2-8 鐘の音はもう鳴らない
アステルは、懐中時計を再び開いた。
規則正しく刻まれる秒針の音を聞きながら、
その音に引き寄せられるように、さらに別の記憶を辿っていく。
それは、まだこの時計が――
彼自身にとっても、彼女にとっても、
疑いなく「正しかった」と信じられていた頃の時間だった。
ミオリ・エルナが城に連れて来られたのは、
アステルが十八歳になった年のことだ。
転生者。
異質な力を持つ者。
その二つの言葉だけで、彼女の行き先は決まっていた。
表向きには、
「国のために使命を果たす、誇り高き存在」と思われていた。
だが実態は違う。
利用され、削られ、壊れ、
やがて使えなくなる。
その末路を、この国の歴史として、アステルは知っていた。
ミオリの力は、【想造士】と名付けられた。
望んだものを、この世界に再現する力と。
それは祝福ではなく、
最初から実験に組み込まれるための烙印だった。
当時のアステルは、研究室ではまだ若手だった。
研究の中枢に関わる立場ではなく、
与えられるのは雑務と補助、記録係としての仕事。
決定権も、発言力もない。
その一環として、彼はミオリの身の回りを担当することになった。
彼女は、怯えてはいなかった。
正確には、警戒はしているが、
状況を一段引いたところから見ているような、
年齢にはそぐわない落ち着きを帯びていた。
――それは、前世の記憶を取り戻していたからだった。
会話は多くなかった。
必要なことだけを確認し、余計な言葉は交わさない。
それでも、ミオリは時折、ぽつりと前の世界の話をした。
「電気で、いろんなものが動いてたの」
発電所から送られる力。
制御され、一定量で供給される仕組み。
夜でも明るい街。
離れた場所と声を繋ぐ道具。
アステルは、興味深く耳を傾けた。
魔力とはまったく異なる理屈。
だが、理論としては理解できる。
「時計も……すごく正確で。
小さくて、静かで。持ち歩けるくらい」
この世界の時計も存在はしていたが、
大きく、重く、誤差も多い。
各家庭にあるものでもなく、
時間とは、鐘で知らされるものだった。
アステルは、考えを口にしていた。
「電気の代わりに魔力を使えば、動かせるかも知れない」
ミオリは、目を見開いた。
「時計そのものの構造を一から作るのは難しいだろうが、
魔力を溜めて、一定の周期で力を変換する仕組みなら――理論上は可能だ」
「……本当?」
「ああ、どれだけ小型化出来るのかはやってみないと分からないが」
ミオリの声には、疑いよりも、
夢物語として切り捨てられなかったことへの、
ほっとした響きが混じっていた。
同じ前提で、話ができた。
それだけで、十分だった。
よく窓の外に見える時計台へと視線を向けていたアステルを、
不便そうだ、とミオリは思っていた。
前の世界の技術を、
話を理解しようとしてくれた彼に。
――見せてみたい。
ただそれだけの理由で。
その日、ミオリは願った。
「欲しい」と。
その瞬間、
空気が、震えた。
床の上に走る光は雲のように形を持ち、
やがてミオリの手のひらに終結した。
そこには小さな懐中時計が、
完成品として現れた。
精巧で、静かで、
この世界の理論から逸脱した内部構造。
だが――
ミオリは、その場に崩れ落ちた。
体を支える力が入らない。
知識の足りない部分を、魔力で無理やり補った【想造】。
さらに、他の実験も重なっていた。
これが初めての、本格的な魔力枯渇だった。
偶然、ミオリの部屋へ向かっていたアステルは、
扉の向こうに異変を察し、躊躇なく駆け込んだ。
心体症状、部屋に残る【想造】の痕跡。
「ミオリ……!」
研究対象であるという認識も、
手順や規則があるという知識も、
その瞬間だけは、意識の外へ滑り落ちていた。
ただ、彼女の手を取った。
自分の魔力を、直接流し込む。
正式な方法ではない。
推奨されてもいない。
だが、その瞬間、
彼は研究者ではなかった。
人だった。
しばらくした後、ミオリの呼吸が、ゆっくりと整う。
「……ごめんなさい」
かすれた声。
「アステルに、見せたくて。前の世界の、時計」
アステルは、ミオリの手に握られていたそれを受け取る。
銀色で丸く指で作った輪よりも小さなそれは、耳を近づけると微かに時を刻む音がする。
ミオリに説明され、蓋を開けるとアステルは声を漏らす。
「こんなに小さく、軽いのに確かにこれは……」
「アステル、いつもこの窓からあの時計台を睨むように見ているから。
ここ、鐘の音も聞こえなくて不便でしょう」
それは確かに、ミオリからアステルへの贈り物だった。
だが同時に、
【想造】されたものを許可なく個人が所有することは、
この塔では決して許されない行為でもあった。
その後、アステルは正式に研究室へ報告し、
許可を得て時計を分析した。
目的は二つ。
一つは、他の者に弄くられ、壊されるよりは自分でこの時計を分析したいから。
もう一つは、
この時計から魔力式の小型時計が実現できればミオリの成果になり、待遇が改善されるかもしれない。
そう考えていた。
内部構造。
電気的制御。
動力変換。
魔石から一定周期で魔力を出力する理論を組み立て、
再現に成功する。
魔力式小型時計。
静かで、正確で、持ち歩ける時間。
それは、宮廷から貴族へ、やがて一般へと広がっていった。
城の時計台は、
使われなくなった。
――皮肉なことに、
守るつもりで生み出した成果が、ミオリを「使える道具」として
より明確に証明してしまったことに、
その時のアステルは、まだ気づいていなかった。
だが、最初に想造されたその懐中時計だけは、
今も彼の手元にある。
それは、「正しかった」と信じるための物であり、
ミオリそのものの象徴であり、
救いであり、同時に縛りだった。
そして今、アステルは、懐中時計を見つめる。
守るために、管理するしかなかった。
そう信じ続けている。
それが、彼女を檻に入れ、
自分を番人にしたことに――
まだ、気づいていない。
秒針は、
今日も静かに、等しく、進み続けている。




