#10 幼虫
とある深淵なる森の最奥、光すらも拒絶するような地表の裂け目に、その生物は生まれた。
森の名はエルドリア第森林。 ここにあるのは冷徹なまでの弱肉強食と、生命が生命を貪ることで維持される、残酷な循環だ。
その底辺の、さらに底。落ち葉の堆積層の隙間で、一匹の幼虫が這い出た。
全長はわずか数センチ。全身を覆うのは、光を鈍く吸い込む黄金色の外皮であり、その表面には常にネバネバとした粘液が薄くまとわりついている。その頭部にあるのは、ただ周囲の微弱な熱源と化学物質を感知するための小さな触角と、餌をすり潰すことだけに特化した原始的な口のみであった。
生れた直後から、その神経系を支配していたのは飢えという名の絶対的な命令であった。
周囲を見渡しても、そこにあるのは黒ずんだ泥と、他の無数の虫たちの死骸、そしてまだ孵化していない同族の卵の殻だけだ。幼虫は這うようにして、すぐ傍らに転がっていた半透明の卵嚢へと近づいた。思考はなく、ただ本能の赴くままに、その尖った顎を卵の薄膜へと突き立てる。
プツリ、という微かな破裂音。 中から溢れ出たのは、黄濁した粘度の高い体液と、まだ形を成していない未成熟の肉片であった。幼虫はそれを貪るように啜った。冷え切った内臓に、生暖かいタンパク質が流れ込んでいく。それは味覚による悦楽などではなく、ただ肉体が欲する燃料の補給に過ぎなかった。
数個の卵嚢を食い荒らし、殻の残骸まで綺麗に噛み砕いた頃、幼虫の体内であきらかな変化が起きた。 食べた分の質量がそのまま肉体の容積を押し広げ、外側の皮がパンパンに張りつめていく。背中の節と節の間から、ピキリ、と乾燥した亀裂が入った。
「ギ、ギチ……チ……」
口から不気味な気泡を吐き出しながら、幼虫は身体を激しく痙攣させた。古い外皮が頭部から尾部にかけて裂け、中から一回り大きく、より濃い紫色を帯びた新しい躯体がずるりと這い出る。
脱皮を終えたばかりの幼虫は、まだ新しい外皮が柔らかく、極めて無防備な状態にあった。本能が危険を告げているにもかかわらず、底知れぬ空腹感はそれを押し切って地上へと向かわせる。
腐葉土の層を押し分け、這い上がった先は、朽ち果てた巨木の根元だった。 エルドリア大森林の空気は重く、湿っていて、不快感に満ちている。幼虫の無数の小さな腹脚が、湿った苔の上を這うたびに、ネバついた軌跡が残された。
視界の端で、何かが動いた。
音もなく忍び寄ってきたのは、全長十センチメートルほどの「グレイブ・アント」であった。アークレシアの生態系においては、これもまた下位の捕食者に過ぎない。しかし、いまの幼虫の体躯からすれば、それは越え難い巨獣のような存在だった。
グレイブアントの複眼が、ぎょろりと幼虫を捉える。 逃げ場はない。
毒蟻が素早くその大顎を振り下ろし、幼虫の側腹部を深く抉りとった。 「プシュッ」という音とともに、青黒い体液が周囲の苔に飛び散る。肉を引き裂かれる痛覚が神経を駆け巡ったが、それに伴って幼虫の内部で奇妙な熱が疼き始めた。恐怖や怒りではない。それは純粋な敵対する肉体への執着、すなわち捕食衝動の暴走であった。
幼虫はひるむことなく、身を翻して毒蟻の前肢にしがみついた。 どれほど小さくとも、肉は肉である。毒蟻が再び顎を開こうとしたその瞬間、幼虫は自らの口器を最大まで開き、相手の関節の柔らかな部分へと噛みついた。
硬い外殻を砕くことはできない。だからこそ、幼虫は口から分泌される微量の酸性消化液を、その噛み傷へと流し込んだ。
「ギィ……!」
毒蟻が甲高い、耳障りな金切り声を上げる。 酸によって毒蟻の関節部分の組織がジリジリと白濁し、タンパク質が変性していく。内部の組織が溶け出すにつれて、毒蟻の動きが急速に鈍くなっていった。
幼虫はそのまま離れまいと全身の腹脚で相手にしがみつき、溶け始めた肉と体液を貪欲に吸い吸い上げていく。 相手の生命活動が完全に停止し、ただの肉塊へと変わるまで、幼虫は貪り続けた。毒蟻の青い血と自身の傷口から漏れる体液が混ざり合い、周囲の土壌を深く青黒く染め上げていく。
すべての栄養を吸い尽くした時、幼虫の躯体は先ほどよりも二回りほど膨れ上がっていた。 しかし、その変化は単なるサイズの増大にとどまらなかった。
背中の中心部が不気味に盛り上がり、ピクピクと脈を打つ。 耐え難いほどの痒みと熱量が内側から外側へと突き上げ、やがてゴリリ、と音を立てて、背骨に相当する部位から鋭い黒色の突起が数本、突き出すように生えてきた。それは毒蟻の持つ強靭な外骨格の性質を無理やり自らの肉体に定着させたものだった。




