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想造のファルマコン  作者: 源泉
第二章ガラスの靴を踏み砕く音

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2-18 なくなる境目

城の朝は、昨夜の異変などなかったかのように美しかった。


磨き上げられた白い回廊には、細い朝日が斜めに差し込み、窓硝子に映った庭の緑が淡く揺れている。


遠くでは侍女たちの衣擦れと、控えめな靴音が規則正しく重なっていた。


城はいつも通りに目覚めていた。


けれど、その静けさの裏側では、すでに別のものが動き始めている。


塔に残された記録も、滞在申請の控えも、給仕の名簿も。

殿下の離れへ運ばれる食事の内容さえ、拾い上げる者がいれば情報になる。

病を理由に人前へ出る回数を制限された、アルヴィン殿下の客人。


その存在は、まだ噂にもならないほど静かに、城の中へ沈んでいた。


それらはどれも、ひとつずつ見ればありふれた情報だった。


けれど、並べれば形を持つ。

形を持てば、誰かの目に留まる。


そして、この城には、形になる前のものを眺めることを好む者がいた。


アルヴィンは、隣を歩くヤドクへ視線だけを向けた。


「疲れていないか」


ヤドクは少し遅れて、教えられた通りに目を伏せた。


「はい。問題ありません、アルヴィン殿下」


その返答は、ほとんど完璧だった。


声量も、間も、目線も、客人として不自然ではない。


黒い服の上から羽織った外套は首元まで整えられ、長い袖と手袋が、彼の肌を隠している。


歩調はゆっくりだった。


病弱な客人という設定に合わせ、アルヴィンがあらかじめ決めた速度だ。


だが、その遅さの中に、どこか人とは違う静けさがあった。


足音がほとんどしない。


背後の衣擦れに反応するのが早い。


すれ違う人間の視線が一瞬でも長く留まれば、ヤドクの黒い瞳は、穏やかな表情のままそちらを捉えている。


それは怯えではなかった。


警戒でもあり、確認でもあり、もっと原始的な何かでもあった。


アルヴィンはそれを咎めなかった。



「今日は少し風が冷たいな」



何気ない声でそう言い、ヤドクの視線を窓の外へ逃がす。

ヤドクは瞬きをしてから、庭の木々へ目を向けた。


「……風」


「そうだ。あまり長く歩かせると、またリゼリアに叱られるかもしれない」



冗談めかした言い方だった。

ヤドクは一拍置いて、少しだけ首を傾げる。



「リゼリア様は、アルヴィン殿下を叱るのですか?」


「婚約者とは、そういうものらしい」



ヤドクは真剣に考え込んだ。

その幼さが表に出かけた瞬間、アルヴィンはわずかに口元を緩める。


けれど、その笑みは長く続かなかった。


回廊の先に、人影が見えた。


灰白のローブをまとった男が、柱の影の中に静かに立っていた。

朝の光を受けても、その白はどこか灰を含んで見える。


乱れなく整えられた灰金の髪の下で、穏やかな微笑みだけが、貼りつけられたように動かない。


研究室の副室長ベリオン・グラズが、偶然のようにそこに立っていた。



「アルヴィン殿下」



ベリオンは柔らかく礼をした。



「おはようございます。朝からご散策ですか」


「おはよう、ベリオン。ラーナの気分転換に少し歩いているところだ」



アルヴィンの声は穏やかだった。

ヤドクも教えられた通り、一歩遅れて会釈する。


ベリオンの視線が、ヤドクへ向いた。

それは無遠慮ではない。


値踏みでもない。


ただ、目の前のものを正確に記録するための視線だった。


手袋で隠された手首から、首元まで整えられた襟元へ。

浅く乱れない呼吸、立ち止まる時の足の位置、アルヴィンとの距離。


そのすべてを静かになぞっていきながら、ベリオンの表情は少しも変わらなかった。



「ラーナ殿、おはようございます」


「……おはようございます」


「お身体があまり強くないと伺っております。今朝のお加減はいかがですか?」



柔らかい声だった。

心配する者の声に聞こえる。


ヤドクは答えようとして、ほんのわずかにアルヴィンを見る。

その小さな確認を、ベリオンの瞳は逃さなかった。


アルヴィンが自然に言葉を継ぐ。



「今日は落ち着いている。だから少し外へ出した」


「それは何よりです」



ベリオンは微笑んだ。



「もしよろしければ、研究室で扱っている薬草や魔道具の中に、ラーナ殿のお役に立てるものがあるかもしれません」



アルヴィンの表情は崩れない。



「気遣いに感謝する」


「いえ。殿下のご友人であれば、我々としてもできる限りのことをしたいだけです」


「必要があれば、こちらから頼むよ」



そこで終わるはずの会話だった。

だが、ベリオンは一歩だけ近づいた。



「ただ、体質によって合うものは異なります。

簡単な魔力の流れだけでも見ておけば、不要な負担は避けられるかと」



その手が、ゆっくりと上がる。


強引ではない。

拒む隙を残した、丁寧な動きだった。



「少し、手首だけでも」



ヤドクは動かなかった。

逃げることも、差し出すこともしない。


ただ、黒い瞳だけが、近づく指先を見ていた。


手袋の下で、毒紋が微かに疼く。

触れられる。

その予感だけで、皮膚の奥に色が走ろうとした。


アルヴィンは、まだ何も命じていない。

敵かどうかも、分からない。

だから、毒は出してはいけない。



ヤドクは呼吸を止める。


次の瞬間、アルヴィンが半歩だけ前へ出た。



「ラーナは肌が弱くてね」



声は柔らかかった。

けれど、その位置は正確だった。


ベリオンの指先とヤドクの手袋の間に、言葉より先にアルヴィンの身体が入っている。



「不用意に触れられると、体調を崩すことがある。すまないが、診察の類は控えてもらえるかな」



ベリオンは一瞬、手を止めた。



「それは失礼しました」



そして、何事もなかったように手を下ろす。



「無理をさせるつもりはありません」



アルヴィンは穏やかに頷いた。



「君の善意はありがたく受け取っておく」



善意。

その言葉が回廊に落ちる。


ベリオンは微笑んだままだった。



「塔の近くは、最近少し騒がしいでしょう。ラーナ殿は、ご不安ではありませんか?」



塔。



その一語で、ヤドクの呼吸が一度だけ止まった。


ほんのわずかだった。

普通なら見逃すほどの、短い空白。


だが、ベリオンはそれを見逃す側の人間ではなかった。

ヤドクはすぐに息を整え、目を伏せる。



「……いいえ」



声は乱れていない。



「アルヴィン殿下が、よくしてくださいますので」



アルヴィンは、ヤドクの返答を聞いてから静かに言う。



「ラーナは疲れやすい。このあたりで失礼するよ」


「ええ。長くお引き止めしてしまいました」



ベリオンは道を譲った。

その仕草はあくまで礼儀正しい。



「どうぞ、お大事に。ラーナ殿」



ヤドクは礼を返す。



「お気遣い、感謝いたします」



整った返答だった。

けれど、ベリオンにはその整い方が気にかかった。


身に染みついた礼儀ではない。

言葉の奥には慣れがない。

それなのに、所作だけは不自然なほど整っている。


アルヴィンとヤドクは、そのまま回廊を進んだ。


角を曲がり、ベリオンの視線が届かない距離まで離れてから、アルヴィンが低く言う。



「あいつには気をつけろ」



ヤドクは前を向いたまま頷いた。



「うん」



その返事は、“ラーナ”のものではなかった。

アルヴィンは咎めない。


人の気配がないことを確認し、歩調だけをわずかに緩める。



「怖かったか」



ヤドクは少し考えた。



「怖い、とは違うと思う」


「では、何だ」


「触られたら、毒が出そうだった」



アルヴィンの足が、ほんの少しだけ止まりかける。


ヤドクは自分の手袋を見つめた。



「ミオリには触れたいと思うのに」



声は小さかった。



「他の人に触られそうになると、体が勝手に嫌がる」



その言葉に、アルヴィンはすぐには返さなかった。

ミオリのために生まれた青年。


触れたい相手には触れられず、触れられたくない相手には毒が出る。


その残酷な構造が、朝の光の中であまりにも静かにそこにあった。



「今は、それでいい」



アルヴィンはようやく言った。



「出さなかった。それで十分だ」



ヤドクは顔を上げる。



「十分?」


「ああ。お前は抑えた」



ヤドクはその言葉を、何度も胸の中で確かめるように黙った。


少しだけ、手袋の下の毒が静まる。



「アルに触れられるのは、嫌じゃない」


「……そうか」



アルヴィンは穏やかに笑った。



「なら、私はその信頼を裏切らないようにしないとな」



二人は静かに歩いていく。



一方、回廊に残されたベリオンは、二人の背中が消えた角を見つめていた。


微笑みはまだ唇に残っている。


だが、瞳には一切の温度がなかった。



「接触は自然に避けられた」



小さく呟く。



「殿下の説明は自然だったが、視線の反応はただの病人にしては鋭い」



単独では、ただの違和感にすぎない。

だが、違和感は集めれば輪郭になる。


輪郭ができれば、名を与えられる。

名を与えられたものは、やがて捕まえられる。


ベリオンはゆっくりと踵を返した。


向かう先は塔だった。

研究室の扉を叩くと、中から短い返事があった。



「入れ」



アステル・ヴァン=ロウは、机上の書類から顔を上げた。


淡金の髪が魔力灯の下で薄く光り、薄氷の瞳がベリオンを捉える。



「何の用だ」


「殿下の客人に、少し気になる点があります」



アステルの表情は動かない。



「またそれか」


「ええ。またそれです」



ベリオンは穏やかに笑った。



「ラーナ殿。病弱な客人ということになっていますが、どうにも説明に合わない部分が多い」


「貴族の客人など、多少の秘密はあるだろう」


「もちろん。ですが、塔の事件の後から人前に出るようになり、殿下が他者との接触を遮り、塔という言葉に反応する客人は、そう多くありません」



アステルの指が、わずかに止まった。


塔の事件。

毒。

殿下の客人。


それらの言葉だけで、あの日の部屋が脳裏に蘇る。


粉々に割れた窓。

溶け落ちた格子。

腐食した装置。

意識を失った研究者たち。


そして、魔力を失い眠っていたミオリ。


侵入者ではなかったのかもしれない。


一度押し戻したその可能性が、また静かに浮かび上がる。



「ラーナ殿は、どのような様子だった」



アステルは静かに問うた。

ベリオンはその声の変化を聞き逃さなかった。



「儚く、美しい青年でしたよ」


「感想を聞いているのではない」


「では、観測結果を」



ベリオンは一歩進み、淡々と続ける。



「礼儀は整っていますが、身につき方がどこか整いすぎている。

動作に迷いは少ないのに、言葉の奥に慣れがない。

病弱な客人にしては周囲への反応が速すぎる。

殿下は彼への接触を、事前に想定していたような速さで遮りました」



アステルは沈黙した。



「それから、塔という言葉に反応しました」


「……反応」


「一瞬だけ、呼吸が止まりました」


「それだけか」


「ええ。それだけです」



ベリオンは微笑む。


「ですが、私はそれで十分だと思っています」


アステルは椅子に背を預けた。


病弱な客人。

アルヴィンに守られた、儚い青年。


それと、あの破壊された部屋が結びつかない。


だが、結びつかないことは、否定する理由にはならなかった。



「決めつけるな」



アステルは低く言った。



「証拠がない」


「はい。ですので、観測を続けます」



ベリオンは、まるで最初からその答えを待っていたかのように頷いた。



「捕らえる必要も、問い詰める必要もありません。今はまだ」



その言葉の奥にあるものを、アステルは理解していた。


ベリオンは結論を急がない。

急がないだけで、諦めることはない。


アステルは窓の外へ視線を向けた。

塔の結界は完成している。

侵入も、脱出も、以前より遥かに難しくなった。


それでも、もし。


本当に、すでに外へ出ているものがあるのなら。

塔はもう、閉じた檻ではない。

檻の外から、誰かがこちらを見ている。



「……余計なことはするな」



アステルは言った。

ベリオンは微笑む。


「もちろんです。私はただ、見るだけですから」


扉が閉じる。


その音が消えたあとも、アステルはしばらく動かなかった。


机上の書類には、未処理の報告が積まれている。


そこに記されている数字も、魔力値も、症状も、どれも正確だった。


正確であるほど、肝心なものだけが抜け落ちているように見えた。


アステルは目を閉じる。


浮かんだのは、眠るミオリの横顔だった。


黒い髪が白い肌にかかり、閉じた瞼の下で、彼女は何も知らないまま静かに息をしていた。


その周囲には、あの日の部屋に残されていた想造の痕跡が、まだ消えきらずに漂っている。


そして、その中心から、名を持たないまま外へ消えた何かがいた。


まだ、結論ではない。


だが、観測は次の段階へ進んでしまった。


誰にも止められないほど静かに。


朝の光は、塔の窓を白く照らしていた。

守るものと閉じ込めるものの境目だけが、音もなく薄れていく。

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