2-19 蛇の招待状
アルヴィンの婚約者であるリゼリア・フォン・アルマードに与えられた私室は、王城の奥まった一角にあった。
そこは本来、正式な婚姻の後、第一王子アルヴィンとその妃が過ごすために整えられた部屋の一つだった。
けれど今、その部屋を使っているのはリゼリア一人だけだ。
アルヴィンには別に離れがある。
執務の都合だと説明されている。リゼリアも、それを不審にも不満にも思ったことはなかった。
二人は物心つく前から婚約者だった。
好き合って結ばれたわけではない。
けれど、嫌い合っているわけでもない。
王子と公爵家の令嬢。
国のために並ぶことは、二人にとってあまりにも自然なことだった。
だからこそ、リゼリアはこの部屋を当然のように自分のものとして使っているし、城の誰もがそれを自然なこととして受け入れていた。
窓辺には季節の花が飾られ、卓の上には香油の小瓶が並び、壁際の棚には宝石箱と異国の硝子細工が置かれていた。
花も、香りも、布も、宝石も、すべてが美しく整えられている。
美しくないものは、この部屋には必要なかった。
朝の光が薄い紗のカーテンを通り、部屋全体を柔らかく照らしていた。
その中心で、リゼリアは鏡の前に座っていた。
侍女たちが、リゼリアの白金の髪を丁寧に梳いていた。
細く冷たい光を含む髪は、櫛が通るたびにさらりと流れ、肩から背へ落ちていく。
別の侍女が襟元を整え、また別の侍女が耳飾りを選んでいた。
「今日は翡翠にしてちょうだい」
リゼリアが鏡を見たまま言うと、侍女はすぐに頭を下げた。
「かしこまりました」
選ばれた耳飾りは、小さな金の蔓に青緑の石を抱かせたものだった。
冷たい瞳の色によく映える。
完璧だった。
髪も、肌も、衣装も、飾りも。
どこを切り取っても、宮廷の花と呼ばれるにふさわしい姿が鏡の中にあった。
だが、鏡の奥から見返す瞳だけは、花のものではなかった。
静かで、冷たい。
獲物が逃げ道を持っているかどうかを測る、蛇の目だった。
リゼリアは、鏡の中の自分を見ながら、別の姿を思い出していた。
黒髪と白い肌。
どこか影を帯びた、整いすぎた顔立ち。
ラーナと呼ばれていた、アルヴィンの客人。
病弱で、人目を避けるという名目で王子の離れに置かれている者。
あの青年は、礼儀正しかった。
頭を下げる角度も、言葉の選び方も、王城に招かれた客人として大きな不自然はなかった。
けれど、どこか借り物めいていた。
身につけたばかりの絹を、まだ肌が覚えていないようなぎこちなさ。
綺麗に磨かれた硝子の靴を、足に合わないまま履かされているような危うさ。
そういうものがあった。
そして、アルヴィンが庇っている。
その事実が、リゼリアの胸の奥で小さな棘になっていた。
アルヴィンが他人を気にかけることは珍しくない。
彼はそういう人間だ。
困っている者を見れば手を差し伸べる。
弱い立場にある者を見捨てない。
王族として、民を守るべきだと本気で信じている。
だから、他国へ留学していた頃の友人を客人として招くこと自体は、不自然ではなかった。
けれど、それでも。
リゼリアは、鏡の中で微笑んだ。
気に入らないものは、気に入らない。
美しいものを集めることは、彼女にとって趣味というより本能に近かった。
服も、宝石も、香油も、花も。
傍に置く侍女も、護衛も、できる限り見栄えのいい者を選んできた。
醜いものは視界に入れたくない。
鈍いものは傍に置きたくない。
価値のあるものは、手の届く場所に置いておきたい。
そして、その中で最も美しいのは、常に自分であるべきだった。
それは疑いではなく、前提だった。
だからこそ、あの黒髪の青年は気にかかる。
自分を脅かすほどではない。
けれど、視界から流してしまうには惜しい。
飾り棚にしまう前に、手に取って角度を確かめたくなる宝石のように。
「リゼリア様」
扉の外から、侍女の声がした。
「ベリオン様がお見えです」
リゼリアは鏡から視線を外さなかった。
「通してちょうだい」
扉が開き、ベリオンが入ってくる。
穏やかに微笑んでいるのに、瞳の奥だけが静かに冷えている。
彼は深く頭を下げた。
「お時間をいただき、ありがとうございます。リゼリア様」
「構わないわ。あなたには、お願いをしていたもの」
リゼリアは鏡越しに彼を見る。
彼女は、ラーナと呼ばれる客人が、塔の侵入者騒ぎとまったく無関係だとは思っていなかった。
だから、すでにベリオンへ探りを入れさせていた。
「それで、どうだったのかしら」
侍女たちは合図を受けて、一歩下がった。
ベリオンは、声の調子を変えないまま答える。
「明確に断定できる不審点はありません」
「明確には、ね」
「はい」
ベリオンは穏やかに頷いた。
「ラーナ殿は、病弱な客人ということになっています。ですが、その説明にしては周囲への反応が速い。
視線の動き、重心の移し方、気配への反応。いずれも、単に体が弱い者のそれとは少し違います」
「病弱でも、勘のよい方はいらっしゃるでしょう」
「もちろんです。ですので、断定はいたしません」
ベリオンは微笑んだまま続けた。
「礼儀は整っています。ですが、言葉の奥に慣れがない。
城内で育った者でも、貴族として教育を受けた者でも、地方の上流階級でもない。少なくとも、そういう印象を受けました」
「……それは、私も感じたわ。他には?」
「塔という言葉に、一瞬だけ反応しました」
リゼリアの指が、膝の上で止まった。
「塔に」
「はい。ほんの一瞬です。見間違いと言われれば、それまでの反応ではあります」
「あなたは、そうは思っていないのね」
「観測結果としては、残しておくべきかと」
リゼリアは、小さく笑った。
「あなたらしいわ」
ベリオンは表情を崩さない。
「それと、私がラーナ殿の手首に触れようとした際、アルヴィン殿下が自然に遮りました」
その言葉に、リゼリアは初めて鏡から視線を外した。
「殿下が?」
「はい。肌が弱いという説明でした。強い拒絶ではありません。会話の流れとしては、非常に柔らかいものでした。
けれど、こちらが触れる余地は残されませんでした」
「そこまで?」
声は穏やかだった。
けれど、そこに含まれた温度は低い。
ベリオンは、それに気づいているのかいないのか、淡々と続けた。
「現時点では、侵入者であるとも、そうでないとも言えません。今は観測を続ける段階です」
「観測、ね」
リゼリアはその言葉を繰り返した。
ベリオンにとって、ラーナは観測対象だった。
未知であることに価値がある。
説明できない反応。
病弱という名目と噛み合わない身体の動き。
殿下の不自然な庇護。
そのすべてが、彼の興味を引いている。
けれど、リゼリアが見ているものは違った。
美しいこと。
アルヴィンが庇っていること。
触れさせなかったこと。
それだけで、あの青年には価値がある。
「殿下はお優しい方ですもの」
リゼリアは穏やかに微笑んだ。
それは、婚約者としての模範解答だった。
けれど、胸の奥では別の言葉が動いている。
アルヴィンが誰かを庇うことは珍しくない。
けれど、触れさせないほど近くに置くのは、何か違う。
物心つく前から、彼の隣に並ぶものとして整えられてきたのは自分だった。
恋ではない。
執着と呼ぶにも、少し違う。
けれど、自分以外の美しいものが、彼の隣で守られていることは面白くなかった。
そして、アルヴィンがそこまで大切にしているものならば、奪ってみたい。
そう思う自分を、リゼリアは少しも恥じなかった。
「不用意に近づくことは、おすすめしません」
ベリオンが静かに言った。
「正体が何であれ、アルヴィン殿下が意図して庇っている相手です。殿下の周囲にあるものへ手を伸ばせば、当然、殿下も反応なさるでしょう」
リゼリアは、声を立てずに笑った。
「それなら」
彼女は鏡の前から立ち上がる。
侍女がすぐに衣装の裾を整えた。
「招くことにするわ」
追いかける必要はない。
無理に掴めば、傷がつく。
ならば、こちらの場所へ来るようにすればいい。
整えられた花の中へ。
香りのある空気の中へ。
逃げ道も、言い訳も、美しく塗り込められた場所へ。
蛇は、いつも獲物に飛びかかるわけではない。
近づかせる。
油断させる。
息が浅くなるまで待つ。
ベリオンは、その意味を理解したように目を伏せた。
「病弱なお客様を気遣うのは、婚約者として当然でしょう?」
「形式としては、何も問題ありません」
「そうでしょう?」
リゼリアは満足げに微笑む。
ベリオンは深く一礼した。
「どうか、深入りはなさいませんように」
「優しいのね、ベリオン」
「観測対象が乱れるのは、好ましくありませんので」
リゼリアは、また笑った。
「本当に、あなたらしいわ」
ベリオンが去った後、部屋には花と香油の匂いだけが残った。
リゼリアはしばらく鏡の前に立ち、記憶の中のラーナをもう一度思い返す。
黒髪と白い肌、静かな目。
けれど、本当に引っかかっているのは顔立ちではなかった。
目を伏せた時の静けさ。
感情を奥へ沈めるような間。
礼をする時の、整いすぎた角度。
それが、誰かに似ている。
そう思った瞬間、リゼリアの脳裏に別の色がよぎった。
淡金の髪と薄氷の瞳。
雪を削り出したような横顔。
アステル・ヴァン=ロウ。
リゼリアは、すぐに眉をひそめた。
「……馬鹿げているわ」
髪も、瞳も、声も違う。
立場も、何もかも違う。
似ているはずがない。
アステルは、触れれば冷たさが指先に残るような、研ぎ澄まされた美しさを持つ男だ。
ラーナは、もっと黒い。
もっと危うい。
まだ形を与えられたばかりの影のような、不安定な美しさをしている。
似ているはずがない。
それなのに、一度浮かんだ違和感は消えなかった。
リゼリアは、美しいものを見る目だけは鋭い。
宝石の質も、布の光沢も、花が最も美しく見える角度も、彼女は直感で見分ける。
人も同じだ。
誰の顔立ちが整っているか。
誰の所作が本物で、誰の振る舞いが作り物か。
どの美しさが生まれつきで、どれが後から磨かれたものか。
そういうものを、リゼリアは見誤らない。
だからこそ、気づいてしまった。
ラーナの中にある、何か。
それが、どこかアステルに似ている。
意味は分からない。分かるはずもない。
けれど、違和感だけが残る。
それなら、近くで見なければならない。
殿下の客人としてではなく。
病弱な青年としてでもなく。
自分の目で、その価値を確かめる必要がある。
「便箋を」
リゼリアが言うと、侍女がすぐに動いた。
「白にして。香りは控えめでいいわ。あまり強いと、病弱なお客様にはお気の毒でしょう?」
用意された紙は、白くなめらかだった。
端には淡い金の装飾が施されている。
封蝋には、アルマード家の印を使う。
それだけで、ただの私的な手紙ではなくなる。
リゼリアは椅子に座り、ペンを取った。
文面は、すぐに浮かんだ。
《先日はゆっくりお話しできませんでしたので。
ラーナ殿のお身体に障らぬよう、温室にて小さな茶会を。
殿下にもご一緒いただければ心強く存じます。
長くお引き止めするつもりはございません》
人混みを避け、風の少ない温室を選ぶ。
短い時間、少人数にする。
どこにも責められるところはない。
むしろ、婚約者として完璧な気遣いだった。
断れば、アルヴィンはリゼリアの配慮を拒む形になる。
受ければ、ラーナはリゼリアの場に入る。
どちらにしても、こちらは損をしない。
リゼリアは最後の一文を書き終え、その美しい筆跡を眺めた。
感情の乱れなど、どこにもない。
侍女が赤い蝋を落とし、アルマード家の印を押す。
リゼリアは、固まっていく封蝋を見つめながら微笑んだ。
「病弱なお客様を気遣うだけですもの」
侍女が招待状を受け取り、深く頭を下げる。
「届けてちょうだい」
「かしこまりました」
リゼリアは窓辺へ歩いた。
硝子越しに、王城の温室が見える。
光を受けた屋根が、淡く白く輝いていた。
あそこに、あの黒髪の青年が立つ。
整えられた花々の中に置けば、きっとよく映える。
想像した光景は、思いのほか美しかった。
「殿下が触れさせたくないほどのもの、確かめてみたくなるわ」
リゼリアは、硝子越しの温室を見下ろしながら微笑んだ。
その笑みは美しく、柔らかく、少しも乱れていなかった。
「それに、近くで見れば、何に似ているのか分かるかもしれないわね」




