2-7 止まった時計にならぬために
アステルは、研究室で一人、懐中時計を見つめていた。
蓋を開けば、秒針は規則正しく音を刻んでいる。
静かで、正確で、裏切らない。
それとは対照的に、窓の向こうに見える城の時計台は沈黙したままだ。
かつては城中に時間を告げていた鐘も、今は鳴らない。
——時間とは、いつから止まったままでも構わないものになったのだろう。
自分がそれを決める立場に立つようになったのは、いつからだったか。
物心ついた頃、アステルはすでに城の中にいた。
豪奢な部屋でも、貧相な部屋でもない。
“置かれるための場所”として過不足のない部屋。
乳母はいた。
教師もいた。
衣食にも困らなかった。
だが、母はいなかった。
最初から「いない」わけではなかったことを、アステルは知っている。
母は、いた。
そして、去った。
それがどういう意味を持つのかを理解したのは、ずっと後のことだ。
城の中で、アステルは奇妙な位置にあった。
王の血を引く子。
だが、王子ではない。
名は与えられている。
だが、正式な立場はない。
誰かの所有物のようでいて、
誰の責任にもならない存在。
同情の視線。
憐れみの声。
そして、距離。
——触れてはいけないものを見るような目。
アステルは早くから学んだ。
感情を見せれば、余計なものを引き寄せる。
だから、何も感じていないふりをした。
王妃は、必要もないのに、アステルの前に現れた。
それは偶然ではない。
今ならはっきりと分かる。
彼女はいつも、穏やかな声で話した。
「あなたの母はね、とても……魅力的な方だったそうよ」
褒め言葉の形をした言葉。
だが、そこに混ぜられた毒の匂いを、アステルは嗅ぎ取っていた。
「王を惑わせるほどに」
「……ずる賢くて」
「あなたは、よく似ているわね」
真実を語っているのかどうかは、問題ではなかった。
重要なのは、その言葉がどこへ向けられているかだ。
母へ向かうべき感情は、
いつもアステルに向けて投げられた。
アステルは反論しなかった。
反論は、感情を見せる行為だからだ。
ただ、心を凍らせた。
それが、生き残るために最も確実な方法だった。
『アル』
そう呼ばれた記憶だけが、残っている。
母が、そう呼んだ。
短く、やわらかく、確かに自分に向けて。
その愛称は、アステルにとって唯一に近い“呼ばれた記憶”だった。
だからこそ。
王妃が、腹違いの弟をその名で呼ぶのを、
アステルは黙って聞いていた。
アルヴィン。
第一王子。
選ばれた存在。
同じ呼び名。
同じ城。
だが、立つ場所は決定的に違う。
それを理解していなかったわけではない。
ただ、理解しているからこそ、何も言わなかった。
年を重ねるにつれ、
アステルの容姿は、周囲が口を揃えて「美しかった」と語る母に似ていった。
それに比例するように、
王妃の言葉に含まれる毒は、はっきりと濃くなった。
同時に、別の種類の視線も増えた。
才能を称える声。
容姿を褒める言葉。
期待や好意を隠そうともしない近づき方。
だが、アステルの心がそれらに触れることはなかった。
すでに彼は知っていた。
甘さも毒も、形が違うだけで同じものだということを。
だから、もう揺れなかった。
城の外に出る自由はなかった。
王族として遇されることもない。
かといって、市井に降りることも許されない。
未来について語られることもなかった。
——選択肢が、最初から存在しなかった。
だからアステルは、自分に残された唯一の道を選んだ。
役に立つ存在になること。
生来の魔力と、知性。
それだけを頼りに、宮廷魔術師の道へ進んだ。
研究室では、評価された。
成果を出せば称賛され、
失敗すれば「血筋の割に」と囁かれた。
贔屓だと言われ、
実力だと言われることは少なかった。
それでも、アステルは気にしなかった。
誇りにするほどのものではない。
救いになるほどのものでもない。
だが、そこには——必要とされる理由があった。
それだけで、十分だった。
止まった時計台。
進み続ける秒針。
時間とは、待ってくれるものではない。
呼びに来てくれるものでもない。
それでも、人は時間の中で選ばれる。
——選ばれなかった者は、
選ぶ側に回るしかない。
そのことに、アステルはまだ気づいていない。
自分がすでに、
止めることでしか守れない人間になりつつあることにも。
懐中時計の冷たい感触だけが、
その予兆を、静かに刻んでいた。
懐中時計を握る指に、わずかな力がこもる。
——あの時も、同じだった。
研究室長に任じられた日のことだ。
祝辞も、視線も、形式ばった言葉も、すべて覚えている。
それらは正しかった。
正しく、順序立って、何の問題もなかった。
だからこそ。
私的な場で向けられた王妃の言葉は、
ひどく静かで、ひどく正確だった。
「ますます母親に似てきたわね」
声は穏やかで、責める調子でもなかった。
「あなたの母親は、あなたを利用して王宮に入り込もうとした」
事実かどうかは、どうでもよかった。
その言葉が、どこに向けられているかだけが重要だった。
「あなたも同じよ。【想造士】を利用して、立場を手に入れた」
その瞬間、アステルの中で、何かが音もなく崩れた。
違うはずだった。
自分は、母とは違う存在だと。
そう信じることで、ここまで来た。
守っている。
管理している。
——研究者として、正しい側にいるはずだった。
だが、そのすべてが、
「利用している」という一語で、等価に並べられた。
否定はしなかった。
反論もしなかった。
ただ、理解してしまった。
自分はもう、
“正しく在れる側”ではない。
それでも、立場を捨てることはできない。
研究を止めることも、逃げることもできない。
残された選択肢は、一つだけだった。
——管理することで、守る。
懐中時計の蓋が、カチリと閉じられる。
秒針は止まらない。
だが、戻ることもない。
あの時から、
自分の時間は、別の形で動き始めてしまった。
それが間違いだと、
まだ、確かめる術もないまま。




