の望むものをよく分かっている。そして、それを手に入れるための方法も知っている」



ヤドクはその言葉を胸の中でなぞるように黙った。


ベリオンとは違う。

ヤドクは、そう思った。


ベリオンは、体の奥を測ろうとするようだった。

リゼリアは、まだ何もしていない。


ただ微笑んで、こちらを見ただけだ。

それなのに、どこか落ち着かなかった。


触れられそうな怖さではない。

斬られそうな怖さでもない。


自分ではない形に、綺麗に置かれそうな気がする。


花や宝石と同じように、似合う場所を決められてしまうような気がする。


ヤドクは、その感覚をうまく言葉にできなかった。



「リゼリア様は、綺麗だった」


「そうだな」


「でも見られると、少し怖い」


アルヴィンは顔を上げる。


「怖い?」


「うまく言えないけど、攻撃されそうとか襲われそうとか、そういうのじゃない」



ヤドクは手袋の指先を見た。



「毒は、出そうにならないと思う。でも、落ち着かない」



アルヴィンは黙ってその言葉を受け止めた。

ヤドクの直感は、決して軽く扱えない。


彼はまだ人の悪意をうまく知らない。

だからこそ、理屈の前に何かを拾うことがある。



「それでいい」



アルヴィンは言った。



「落ち着かないと感じたなら、その感覚を忘れるな」


「わかった」


「ただし、顔には出すな」



ヤドクは少し困ったように眉を寄せた。



「難しい」


「そうだな、練習が必要だ」



アルヴィンは招待状を畳み、別の紙を取り出した。


返事を書く必要がある。

受ける、と。

ラーナはまだこの国の文字に慣れていないため、代筆すると書き加える。


リゼリアの気遣いに感謝する、と。

ラーナも楽しみにしている、と。


どれも、嘘ではない形に整える。

嘘ではないが、すべてでもない。


そういう言葉を選ぶことに、アルヴィンは慣れすぎていた。


返事を書き終えたあと、アルヴィンはヤドクの支度を確認した。


手袋は外さない。

首元は隠す。

歩調はゆっくり。


呼び名は、アルヴィン殿下。

リゼリアには、リゼリア様。


聞かれたことに迷ったら、一度間を置く。



「リゼリアにラーナ家のことを聞かれたら?」


「昔から体が弱く、あまり外へ出なかったから話せることは少ない、と答える」


「故郷の話は?」


「長く話すと疲れると、アルが引き継いで答えてくれる」


「好きなものは?」



ヤドクは少し考えた。



「ミオリ」


アルヴィンは額に手を当てかけ、途中で止めた。


「それは言うな」


「駄目?」


「駄目だ」



ヤドクは真剣に頷いた。



「じゃあ、白い花が好き」



アルヴィンは小さく息を吐いた。



「では、花の話にしておけ」



ヤドクは先ほどまで眺めていた植物図鑑を思い出し、覚えたばかりの白い花の名をいくつか口にした。



「温室には、その中のいくつかが咲いていたはずだ。話題にするには丁度いい」


「わかった」



危うい。

だが、少しずつ形にはなっている。


その形が誰のためのものなのかを考えると、簡単に安堵はできなかった。



招待を受ける返事を出してから、数日後。

茶会の日が訪れた。


ヤドクは黒い外套を羽織り、手袋をしっかりとはめる。


首元まで布を整えられた姿は、どこから見ても病弱な客人だった。


ただ、黒い瞳だけが、まだその形に収まりきらない。

アルヴィンは最後に、ヤドクの襟元を少し直した。



「私から離れるな」


「うん」


「返事」



ヤドクは瞬きをする。



「はい。アルヴィン殿下」


「よし」



二人は離れを出た。

庭を抜け、城の奥へ向かう回廊を進む。


柔らかな昼の光が回廊を照らしているが、王城の石壁はどこか冷たい。

進むほどに、花の香りが近づいてくる。


リゼリアが指定した温室は、王城の中でも特に美しく整えられた場所だった。


季節を問わず花が咲き、硝子の屋根から光が落ちる。

風は遮られ、花の香りは逃げない。


病弱な客人を招くには、あまりにもふさわしい場所。

そして、逃げ場の少ない場所でもあった。


ヤドクがふと足を止めた。

前方に、硝子の屋根が見える。


光を受けて、白く輝いている。

その奥に、花の色が滲んでいた。


綺麗だった。


けれど、その綺麗さはどこか閉じていた。

ヤドクは無意識に手袋の指先を握る。


アルヴィンが横から声をかけた。



「行くぞ」



ヤドクは硝子の温室を見つめたまま、一度だけ息を吸った。


それから、教えられた通りに目を伏せる。



「はい。アルヴィン殿下」



二人は、硝子の庭へ向かって歩き出した。

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