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第86話 信じていた世界の脆さ

 サリィの声には、何の揺らぎもなかった。

 冗談を言っている口ぶりでもないし、私を煽っているという感じでもない。ただ、終わったことを終わったこととして、淡々と告げているような……そんな声だった。


 ――……ううん、嘘よ。

 嘘に決まっている。

 でも……サリィは……私が知っているサリィは、こういう嘘を吐くような人だとは……思えない。

 

「……何で、よ」

 

 喉の奥が詰まる。絞り出した声は、自分のものに聞こえなかった。

 

「何で――……殺してしまったのよ……!?」


 信じたくないことを振り払うように、声を荒げた。


「あんたとライトなら……まだ……――まだ……!」


 ――まだ、救いようがあったはずなのに。

 そう言おうとしたけれど、声が掠れて出てこなかった。

 

 サリィは一瞬だけ目を伏せた。そして、()めつけるように私を一瞥して淡々と続ける。


「奴は、私が殺すまでもなく死にかけていた。……それを、私の手で終わらせてやったまでのことだ」

 

 ……死にかけていた? 

 ……ミラクがライトを殺しそこねたって話は正しかったってこと……?

 ライトが傷ついているのは、血に濡れていたライトの槍からも、確かだった。

 ミラクにライトの死を告げられて、私は一度、絶望に染まってしまった。……でも、立ち直ることができた。

 みんなに助けられて、立ち上がることができた。


 ……でもそれは本当は、認めたくなくて、ずっと先延ばしにしていただけなのかもしれない。

 

 ――だって、もし本当に、傷ついたライトとサリィが出会って、そして戦ってしまったのだとしたら……。

 

 サリィは、まるで終わりゆく世界を見つめているように、光のない目をしていた。


「……そんな目で……そんなことを言われたら……」


 ……私は、覚悟を決めていなければならなかったのかもしれない。

 目を逸らさないと決めたのなら、私がすべきだったのは……仮初の希望に縋ることではなくて……絶望を、受け入れる覚悟……だったのかもしれない。


 ……悔いている暇なんて、ない。……だから、頭の中で、思い描いてみる。サリィと、ライトとの間で、起こったかもしれないことを。

 

 ――もし。……もし、ライトが本当に心臓を突かれて、弱っていたとして。……そんな状態で、サリィと戦ったのなら――ライトの死は……起こり得て……――!

 

「……っ、嘘よ、全部……!」


 思い浮かびかけた光景を打ち消すように、私は叫んだ。


 ――やっぱり……やっぱり、受け入れられないよ……!

 

 構えていた槍の穂先が、わずかに震える。

 ……落ち着かないといけない。

 片腕を失っているとはいえ、今、サリィと戦っている暇なんてない。私はラキとラナと約束した。朝までには、無事に戻ると。

 

 ――情報を、引き出さないと。

 ――ライトのことを、もっと――。

 

 ……でも。


 でも、目の前にいるのが本当に、ライトを殺した相手だっていうのなら、私は……!


 地の底から這い上がってくるような破壊衝動に、眩暈がする。

 

 サリィは私を黙って見ていた。攻撃を仕掛けてくる気配はない。ただ、こちらの揺らぎを確かめているような、底冷えする目をしていた。

 

「私としても、貴様がここにいるということで、事態がかなり読めてきたぞ」

 

 サリィは私の混乱なんてよそに、静かに言った。残った左腕の剣の切先は、やはり土に触れたまま動かない。

 

「――近くに、ミラクがいるな」


「……ッ」


「やはりか」


 サリィの目の奥がわずかに翳った。

 

「私はもはや、貴様のことなぞはどうでもいい」


 サリィは、左手で剣の柄を握り直す。失った右腕の重さを差し引くように、剣の重心が、わずかに揺れた。

 

「ただ――ミラクだけは、私の手で殺す。……あれを世に放ったのは私だからな」

 

「そんなことはさせない」


 唐突に告げられた宣言に、気づけば、そう言っていた。

 

 ミラクに死んでほしくない――それはもう、誤魔化しようがない私の気持ちだ。


「私はまだ、あいつとの問題に片がついていないのよ」


「貴様の事情など知ったことか」


 私がそう言っても、サリィはただ吐き捨てるように言った。


「私は、私の始末をつけたいだけだ。ミラクを殺せば……その後は、好きに生きるつもりなのでな」

 

 サリィの唇の端が、わずかに歪んだ気がした。笑ったのかどうか、私には分からない。疲れた人が、息を吐くついでに口元を緩めただけのような、そんな表情だった。

 

「……は? あんた、帝国の将軍なんでしょ? 戦の真っ最中に何言ってんのよ?」


 頭の中はぐちゃぐちゃで、何を言うべきなのかも分からないまま、口が勝手に動いていた。


 サリィは私を不快そうに一瞥する。

 

「戦は間もなく終わる。……帝国は、滅ぶだろう」


 そして、まるで幼子の無知に苛立ったかのように、威圧的な口調で言った。

 森の木立が、朝霧の中で揺れた。

 

「まだ出回っていない情報だが――ユリアナが、皇帝を殺したのだ」


 付け加えられた情報には、すでに起こってしまった出来事への諦めのようなものが滲んでいた。


「……待って。今、なんて言ったの? ……皇帝が、殺された……?」


 頭の中で言葉が空回りする。

 ユリアナ。皇帝。帝国の崩壊。……城にはソニアもいたはずだ。……それなのに、ユリアナが皇帝を殺すようなことが……?

 

 耳に入ってくるのは重要な情報ばかりのはずなのに、どれも頭の奥まで届いてこない。……耳の奥で、鼓動が騒いでいるのを感じる。

 ……なぜだろう。さっきから、やけに胸が苦しい。

 まるで……何かが、頭の奥を掻き乱しているような――。

 

「そうだ、皇帝は死んだ。ライトと皇帝……二つの死を境に、帝国は崩壊する」


 思わず息を呑んだ。


 ――城で、何が起きたのよ。

 ソニアは、どうなったの? 帝国は、一体、どこに向かおうとしているの? ……帝国が崩れたなら、そこにいた民はどうなるの……?

 知らなければいけないことが、いくつもある。

 ……でも、今は、頭が追いつかない。

 

 サリィは自身の失われた右腕を一瞥した。袖が、空を切って風に揺れている。


「帝国が滅びようと、私の知ったことではないがな」


「……」

 

 ……サリィは、もう、戻らないつもりなんだ。

 帝国軍に。将軍という立場に。

 あらゆる場所に。

 

 ……ううん。違う。

 帝国そのものが、なくなるんだ。

 

 頭が追いつかない。けれど、追いつかないながらも、私が今、この場で確かめなければいけないことが、たった一つだけあった。

 

「……サリィ」

 

 声が震えた。それでも、抑えた。

 

「ライトは……ライトは、本当に……」

 

 サリィは私の言葉を最後まで聞かなかった。私が言い淀んでいるのを見て、サリィはまた言葉を紡ぐ。

 

「貴様には皇帝の死の重大さなど分からんか。……いや、今の貴様には、それどころではないのかもしれんな」


 サリィの視線が、森の奥へ向く。


「……そっちに、何かあるっていうの?」

 

 問いかけた声は、自分でも分かるほど揺れていた。サリィは小さく首を傾けて、私へと視線を向ける。


「……気づいていないのか」


 サリィは問い詰めるように鋭く目を細めた。


「……貴様の鼻なら、とっくに拾っているはずだ。あの男の血の匂いを」

 

「……ッ!?」

 

 呼吸が、止まる。

 

 言われるまで、気づかなかった。……否、気づきたくなかったのかもしれない。

 朝霧の中、サリィの全身に染みついた濃い血の匂いに気を取られていた。けれど、それとは別の方向から、確かに――もう一つ、血の匂いが流れている。

 風に乗って、こちらへ。

 濃くて、重たい、鉄の匂いに混じって――潮風と、海辺の匂いが。

 

 奥歯が、軋むように鳴る。

 吸血鬼族の血を流す私の身体は、それを敏感に拾ってしまう。

 ……気がつかないふりなんて、できないくらいに。

 

 ――ライト……。

 

 いつのまにか、槍を握る手に力が込もる。指が痺れるくらいに、強く。

 

「……サリィ、あんたの腕、ライトとの戦いで失ったのよね……?」

 

 声が、自分のものではないみたいに掠れる。


「何度も言わせるな。……私は片腕を失い、ライトは命を失ったのだ」


 その言葉に、私は思わずサリィに向かって踏み込みそうになる。だけれど、必死に押し止まって、何とか口を開く。

 

「……もしッ、それが本当だったとしてッ……ライトは……あんたは、それですべてが終わってしまっても、良かったっていうの……!?」


 訊くべきではないと、頭のどこかが警告していた。けれど、口は止まらなかった。

 

 サリィは少し、間を置いた。私を見たというより、私の向こうにある何かを見ているような目をして。

 

「……語る義理はない」

 

 淡々と、サリィは言う。

 

「ただ、最期まであの男は、不器用で頑固な男だった」

 

 言葉を切って、サリィは少しだけ視線を下げる。


「……私の手で殺したことに、後悔はない」

 

 その言葉は、空虚に響いた。


「……」

 

 ……後悔がないなら、なぜ、その目はそんなに虚ろなのよ。

 槍を握る手に力が込もって、カタカタ震える。

 だけれど、力を込めなければ、立っていられそうになかった。


「ライトの元へ行くといい。野晒しのままなのでな。鬼族の血の匂いが薄れ、獣どもが肉を喰らいに来るのも時間の問題だろう」


 サリィの声は、突き放しているようでも、急かしているようでもなかった。

 ただ、事実を、事実として並べているだけだった。


 ……サリィは、ミラクを殺すと言った。基地は、近い。

 サリィを放っておいていいのか。何より、私は早く帰らないといけない。

 

 でも――。


「……癪だけれど、そうするわ。ライトったら、油断でもしたのか、出血がひどいみたいだから……っ……!」


 気づけば、口からそう溢れていた。だけれど、強がりの言葉は途切れた。

 私はサリィに背を向けて――森の奥からする血の匂いの方へと、駆け出していた。



 

「……貴様を追えば、最終的にはミラクの居所まで辿り着けるのかもしれん。だが……」


 背後で、そんな声が聞こえた気がした。

 一瞬だけ、私は振り向いてサリィを見る。

 サリィの視線は、私の背中ではなく、その向こうの森の奥へと向いている気がした。

 

 ……でも……多分それは、気のせいだ。

 

 **

 

 走っていた。

 どの道をどう走ってきたのか、自分でもよく分からなかった。

 朝霧の中、木々を縫って走る。

 短くなった髪が、風に煽られて頬を打つ。

 肩に担いだライトの槍が、走るたびに重く揺れる。


 ――『もし会えたら、返したいから』

 

 肩の重みに、ふと、昨日の自分の声が蘇った。

 

 ラキにそう言ったのは、ほんの昨日のことだった。

 もし、ライトに会えたら、と。

 ……もし、なんて。無邪気に言っていた昨日の私は……!


 森を駆け抜け、風を全身で感じながら、私は歯を強く噛み締めていた。

 

 血の匂いが、風に乗って濃くなる。

 吸血鬼族の血が、それを拾ってしまう。拾いたくないのに、足が引き寄せられるように動く。


「……嘘っ……嘘、よ……!」


 声にならない呟きが、息と一緒に喉から漏れる。

 

 ――ライトが、死ぬわけがない。サリィの嘘に決まっている。

 ミラクと裏で繋がっていて、みんなで嘘をついて、私を嵌めてるだけ。だって、そうじゃないと……――。

 ライトはきっと、どこかで――。

 ――でも、サリィの腕は失われていて。

 ――でも、ライトの槍は血塗れで。

 

 考えるたびに、否定の言葉が、自分の中で勝手に崩れていく。

 悍ましいほどの血の匂いが、私の思考を掻き乱して、まともに考えることができない。

 

 ……進む先にはきっと、目を背けたくなる現実が待っている。

 ――それなのに足は、止まらない。

 

 止めたら、確かめなくて済んでしまうから。

 ……目を、逸らさないと、決めてしまったから。

 

 

 走る私の視界の端に、何かが地面に転がっているのが見えた。

 

 その瞬間、鼓動が跳ねて、私は足を止めようとした。でも上手く止まれなくて、足がもつれる。

 転びそうになりながら、私はおぼつかない足取りでなんとか踏みとどまる。

 ……そして、地面に転がっているものに、恐る恐る視線を向ける。

 目に入ったのは、帝国兵の鎧でも軍服でもない。粗末な革の防具を身につけた、兵士だった。胸を貫かれて、地面に伏したまま、動かない。

 ……反乱軍、かしら。

  

 一拍遅れて、心臓が動き出すのを感じた。

 

 ……ライトでは、なかった。

 

 息を吐く。

 きっとこの人は、戦場から逃げてきて、残党狩りに追いつかれて――……。

 

 ……。

 

 ……今は、行かないと。

 息を呑んで、また走り出した。


 血の匂いが、ますます濃くなる。

 

 木立を抜けた、その先の――視界の奥に、白いものが見えた。

 

 ――白髪。

 

 息が、止まる。

 ライト――。

 

 駆け寄りかけて、足が止まった。

 

 ……花だ。白い、花。

 

 倒木に絡みついて、大きく花開いて咲いている、白い花。その花は、朝霧の中で白髪のように揺れていた。

 

 ……。

 

 ばかみたい。あんなのが、ライトに見えるなんて。

 ……でも、見えてしまった。確かに、白髪の束が風に揺れている、と思ってしまった。

 

 子供じみた希望を抱いて、それがすぐに違うと分かった。その落差に、足が重くなる。

 

 ……動かないと。

 動かないと、確かめられない。確かめないと、終われない。


 私はまた、駆け出した。

 


 その場所に、近づくほど。

 

 血の匂いは、濃く、重く、空気の中に満ちていった。

 

 

 木々が途切れた、その先の小さな空き地。

 

 ……。

 

 足が、止まる。

 地面に、何かが横たわっていた。

 白髪が、湿った土の上に広がっている。

 長身の、大きな身体。血と泥に塗れた、見慣れた服。

 ……いつも、見ていた。……ライトがいつも着ていた、戦士用の服。


「……!」

 

 ……ライト。

 

 私の口は、その名を呼ぼうとして、声にならなかった。

 

 一歩、近づく。

 もう一歩、近づく。

 近づいて、その顔が見えた瞬間、膝が、勝手に地面に落ちた。


「……あ……あああぁ……」

 

 目の前に、ライトがいる。

 胸の真ん中には、深く穿たれた傷口。乾きかけた血が、衣服を黒く染めている。

 

 ……でも、それだけではなかった。

 

 頭が、――。


「……」

 

 思わず、目を逸らしてしまった。……見ては、いけない気がした。

 

 けれど……視界の端で捉えた一瞬だけで、()()()()()()()()


 身体が勝手に震えるのを感じながらも、ライトに視線を戻した。


「……ッ」


 目を戻した先には、変わらない現実がある。私はまた、思わず目を背けた。


 ――もう嫌だ……こんなの、こんなの、嫌でも分かってしまう……!


 だけれど、目を背けたところで、血と泥に混じった肉の臭いが、喉と鼻の奥に入り込んでくる。

 ……目の前にあるのは、疑いようのない現実だと思い知らされる。

 

 ――もう、ライトは、こちらを見てはくれない。

 私の名前を呼んでくれることも、ない。


 当たり前だったものが、二度と戻らないのだと、嫌でも分かってしまった。

 

 息ができなくなって、地面に手をついた。湿った土が指の間に潜り込む。冷たい。

 目の前が、霞んでいく。

 

「……ライト」

 

 やっと、声になった。

 

「ライト……」


 応えはない。応えるはずがない。

 ……分かってる。あの損傷で、生きているはずなんて、ないってことくらい……!

 ……分かってる。

 分かっているのに、何度でも呼んでしまう。

 

「……起きて」


 まだ……私、まだライトに何も返せてないのに……。まだ、ライトより強くなれていないのに。

 

「私が今、何をしてるか……ちゃんと見て……ライト……」


 応えは、ない。

 

 手を、伸ばした。

 ライトの手に、触れる。

 冷たい。骨ばった、節くれだった、いつもの手。

 

 ……この手で、頭を撫でてもらった。

 ……この手で、外套を整えてもらった。

 槍の握り方を、教わった。

 旅立ちの朝に、強く背中を押してくれた、あの手。

 赤子の頃から、ずっとそばにあった手。

 私を、生かしてくれた手。

 

 でも今、その手は、もう動かない。


 ――私がライトを都に呼ばなければ……こんなことにはならなかったのかな……。

 

 ぼたり、と、涙がライトの手に落ちた。

 いつから流れていたのか、分からなかった。

 

「……っ」

 

 胸の奥で、何かが、崩れていく音がした。

 

 ……世界が、変わり果てていく。

 

 暗いところに、引きずり込まれそうになる。


 信じていたものは、こんなにも脆く、簡単に、崩れ去ってしまう。……それくらい、分かっているつもりだった。……でも、分かっていなかった。

 ライトが、私にとってどれだけ絶対で、どれだけ……大切だったのか。

 

 ――ここでこのまま、何もかもを諦めてしまえたら。

 ……もういっそ、何もかもから目を背けて、塞ぎ込んでしまったら。

 

 ……今、ライトの死を目にしてさえも湧き起こる吸血衝動に、身を委ねてしまえば……楽になるのかもしれない。

 ミラクの手をとって、暗い闇の中で互いを求め合う日々へと堕落してしまえば、楽になるのかもしれない。

 どれだけの犠牲を払うことになろうとも、私自身の手で帝国を滅ぼしてしまうことさえ、救済になると言われたならば、私は……。

 

 ――……でも。

 

 短くなった髪が、風に揺れた。

 首筋を、軽く撫でていく。

 

 ……髪を切ったのは、昨日のことだ。

 ラキとラナの前で、けじめだ、なんて言って。

 目を逸らさないと、決めて。

 

 その決意を、まだ一日も保てていない。

 ……ライト。

 ……目を逸らさないって、約束したばかりなんだよ。

 

 涙はぼろぼろと頬を伝う。それを、拭わなかった。拭ったところで、止まらないと分かっていた。

 

 目を逸らしたら、ライトに会わせる顔がない。

 ……ううん。

 もう、ライトには、会えない。

 でも、それでも。

 目を逸らさないと、決めたから。

 

 **

 

 どれくらいの間、そうして泣いていたのか分からない。


 ふと、ライトの白髪に、土埃と一緒に小さな落ち葉が乗っているのに気づく。

 手を伸ばして、それを払う。

 

 ……。

 

 ここに、ライトを置いて、私は基地に帰るんだろうか。

 帰って、ラキとラナに何と言うんだろう。

 

 ラキとラナのところに、すぐに戻らないといけない。

 朝までに、と約束したのに、もう日は高い。心配しているはずだ。


 それに、サリィは、ミラクを殺すと言った。ミラクは今、私たちの基地にいる。もし基地が見つかれば、ただでは済まない。早く帰って、ラキ達に伝えないといけない。

 

 ……分かっている。分かっているけれど。

 

「ライト」

 

 名を呼ぶ。

 

 ここに、ライトをこのままには、できない。

 ……森の殲獣。雨。これ以上の腐敗。

 頭の中で言い訳を並べているのが、自分でも分かる。

 でも、本当の理由は、それではない。

 

 ただ私が、この姿のままのライトを置いて立ち去るのが、嫌なんだ。

 

 涙を、手の甲で拭った。だけれどすぐにまた、雫が頬を伝う。

 でも……それでも、立ち上がった。

 

 空中に、手をかざす。血を、刃に変える。

 今まで、戦いのために生み出してきたそれを。

 

 地面に、刃を突き立てた。

 血の刃が、湿った土を裂く。


 サリィは、ミラクを探している。

 ……でも、基地の場所までは知らない。あの基地は、大陸戦争の時代に使われていた古い砦だ。目立つ場所にはないから、すぐには辿り着けない……はず。

 ラキとラナも、一応は敵襲を警戒しているはずだ。


 それでも、早く戻らないといけない。

 分かっている。

 分かっているけれど――このままライトを置いてはいけない。……時間はないから、ちゃんとしたお墓は作れないけれど。

 

 もう一度、刃を生成する。

 何本も、何本も。

 湿った土を裂いて、抉って、退かせていく。


 ふと、遠くで木々が騒ぐ音がした。

 一瞬、息を止めて、耳を澄ます。

 ――今この瞬間も、サリィは、ミラクを探している。基地で、ミラクが大人しくしているとも限らない。

 今……私に立ち止まっている暇なんてない。


 ……分かってる。

 

 ……それでも、血を操作する手は止まらない。


 土を掘ってできた穴は、かなり大きくなった。

 ライトの身体が入るくらいに……大きく。

 

「……ライト」

 

 名を呼ぶたびに、声が掠れた。

 

「少し、動かすわよ」

 

 応えはない。

 でも、ライトはいつだって、私のすることに口うるさかった。

 今もきっと、何か言いたいに決まっている。

 ……ライトが何も言わないのが、こんなにも、寂しい。

 

 ライトの身体は、思っていたよりずっと重かった。普段は、こんなに重い身体を、軽々と動かしていたのか、なんて考えてしまう。

 

 血の力を使って、できる限り丁寧に、掘った穴の中へと運ぶ。

 ……土が、ライトの服に、髪に、ついてしまう。

 ……ごめんなさい、ライト。

 

 穴の底に横たわったライトを、私はしばらく見ていた。

 

「……ライト」

 

 もう一度、呼んだ。

 

「ありがとう」

 

 言葉が、震える。


「私を、娘にしてくれて、ありがとう」

 

 涙が、ぽたぽたと、ライトの肩に落ちる。

 

「槍を、教えてくれて、ありがとう」


 岩場で何度も突きを練習した日のこと。初めて手合わせしてくれた日のこと。

 ……それから、殲獣の群れと戦ってぼろぼろになった夜。ライトは何も言わず、私に包帯を巻いてくれた。

 あの節くれだった指先の感触が、今になって蘇ってくる。

 

「……いってきます、って言ったとき、私……ちゃんと、ただいまって言いたかった」

 

 ライトの白い髪に、また、土が落ちている。手を伸ばして、払った。

 

「……約束、果たせなくて、ごめんなさい」

 

 血の刃で、退けた土を、ゆっくりと戻していく。

 ライトの足元から、少しずつ。

 胸まで土が覆ったとき、私は一度、手を止めた。

 顔を……頭のあった場所を土で覆ってしまうことに、躊躇いがあった。

 

「……ライト」

 

 でも……私は、ライトの死を受け止めて、ちゃんとお別れしないといけないから。

 

「……またね」

 

 最後に、土を被せた。

 

「……」


 私は、手に持っていたライトの槍を握りしめる。

 血で汚れた、ずっしりと重い、私の身体には少し大きすぎる槍。

 ラキが、ミラクから取り返してくれた槍。

 私は槍を、土の盛り上がりの真ん中に、まっすぐに突き立てた。

 穂先を上に。柄を地面に。

 ライトが、いつもそうしていたように。

 朝霧の中で、槍は静かに立っていた。

 

「……ここに、いてね」

 

 返事はなかった。

 

 でも、もう私は、返事を期待しなかった。

 

 **


 ……立ち、上がらないと。

 

 槍を立てた地面の前で、私はしばらく動くことができなかった。

 ラキたちのところに戻らないと、と頭の隅で繰り返す。……サリィがミラクを探している。ミラクは私たちの基地にいる。


 考えるべきことが、いくつも頭の中で並んでいるはずなのに、ひとつとして形を作らない。

 ただ、立ち上がる、ということが難しくて、今までどうやって立ち上がっていたっけ、なんてぼんやりと考えていた。


 膝に手をついて、なんとか立つ。

 立つと、土の盛り上がりの真ん中に、ライトの槍がぽつんと刺さっているのが見える。

 ……変な、感じだ。


 ライトに背を向けて、歩き出す。

 歩き出すまでに、たぶん、随分と時間がかかった。

 

 

 基地までの道のりを、どうやって歩いたのか、よく覚えていない。

 朝霧はとっくに晴れていた。

 太陽が高い。

 肩が、軽い。

 ……肩が軽いのは、ライトの槍がないから。

 あれは、ライトのところに、置いてきたから。

 

 ……足が、勝手に動いている。

 動いている、と思った瞬間に、また、自分が歩いていることが分からなくなる。

 

 葉擦れの音。

 遠くで、鳥が鳴いた。

 いつも気にも止めない音が、やけにはっきりと聞こえる気がする。

 

 いつのまにか、木々の向こうに、見慣れた基地の輪郭があった。

 

 ……着いた。

 着いた、のに、扉に近づくのが、なぜかとても遠いように感じられた。

 

 扉に、手を伸ばす――だけれど、私が手を掛ける前に、扉は、向こうから開いた。

 

「……サキ!」

 

 ラキの声がした。

 駆け寄ってくる足音。

 

「遅かったから心配して――……」

 

 ラキの声が、途中で止まった。

 目の前に、ラキの顔がある。

 

 ラキの目が、ゆっくりと見開かれていく。


「何があったんだ!? その血と土は――」


 ラキは私の肩を勢いよく掴んで、そのまま言葉を止めた。


 その視線が、私の肩へ落ちる。

 ……そこにあるはずのものを探すように。


「……槍は?」


 低く、抑え込むような声だった。


 その一言で、押し込めていた悲しみが、また溢れ出す。

 心の奥で、何かが崩れていく。


 たぶん、何かを答えなければいけなかった。

 

 ライトのことを。サリィのことを。帝国のことを。


 でも、何一つ、言葉にならなかった。


 ラキの手の力が強まっていくのを感じながら、私はただ、ラキを見ていた。

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