#12 邂逅
漆黒の巨大ムカデに踏み潰されてから、およそ一ヶ月の月日が流れていた。
エルドリア大森林の深淵なる森の気候は常に淀み、季節の移り変わりなどという概念は存在しない。
崩壊しかけていた紫黒色の肉体は、細々と小さな虫や腐肉を漁り続けることで、驚異的な再生能力を発揮して癒えていった。砕け散った背中の外骨格は再び盛り上がり、以前よりも硬質で、薄汚く鈍い光を放つ黄金色の甲殻へと再構築されている。かつては指先ほどのサイズしかなかったその異形の躯体は、この一ヶ月間の養分蓄積を経て、今や大型犬に匹敵するほどの巨躯へと膨れ上がっていた。
その日、幼虫は古びた大木の根元にぽっかりと開いた深いうろの中で身を休めていた。
暗く湿った洞内は、獲物を待ち伏せるには絶好の空間だった。しかし、その静寂を破るように、重く乾いた足音が遠くから響いてきた。
「おい、この辺りも最近魔物の気配が変わってきやがった。気を抜くなよ」
粗野な男の声だった。 エルドリア大森林の周辺国から、素材や金品を求めて来た人間の冒険者たちであった。その一団――前衛の戦士、後衛の斥候、そして魔法使いの男3人が、慎重に足場を確認しながら木のうろへと近づいてくる。
斥候の男が、うろの暗がりに潜む巨大な影に真っ先に気づいた。
「うおっ……なんだこれ……!? おい、見ろよこの気色悪い化け物を!」
戦士の男が忌々しげに大剣を抜き放ち、唾を吐き捨てる。
「チッ、気味の悪い虫型の魔物か。素材になるかどうかも怪しいが、放置すりゃ厄介な害虫になるかもな。ここで始末するぞ」
男たちの殺気が一斉に跳ね上がった。
戦士が踏み込み、鋭い斬撃を伴った大剣を振り下ろす。
「ギィッ……!」
辛うじて身体を捻ったものの、完全には避けきれず、強烈な一撃が背中の硬い甲殻を激しく抉った。黒い外皮が砕け、またしても粘着質な青黒い体液がドロリと地面に飛び散る。 すかさず魔法使いの男が詠唱を始め、手元にパチパチと不穏な火花を散らす熱の塊を生成し始めた。
これ以上ここに留まれば、確実にあの人間どもに殺される。 幼虫は口器から濃縮された酸性の液を相手の足元へと乱雑に吐き散らし、その隙に無数の脚を激しく打ち鳴らしてうろの壁を強引に突き破った。
「待てっ、逃がすな!」
背後から男たちの怒号と、地面を焼く魔法の爆発音が追いすがってきたが、幼虫は脇目も振らずに暗い林道へと身を滑り込ませた。新しい傷から痛烈な痛みが走るが、もがきながら這い進むスピードは衰えない。
どれほどの距離を逃げただろうか。 人間たちの足音が完全に遠のき、追跡が途絶えたことを察知すると、異形は力なく巨木の根元に崩れ落ちた。
傷口から体液を垂れ流し、荒い気門の呼吸を繰り返しながら顔を上げたとき、視界が開けた。 そこは、深淵の森と外の境界だった。
そして、その境界のすぐ傍に――異質な存在が立っていた。
小さな人影だった。 人間の子どもの、それもまだ幼い少女だった。粗末な布切れを纏い、手には小さな木製の採集かごを持っている。彼女は、森の境界で突如として現れた犬ほどの大きさの、おぞましい芋虫の化け物を目の当たりにし、その場で凍りついたように動けなくなった。
少女の瞳が恐怖で見開かれ、小さく震えている。 しかし、彼女は逃げ出さなかった。足元から血と異臭を放ち、半身を壊してうずくまっているその巨大な虫が、致命的な重傷を負って死にかけている哀れな生物であることに気づいたからだった。
少女は恐怖に唇を噛み締めながらも、そっとその場に膝をついた。 そして、自分が森の探索用に持参していた携帯用の乾燥肉と、わずかな水が入った革袋を取り出し、異形の目の前へと恐る恐る差し出した。
「……けが、してるの……?」
幼い声が、の冷たい風にかき消されるように響いた。 異形には、その言葉の意味など理解できなかった。だが、目の前に差し出された物質から放たれる、確かな匂いだけは、本能の深部に直接突き刺さった。
警戒するように頭部をわずかに持ち上げたが、少女はそれ以上近づかず、そっと地面に食べ物を置くと、慌てたように踵を返して去っていった。




