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想造のファルマコン  作者: 源泉
第二章ガラスの靴を踏み砕く音

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2-17 舞台袖の静寂


外套の留め具に指をかけたところで、ベリオンは足を止めた。


廊下の空気がわずかに変わる。

魔力灯の淡い明かりの下、足音が一定の間合いで近づいてくる。

急がず、揺らがず、塔の静けさを乱さない歩き方――研究者のそれだ。


曲がり角から現れたのは、研究室の室長アステルだった。

立場だけで言えばベリオンの上司にあたる。

夜明け前の疲れを隠しきれないはずの時間帯に、顔色だけが妙に整っている。

整えたのではなく、整ってしまった、と言うべきか。

眠りを切り捨てることに慣れた者の肌だ。


「室長」


ベリオンが軽く礼をすると、アステルは足を止め、同じだけの礼を返した。


「珍しいなベリオン。君がこの時間に外へ出るのは」


言葉は穏やかだが、探りではない。

事実確認だけが乗っている。


ベリオンは外套の留め具から指を離し、代わりに書類の挟まった薄い革封筒を持ち直した。


「少し、意見を頂きたいと思いまして」


「意見?」


「相談と言い換えても構いません。

断定はしません。――ただ、記録が綺麗すぎる」


アステルの眉が、ほんのわずかに動く。

「綺麗」という単語に、研究者の感覚が反応したのだろう。


「ここでは落ち着かない。……中へ」


廊下の片隅、壁際の簡易卓――人の往来を邪魔しない場所に移る。

朝にもならない時間帯。

誰も盗み聞きはしない。

それでもアステルは、無意識に周囲の気配を一度だけ確かめた。

静かな時間にはどこから音が漏れるかは分からない。


ベリオンは封筒から紙を取り出した。

正式な報告書ではない。

余白が多く、行間に観測者の逡巡が滲む。


「昨夜、殿下の離れ周辺で魔力の“揺れ”がありました」


アステルの目が紙面を追う。

視線は速いが、読み飛ばさない。

結論だけを欲しがらない。

だからこそ、厄介でもある。


「記録上は――塔内の事故ではない。

結界の欠損でもない。

警備の穴でもない、ですが……」


「観測したのは誰だ」


「私の部下です。正式系統には上げていません。上げるには、材料が足りない」


アステルは頷きもせず、否定もしない。

代わりに問いだけを増やす。


「それは……一点にか。それとも拡散か」


「一点に見える揺れです。爆発ではない。侵食でもない。干渉に近い。……揺れ方が、あまりに、静かすぎる」


「静かすぎる?」


「派手な異常は、処理しやすい。記録に残り、責任の所在も決まる。ですが、これは……『何も起きなかったふり』ができる種類の歪みです」


アステルはそこで初めて、短く息を吐いた。苛立ちではない。理解に近い呼吸だ。


「離れに、実験系統の導線はない」


「承知しています。ですから、“塔から漏れた”という説明は成立しません」


ベリオンは紙面の末尾、追記された一行を指先でなぞった。指が止まる場所は決まっている。


「観測者の主観が混じっています。ですが、捨てるには質が違う」


アステルの視線が、その一行に落ちる。


――【想造】の際に感じる魔力、あるいは【想造物】が纏う残滓に似ているように思われる。


読み終えた瞬間、アステルの呼吸が一拍だけ遅れた。

止まったわけではない。

乱れたわけでもない。

ただ、間ができる。

名前を呼ぶ直前のような、微細な沈黙。


ベリオンは、その沈黙を追い詰めない。言葉を足せば、それは「誘導」になる。今ほしいのは誘導ではなく、確認だ。


「……ベリオン、お前は、そこに何を見たい?」


アステルの声は低い。

責める調子ではない。

むしろ、確かめるための声だ。

ベリオンが“いい加減なことは言わない”と知っているからこそ、問いが成立している。


「私は、まだ何も言語化していません」


ベリオンはあえて、そう返した。

仮説を口にした瞬間、それは扱う対象になる。

扱われた瞬間、盤面が動く。


「ただ」


一拍置く。


「塔の騒ぎと、客人の滞在開始が同時期です。偶然でしょうが、記録としては綺麗すぎる」


「滞在申請は一月前に出ている」


「“出ていることになっている”の可能性も、形式上は否定できません」


アステルは視線を外し、窓のない壁を見た。そこには何もない。

だが彼は、そこに別の存在を見ている。

ミオリという名を出さないまま、彼女の位置を確かめている。


守る対象。

だが立場としては、管理対象。


その二つを両立させるために、アステルはいつも言葉を選ぶ。

選びすぎて、結論を先送りにする。

それが、彼の善意の形だ。


「今はまだ、客人に触れるな」


結論ではない。命令でもない。

配置の指定だ。

盤面を崩さないための線引き。


「承知しています。接触はしません。

ほかの誰にも共有もしていない」


「それなら続けろ……だが」


アステルは少しだけ言葉を探し、最後に最も無難な形へ落とした。


「記録は残せ。しかし、表に出すな。断定もするな」


ベリオンは微かに口角を上げた。

笑みではない。合意のサインだ。


「同じ考えです、室長」


アステルはそれを聞いて、ようやく頷いた。


半信半疑のままだ。だが、信頼は揺がない。少なくとも、“この男が軽率に火をつけない”という点だけは確信している。


「……もう一つだけ」


アステルは低く言う。


「その揺れが、“誰かの意思”によるものだとしたら。――君はどうする」


ベリオンは答えなかった。答えないことで、答えた。


判断はまだ早い。

今、判断した瞬間に世界が変わる。

変わった世界の責任は、言葉を発した者が負う。


だから、ここでは――観測者のままでいる。


ベリオンは外套の留め具に指をかけ直したが、締めなかった。

外へ出る足は、止まったままだ。


「意見は十分です」


そう言って、封筒に紙を戻す。


廊下の向こうで、誰かの足音が遠ざかる。

塔は今日も静かで、表の世界は平穏に見える。


だが、ベリオンの中では位置が変わった。


離れの周囲で揺れた、あの一瞬。


あれは事故ではない。制度の隙でもない――そして無関係でもない。


彼はまだ結論を持たないまま、確信に近いものだけを抱えて、ゆっくりと息を整えた。


しばらく不定期更新予定です。

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