大神の恋人
正統なギリシャ神話をお望みの方は、回れ右をお願いします。
「…またなの?」
不愉快そうに眉を顰める女は優雅な手つきで額を押さえる。
すべて計算し尽されたような所作は見る者を圧倒する。彼女を飾る装飾具さえ、それを誇りに思っているようだ。
豊かな亜麻色の巻き毛に陶器の肌。
豊かな知性を讃えた紫の瞳は何者にも侵されない。
オリンポスの12神の1柱にして、大神ゼウスの妻。天界に君臨する女王ヘラ。
傅く侍女には不思議でならない。
どうして大神はこのような方を妻にしておきながら、浮名を流し続けるのか。
「ヘラ様……」
案じる声にヘラはゆっくりと立ち上がると、細い指で髪を払う。
優美な身体の線に沿って流れた服の裾を侍女はさっと整えた。
何も言わずに微笑まれるだけで、こんなに幸せな気持ちになれるのに。
これ以上の方なんて、どこにもいないのに。
何故大神はこの方を無下になさるのか。
侍女は歩き出したヘラの後ろに従う。
どうか今日だけはヘラ様が傷つかなければいいと思う。
それは毎回叶えられない願いではあるけれど。
「なんだ。出向いてくるとは珍しいな」
悠然と腰掛けるゼウスは何ら悪びれることはない。
「なんだ、ではございません」
デメテルの娘がハデスに攫われ、しかもそれにはゼウスが関係しているという。
結婚と母性を権能とするヘラにとって、看過できる話ではない。
たとえ大神が相手であろうとも、一歩も引かないヘラに侍女は感銘を受ける。
「デメテルの嘆きが聞こえませんか。しかも…コレーはあなたの娘でしょう」
「娘のことを父親が決めて何が悪い?」
「親としての役割を果たしているなら、頷きましょう。ですがコレーが生まれてから、あなたは何もしていない」
冷え冷えとした空気が流れる。
二人の視線は互いを見据えたまま全く動かない。
しかしゼウスは短く息を吐くと、嘲笑うように口元をゆがめる。
「生憎、嫉妬深い妻がいるものでな」
ヘラは整った顔を崩すことなくそれを受け入れると、仕草だけで侍女を下がらせた。
後ろに控えていた侍女は気が付かなかったが、この時ヘラの顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「……。」
一切の表情というものを捨て去ったヘラに、ゼウスは薄く笑う。
先程まで怒りで冷たい炎を宿していた紫の瞳は、今はただの硝子玉のようだ。
「相変わらず、詰まらない女だ」
くつくつと哂いながらゼウスはヘラに歩み寄り、その華奢な頤を捉える。
力に従って上を向いた顔は整っているだけに人形のようだ。
歯向かうのさえ面倒だというように、何を言われても受け流す以上のことはしない。
「屈辱だろう。結婚の女神が夫の不実を責めるとは。その権能を侵され続けるのは。
どんな気分だ?お前ほど哀れな女も珍しいだろうな」
屈辱的な言葉にも一切の反応を返さない。
そんなヘラに軽く口づけると、ゼウスはヘラの腰を引き寄せ奥の部屋に誘った。
指が。
舌が。
身体を辿って熱を運んでくる。
「……っつ」
零れそうになる声を飲み込み、ただ時が過ぎるのを待つ。
そんな見え透いた努力をゼウスは嘲笑うかのように亜麻色の髪に指を絡める。
敏感になった肌は僅かな刺激にも、愚かしいほどの反応を示した。
「素直になればいいものを」
「……何に」
「知ったことか」
皮肉なのはお互い様だ。
人目がなければ殆ど会話がないことを思えば、寝台での二人は驚くほど会話がある。
それなのに時にヘラは耳を塞ぎたいほど苦しくなるときがある。
何故と自問するのはもう随分前にやめてしまった。答えを探すのは何故か苦しい。
「…んあぁっ!」
晒された首筋に舌が這い、ヘラは思わず悲鳴にも似た喜びの声を上げた。
足の先まで震えが走る。
ヘラは気力を振り絞ってゼウスを睨みつけたが、普段気丈なヘラが潤んだ瞳で強い視線を送ってもそれは皮肉なことに男の劣情を煽るだけの効果しかなかった。
「随分余裕があることだな?」
そんなはずはない。
ふるふると寝台の上に亜麻色の髪を広げたままで首を横に振る。波打つ髪が誘うような光を乱反射した。
いつだって余裕なのはゼウスだ。
今だって息も乱さす、飄々とヘラを嘲る。
ヘラが何かを考えられたのはそこまでだった。
「……んぁああっ!」
突然突き立てられた熱に、身体が溶ける。
冷え冷えとした心を取り残したまま、少なくとも身体だけは二人は一番近くなった。
僅かな軋みとともにゼウスが寝台を抜け出していく。
これからどこに行くのか、それはヘラの知ったことではない。
だが情事のあとの気だるさの中で、まだ隣に残っているぬくもりに手を伸ばした。
次期に冷めていくだろう温かさに縋るほど愚かではない。そう自分に言い聞かせてヘラは寝台から身を起こす。
「っく」
身体から欲望の残滓が流れ落ちていく感覚に、ヘラは下腹を押さえた。
身を整えたら大神の妻に戻らなければならない。
高慢で不遜。それでいて守るべき者には慈愛に満ちた顔も持つ。
美しく気高い大神の妻。天界の女王。
「ふっ…はは」
自嘲する笑いは荒んだ思いをそのままに表している。
そんな存在はどこにいる。
どこにもいない。少なくとも自分ではない。
それでもヘラは演じる。終わりない時間、演じ続ける。
それがゼウスの望みだから。
「顔を上げなさい。デメテルの娘」
凛とした声に僅かに不快感を滲ませた表情。
夫の不倫相手の子どもを前にした不快感を押し隠す女神の顔はこんなものだろうか?自問しながら相手の反応を探ると、大きく外してもいないようだ。
「はい…ヘラ様」
淡い金色の髪に春の野の色の瞳。
なるほど愛らしい娘だと思う。ハデスが求めたのも無理はない。
「話は聞きました。デメテルはお前とハデスの婚姻は無効だと訴えているわ」
「…お母様ったら」
「お前の意思を聞きましょう」
場合によっては結婚は無効としてもいい。大神の許す範囲に限るが。
デメテルの庇護を受けて生きてきた娘だ。
いじらしいほどのデメテルの過保護さに、嫉妬深い大神の妻を演じるヘラも見逃していたほどだ。
そんな娘が冥府での生活に耐えられるはずがない。
涙ながらに無効を訴えてくるものと思い込んでいた。
用意していた演技は、それを冷静に諌め無知を咎めた上で婚姻の女神の権能を示すこと。それだけだった。
しかしコレーはデメテルの行為に小さく不満を漏らしたかと思うと、春の風とともにふわりと笑い臆することなくヘラに言った。
「私たちの婚姻は有効です。ヘラ様」
「…え?」
しまった。
大神の妻なら、ここは「は?」だろうか。あるいは「何と?」か。
しかしそんなヘラの見当違いな困惑を意に介さず、コレーはにこにこと笑う。
「私はハデス様にお約束しているのです。地上の華やぎを冥府にお届けする、と。私はハデス様を愛します。どうかヘラ様。私たちの婚姻を認めてください」
迷いなくコレーは微笑む。
その微笑は娘ではなく、ハデスが与えたペルセポネという名が相応しい。
貼り付けた仮面の下で、ヘラは激しく混乱した。
無理やり奪われたのではなかったのか。少なくともデメテルはそう言っていた。
ならばどうしてコレーは笑えるのだろう。
辛かったことも抱えた複雑な思いも飲み込んで、これほど美しくなったのか。
愛せるなどと言えるのだろう。
混乱して口を閉ざしたヘラの態度を了承と取ったのか、コレーは踊るような足取りで辞していった。
生まれてから長い間、暗くぬるい場所で過ごしてきた。
そこには自分以外の誰かがいることは分かっていたが、何の興味も湧かなかった。
その場所はヘラを害することはなく、ただ閉じ込めているだけだった。必死で抜け出そうとも思えなかった。
後にその場所が父であるクロノスの体内であると知ったが、父に閉じ込められていたということがわかっても何の感慨も湧かなかった。
それ位、何もなかったのだ。
見事なまでに空っぽな存在だった。
そこに強い光が差し込まれたのは突然。差すような光に思わず目を塞いだのが、初めての自発的な行動だっただろうか。
父の中からヘラを引きずり出したのが、父の中に閉じ込められていた自分たちの弟と名乗る存在だった。
名をゼウス。
妻に、と望まれたときそれが何を意味するのか分からなかった。
空っぽの器に、丁寧かつある種の執念を持ってゼウスは必要なことを教え込んだ。
今後天界に君臨する自分の妻に相応しい振る舞い。
身の飾り方。
気高くあるにはどうすればいいのか。結婚を司る女神のあり方を。
手の動かし方から扇の使い方まで、大神の妻に相応しくあるべくすべてのことを教え込まれた。
今のヘラはその教えを愚直に守っているに過ぎない。
そこから外れた事態が起これば、どうすればいいのか分からずに途方にくれてしまうだけだ。
だからヘラはゼウスと二人になるとどうしていいのか分からなくなってしまう。
ゼウスはどうすればいいのか教えなかった。
二人になるとどこか胸が苦しい。
それなのにヘラにはそれを言葉にする術がない。
他の兄弟たちはとっくに個性を手にしているというのに、ヘラはまだ父の中にいたときと何も変わっていないのだ。
それでも気が付いてしまったことがある。
どこか自分と似ていると思っていたコレー。
笑うことしか知らなかったはずの娘が、いつの間にか少女から女になった。
自分の頭で考え、心に訊ねることができるようなっていた。
それはおそらく、ハデスに会ったからなのだろう。
それだけの思いが、二人の間にはあるのだろう。
自嘲するしかない。
自分にはそんな変化は絶対に訪れることはない。
泣くことさえ出来なくて、ヘラはまた仮面を被って役者に戻った。
宴のない静かな夜が好きだ。
星もなく、月も雲に隠れてしまうような陰気な夜が好きだ。
そんな夜の次の朝は、ヘラは仮面を被って演技をする必要がない。夜毎ゼウスが他の女の下へ駆けて行くのが見えないから、嫉妬に狂う演技をする必要がないのは楽だった。
よく分からないことではあるが、その演技をしている間ヘラは常に演じている自分に羨望を感じている。内心は怒り狂う気力などどこにもなく、ただ奇妙にぽっかりと胸に空いた穴の存在を感じているのだ。
感情を表に出してそれを相手にぶつけるなど、どれほど気力と体力がいることだろう。
石造りの宮殿はヘラが裸足で歩く音を吸収し、いない者として扱ってくれる。
侍女を従えることもなく、ただ気の向くままに歩くのはいつ以来だろう。一番夜風が気持ち居場所を探してヘラは夜の散歩を楽しむ。
纏わりつくようなぬるい風に誘われ、たどり着いたのは宮殿の西端に位置するバルコニーだ。
こんな夜にここに来る酔狂はいないだろうと思っていたのに、そこには先客がいた。
「……ヘラか」
低い声はいつもより穏やかだ。
呼びかけられてしまっては辞することも出来ず、ヘラは恐る恐るゼウスに近づいた。
座っていた長椅子の片側に寄った、ということはここに座れという意思表示だろうか。
迷いつつも意識して距離をとって腰かけると、その距離にゼウスが苦笑する。
「変わらないな、お前は」
「変わる術を、存じません」
「そうだろうな。しかしお前以外はどんどん変わっていく。
ガイアも私に二度も刃を向けた。あれほど親身になって私にこの地位を授けたというのにな」
ガイアの怒りはヘラも覚えている。
あの事件に関してはガイアとゼウスどちらが悪いとは言えない。ただガイアが思い描いていた未来図とゼウスの選択が一致しなかっただけだ。
しかし二度目にはゼウスも相当に危機的な状況に立たされた。ヘルメスがいなければオリンポスはどうなっていたのか分からない。
「お前、あのときどうする心算だった?」
「と、おっしゃいますと?」
「私があのまま腱を盗まれ、動けず、テュポンがこの天界に君臨することになったら。だ」
もし、の話をするなんてらしくない。
そう思いつつもヘラは言葉を捜す。思い出したくもないあのときの絶望を、必死に手繰り寄せる。
「もし、そうであったなら」
あの時、ゼウスから離れて不安に揺れる神々をまとめていたのは大神の妻としてだ。
もしゼウスが大神という地位を追われれば、ヘラもその地位を失うだろう。
「あなたのお側にいたでしょう」
「何のために」
「お側にあるために」
腱を失い動くこともできない哀れな男の側に、何も持たない女が侍ることくらいテュポンも許すのではないだろうか。
滑稽でも哀れな姿でもいい。そのときは既に大神の妻ではないのだから。
二人の間に夜風が走る。
ヘラの結い上げていない髪を乱して、衣の裾を遊んでいく風は決して暴力的ではない。
舞い上がった髪で一瞬視界を閉ざされたヘラが次に見たのは、これまでに見たこともないようなゼウスの顔だった。
「……何かおかしなことを言いましたか?」
「いや…否、そうだな。妙だ」
少なからずヘラは不快感を覚えた。
聞かれたから答えただけだ。それなのに妙と言われる筋合いはない。
そんなヘラの僅かな表情の変化を読み取ったのか、ゼウスは自嘲するように言う。
「考えてもみろ。お前の行動はまるで男を慕う女のそれだ。まぁ私が弱っていく姿を哂うためというなら納得するが」
「……そうでしょうか…そうなのかしら?」
そんなことは全く意識していなかった。
ただ、そう行動するのだろうなと思っただけだ。
慕う?
私が?
ゼウスを?
「私は、あなたの事が好きなのでしょうか?」
「……知るか!」
単刀直入な疑問をゼウスはばっさりと切って捨てた。
思い切り逸らされた顔に傷つかないわけではない。
それでも浮かんだ疑問を解決することのほうが重要に思えた。
「あなたに分からないものは私にも分かりません。だって私のすべてはあなたがそう創ったのですから」
ヘラにしてみれば当然の言い分だ。
しかし向き直ったゼウスは予想外のことを口にした。
「ならば」
その表情は月が厚い雲に隠れてしまったせいで窺うことは出来ない。存在自体が影のようだ。
「ならばお前は、私がそうだと言えば私を愛するのか」
言葉を失ったヘラの頬にゼウスの手が添えられる。
開けていたはずの距離がいつの間にか詰められていたことに戸惑う。
しかし触れ合っているのは手だけだというのに、動くことを許さない強さがあった。
「答えろ。お前の心は、そんなもので手に入るのか」
「…どうして」
そんな声を出さないで欲しい。
そんなことを言わないで欲しい。
「やめてください。勘違いしてしまいそうになる」
「何を、だ」
「…っ!何を!私に何を言わせれば気が済むのですか」
すべてを言わせないと気がすまないのだろうか。
そんな傲慢に大神の妻は答えるべきなのだろうか。
ヘラは自分が混乱していることには気が付いていた。
だが頬に添えられた手が動くまで、泣いていることには気が付かなかった。
「いつ以来だ。お前が泣くのは」
ゼウスは悪くないと言った。
それがどういう意味なのか考える前に感じた吐息に、ヘラは反射的に腕を突っ張ってゼウスの胸を押し返した。
一瞬の居心地の悪い沈黙の隙に、ヘラは立ち上がるとその場を後にした。
決して走らないように、焦っていることが知れないように。
そんなことを意識している時点で、ヘラはゼウスに負けているのかもしれない。
自室に戻って扉を閉めるなり、ヘラはずるずると扉に背中を預けて座り込んだ。
顔が熱い。
鏡を見ればみっともないほど紅潮しているのだろう。
「……っぅ!」
長々と話し過ぎたから。
だからあんな話をしてしまったのだろう。暇つぶしにからかわれただけ。
そう思うのに、頬の熱さは引かない。
どうしたって考えてしまう。
私はゼウスの事を慕っているのか。
これほど長い間夫婦でいたのに、今更それを考えるのは滑稽だ。
傲慢。不遜。身勝手。浮気者。
考えてみればそんな最低の男なのに、長い間一緒にいたのは何故?
「…~~~っ!!!」
ヘラが頭を抱えた頃、ゼウスは満足げに笑う。
いつまでも少女のような妻。
それを知っているのは自分だけで、それはそれで良かった。
大神の妻として求めたように振舞ういじらしさも、悪くなかった。
「…だが、な」
そろそろこの腕に堕ちてきてもいいだろう。
初めて目にした瞬間に心奪われた唯一の女。
他の女は強引に奪う。ただそれだけで、奪われてやるつもりは全く無い。
ただヘラだけは、互いに奪い合う関係になってもいいと思った。
ヘラだけは、自分との関係が終わった後に他の男のものになるなど考えられなかった。
他のすべてを教えたように、自分を愛せよというのは簡単だ。
きっと何の疑いも無く、ヘラはそう振舞うのだろう。
しかしそれでは何の意味も無い。
他の選択肢はすべて奪った。
最後の選択肢は一つしか用意していない。
しかしそれを手に取るのはヘラの意思だ。
今頃頭を抱えているのだろうか。簡単に思考が分かるだけに、いじらしい。
さぁ、堕ちて来い。
私が奪いに行く前に、自分の意思で。
ヘラって彼女自身のエピソードが凄く少ないんですよね。
ゼウスの浮気に怒っているのはたくさんあるのに…これは何かあるか?という妄想から生まれた「大神の恋人」です。
次がいつになるのかは分かりませんが、次話はゼウスサイドのお話をアップしたいなと思っています。