#4 プレオープン!
秋葉原の裏通りにある赤レンガの建物前。 改装工事を終えた『カフェ・アルベルト』の店内には、研ぎ澄まされた緊張感が漂っていた。
「……よし。二重扉の開閉スムーズ、厨房の手洗い場は肘で操作できるレバー式水栓に変更完了。食器棚の扉の立て付けも問題なし」
相模原 蓮はチェックリストを挟んだバインダーを片手に、カウンター奥の厨房を入念に確認していた。
今日は、カフェ開業に向けた最大の山場の一つ――保健所による店舗立ち入り検査の当日である。
この検査をクリアし「飲食店営業許可証」が発行されなければ、どれだけ内装を整えようが、どれだけ美味しいパンケーキが焼けようが、1日たりとも営業することは許されない。
「相模原殿……! 私のこの姿に落ち度はないか!?」
ルクレシアが慌ただしく厨房から顔を出した。 今日の彼女は甲冑を脱ぎ捨て、ピシッとシワのない白のコックコートと清潔なエプロン、そして髪をしっかりまとめた三角巾を身につけている。腰には細身の剣の代わりに、ピカピカに磨かれた泡立て器が差し込まれていた。
「バッチリですよ、ルクレシアさん。清潔感は完璧です。……レグちゃんも準備OKかな?」
「キュ〜ン」
カウンター下の専用スペース(CITAの指導に基づき設置された二重柵付きの頑丈な待機所)で、レグが首元の青い安全首輪を誇らしげに見せつけながら鳴いた。
「よし。立ち入り検査員の方は、異世界関連の店舗検査を専門にしているベテランの方です。変に気負わず、日頃の衛生管理の講習で習った通りに対応すれば大丈夫ですよ」
「う、うむ! 騎士団の検閲に比べれば……いや、やはり生きた心地がせん……!」
緊張でガチガチになっている元騎士団長を蓮がなだめていると、入口のドアベルが涼やかな音を立てた。
カランコロン。
「失礼します。千代田保健所・生活衛生課の神保です。本日、飲食店営業許可の現地確認に伺いました」
現れたのは、グレーのスーツに身を包んだ鋭い眼光の眼鏡の女性――神保監視員だった。彼女は手元に厚い記録用紙を抱え、店内を厳しい視線で見回した。
「初めまして、神保様! 店舗責任者のルクレシア・フォン・アルベルトと申します! 本日はよろしくお願いいたします!」
ルクレシアがビシッと直立不動で敬礼する。神保監視員は少し眉をひそめたが、淡々と手帳を開いた。
「はい、よろしくお願いします。では、さっそく厨房の設備から拝見します。……相模原さんもお立会いですね」
「ええ、CITAのサポート担当として立ち会わせていただきます」
神保監視員は一言も無駄な口を聞かず、厨房へと足を踏み入れた。
彼女のチェックは苛烈を極めた。 シンクのサイズと個数、冷蔵庫の内部温度、包丁やまな板の消毒設備の有無、ゴミ箱の蓋が足踏み式になっているかなど、指差し確認でひとつひとつ厳しくチェックしていく。
「……排水口のグリストラップの掃除頻度は?」
「毎日、営業終了後に分解洗浄を行います! 食品衛生責任者の講習にて徹底を叩き込まれました!」
「調理中の手洗いはどのタイミングで?」
「生鮮食品を触った後、作業工程が変わる際、そして……レグ(看板猫)に万が一触れてしまった後は、必ずあの肘操作式水栓で30秒以上の手洗いとアルコール消毒を行います!」
ルクレシアは汗をかきながらも、蓮と一緒に叩き込んだ知識を正確に答えていく。神保監視員の表情は崩れないが、チェックシートには着実に「適」の文字が書き込まれていった。
しかし――神保監視員がカウンターの下のレグの待機場所に目を向けた時、ぴたりと動きを止めた。
「……これが、申請のあったCITA特例・危険生物例外飼育のモンスターですね。Aランクモンスターのフェリス・レグナ」
「は、はい! CITA研の安全基準を満たし、魔力抑制首輪を常時装着しております! 近隣の皆様からの同意書もすべて回収済みです!」
ルクレシアが身を乗り出す。神保監視員はレグをじっと見つめ、静かに問いかけた。
「ルクレシアさん。衛生管理において、動物と調理場の完全な分離は絶対条件です。もし営業中、お客様やスタッフがこの子に気を取られ、衛生手順を怠ったら……あるいは、この子が調理場に侵入してしまったら、どうしますか?」
「それは――」
ルクレシアは言葉を詰まらせた。 法律や設備の知識は丸暗記した。だが、もしもの事態が起きた時、自分は本当に店主として完璧に衛生を守り切れるのか。
店内を一瞬、重苦しい沈黙が包み込む。
その時、レグが「ニャ〜……」と小さく鳴き、ルクレシアの足元ではなく、待機所の柵の前に置かれた「衛生管理ルール」の看板をちょんちょんと足で突いた。
ルクレシアは深く息を吐き出し、神保監視員の目をまっすぐに見つめ返した。
「神保殿。私は元・騎士団長です。騎士団において、ひとつの不注意やルールの逸脱は、部下の命に関わります。私はこのカフェを……人間とアークレシアの民が安全に、笑顔で過ごせる場所にしたい。そのためなら、私自身が誰よりも厳しい衛生の騎士となり、ルールを遵守し続けます。レグが万が一にも調理場に入らぬよう二重柵の施錠を徹底し、万が一の接触時にも完全な消毒手順を崩しません!」
その力強い言葉に、神保監視員はしばらくルクレシアを見つめていたが……やがて、ふっと眼鏡の奥の目を和ませた。
「……結構です。衛生管理計画、そして責任者の意識。基準を満たしています」
神保監視員はバインダーを閉じ、パチンと音を立てた。
「千代田保健所として、本店舗の『飲食店営業許可』を出します。後日、正式な許可証を発行しますのでCITA経由でお受け取りください」
「ッ……! ほんとうか……!? 許可が……降りたのか!?」
「ええ。ですが油断しないでくださいね。営業が始まってからが本番ですから」
神保監視員は小さく微笑むと、手帳を収めて玄関へと向かった。
「……やった……! やったぞ相模原殿ーーーッ!!」
神保監視員が見送りのドアを閉めた瞬間、ルクレシアは叫び声をあげて蓮の手を両手で激しく握りしめた!
「おめでとうございます、ルクレシアさん! これで晴れて、正真正銘の『カフェ・アルベルト店主』ですよ!」
「おめでとうございますーっ!」 影で見守っていたリリアも飛び出してきて、パチパチと拍手を送る。レグも「ニャー! ニャー!」と歓喜の声をあげて柵の中でグルグルと回っていた。
「感謝する……! 相模原殿、リリア殿! 君たちがいてくれたからこそ、私はこの過酷な試練を乗り越えられた……!」
感極まって涙ぐむルクレシア。 しかし、蓮はニヤリと笑うと、書類カバンから最後の1枚の用紙を取り出した。
「感無量なところ申し訳ないですが、ルクレシアさん。許可が出たということは……いよいよですね」
「む……? 何だ?」
「『オープン記念プレ営業・招待状』の発送と、メニューの最終試食会です。CITAの所長や、あのCITA研の一ノ瀬博士、それに商店街の和夫さんたちも招きますからね。至高のパンケーキ、焼いてもらいますよ!」
「お、応!! 任せておけ! 最高のパンケーキで皆を驚かせてやるぞ!」
ルクレシアは泡立て器を空にかざし、眩しいほどの笑顔を見せた。
「――よし、焼き加減よし! ホイップクリームの立て具合も完璧! そして、タピオカミルクティーの準備も万端だな!」
カフェ・アルベルトの厨房。コックコートに身を包んだルクレシアは、真剣な眼差しでフライパンを見つめていた。 ジューッと心地よい音を立てて焼き上がったのは、厚さ数センチもある純白の生地――特製の「異世界風ふわふわパンケーキ」だ。
ついに迎えた、プレオープン当日。 CITA(中央異世界管理局)の特設招待枠として、関係者たちを招いた内覧会兼試食会が始まろうとしていた。
カウンターの隅では、看板猫のレグが首元の青く光る安全首輪を誇らしげに揺らしながら、お座りをしてじっとパンケーキの完成を待ちわびている。
「ルクレシアさん、準備は順調そうですね」
書類カバンを抱えた相模原 蓮が、エルフのリリアを連れて客席フロアに入ってきた。
「おお、相模原殿! 待っていたぞ!」ルクレシアはフライパンを置いて振り返った。「いよいよだな……。あの保健所の厳しい検査を突破し、法的にも完璧に整えたこの店で、初めて客を迎える……! 正直、魔物の大群を前にするより緊張する!」
「大丈夫ですよ、ルクレシアさん。あなたがあの分厚い法律のテキストを夜な夜な読み込み、一歩ずつ積み上げてきた努力を、僕たちは一番近くで見てきましたから」
リリアも大きく頷く。 「そうですよ! レグちゃんも応援してますし、絶対に大成功します!」 「ニャ〜(任せろ、俺が味見してやる)」レグが小さく鳴いた。
その時、店の外からカランコロンと心地よいベルの音が響いた。
「おや、さっそくお客様のご到着ですね」
扉が開くと、まず最初に現れたのは白衣を翻したCITA研の生命管理課長・一ノ瀬博士と、異世界魔術学者のガザルだった。
「やあやあ、来たよ! Aランクモンスターが看板猫を務めるカフェの噂を聞きつけてね!」 一ノ瀬博士は目を輝かせながら店内を見渡し、窓際の席にちゃっかりと腰を下ろした。 「一ノ瀬さん、あまり騒がしくしないように。……しかし、この空間の魔力バランス、見事に安定しているな。人間の建築技術とエルドリアの結界魔法が美しく調和している」と、ガザルも感心したように頷く。
続いて入ってきたのは、向かいの老舗和菓子屋、錦屋の店主・和夫と、看板娘のフィオナだった。 「よっ、ルクレシアさん! プレオープンおめでとう! 祝儀代わりにうちの特製あんこを持ってきたよ」 「わあ、すっごく素敵なお店! 煉瓦造りの雰囲気が最高ですね!」
さらに、隣のジャンクショップのグラムや、オーク族のガラクたち商店街の面々も次々とやってきて、狭い店内はあっという間に人間と異世界の民の笑顔で埋め尽くされた。
「皆様……本日はカフェ・アルベルトのプレオープンにお越しいただき、誠にありがとうございます!」
ルクレシアはカウンターの前に立ち、少し緊張しながらも、騎士団長時代を彷彿とさせる堂々とした声で挨拶した。
「私はかつて、剣をもって故郷の秩序を守る者でした。しかし、この素晴らしい日本という国でパンケーキという最高の甘味に出会い、そして法と手続きを学ぶことで、新たな夢を見つけました。人間も、異世界の民も、そして魔物さえもが、共に笑顔で憩える場所をここに創ります!」
パチパチパチ……と、店内から温かい拍手が沸き起こる。 レグも「ニャーッ!」と威勢よく鳴いて盛り上げに加わった。
「それでは皆様、お待ちかねの……我が人生をかけた極上のパンケーキとタピオカミルクティーを、どうかお召し上がりください!」
厨房から一斉に広がる、香ばしいバターと甘いメープルシロップの香り。 リリアとルクレシアが手際よくテーブルへ料理を運んでいく。
一ノ瀬博士がひとくちパンケーキを口に運んだ瞬間、その目がカッと見開かれた。
「んんっ……!? な、なんですかこれ……!! 口に入れた瞬間にシュワッと溶けて、濃厚な甘みが広がるのに、後味が驚くほど軽やか……! 科学的に分析不可能なレベルで美味しいです!!」
「うむ……!」ガザルも目を丸くする。「地球の小麦粉とエルドリアの精製蜂蜜の配合比率が神がかっている。私の魔導理論すら超える至高の味だ……!」
和夫も一口食べて深く頷いた。 「こりゃあ参ったねえ。うちの和菓子のあんこと合わせたら、絶対にとんでもない化学反応が起きるぞ」
店内のあちこちから、美味しいという歓声と笑顔が溢れ出した。 誰もが人種や出身世界の壁を忘れ、ただ純粋に目の前の甘味と時間を楽しんでいる。その光景こそが、ルクレシアが心から望んだ「平和の形」だった。
カウンターの端で、蓮はタピオカミルクティーをストローで飲みながら、その賑やかな様子を静かに眺めていた。
「……ふう。これで、本当に一段落だな」
「そうですね、蓮さん!」 隣に立ったリリアが、嬉しそうに目を細めた。 「最初はビザの申請も、消防法も、不法侵入者もいてどうなることかと思いましたけど……こうして見ると、苦労した甲斐がありましたね」
「ああ。法律や手続きなんてものは、面倒くさい紙切れの束に見えるかもしれないけど……結局のところ、こういう人たちの『笑顔と安全な日常』を守るための盾でしかないんだからな」
蓮がそう呟いた時、足元で「ニャ〜」と甘えた声がした。 見下ろすと、レグがちょこんと座ってこちらを見上げている。首元の青い首輪がピカッと光った。
「なんだ、お前もパンケーキが欲しいのか?」 「ニャッ!」
カウンターの向こうでそれに気づいたルクレシアが、満面の笑みでこちらに手を振った。
「相模原殿! レグ! まだまだ焼き立てがあるぞ! 思う存分食べてくれ!」
ルクレシアの試練 修了




