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第85話 決意と躊躇いの狭間

 ――だけれど。


 名残惜しさを覚えながらも、私はそっとラキの肩から腕を離した。

 一歩だけ、後ろへ下がる。


 まだ、話さなくてはいけないことがある。

 ここで言わなければ、また同じことを繰り返してしまう気がした。

 

「……ねえ、ラキ、ラナ」


 呼びかけた自分の声は、思ったよりも震えていた。

 息を小さく吸って、胸のざわめきを押さえ込む。


「これからの行動のことを……話し合いたいの」


 ラキの目が鋭く細まる。

 感情を露わにしているわけではないのに、その視線だけで和んでいた空気が少し張りつめた。


「……そうだな」


 低い声が返る。


「決めるべき行動も、集めるべき情報も、いくらでもある。……だが俺は正直、まだ戦闘や諜報に参加できる状態ではない」


「うん」


 ラキはそれ以上言わず、黙って私を見た。

 

 私は一つずつ、言葉を置くように続けた。


「ラキは消耗しすぎてる。ラナも、やっと意識が戻ったばかり」


 簡易ベッドに座っているラナへ、視線を移す。ラナは胸の前で両手を握っていて、呼吸が荒いのか少し肩が揺れていた。ラナは私たちに心配をかけないように気丈に振る舞ってくれているけれど、きっと、まだ混乱や疲労が強く残っている。


「それに、ミアとレーシュはミラクから目を離せない。……だから今動けるのは、私しかいないと思うの」


「……一人で抱え込むつもりか」


 言い終えたラキが、少しだけ息を詰めたのが分かった。

 短い一言だったけれど、その言葉は痛いほどまっすぐ胸に刺さる。


 この一言の重さを、私はさっき知ったばかりだ。

 ラキはずっと、一人で抱えていた。でもラキはついさっき、それを私に話してくれた。


 ――一人で抱え込む、か。そんなふうに、感じさせてしまうのね。

 私たちは、必要なことを話し合えていなかった。

 ……だから、今度こそ、ちゃんと伝えなくてはいけない。


「それは、違うわ」


 私は首を振る。


「ちゃんと二人に話して……必要だから行くの」


 ラキは黙ったまま、私を見る。

 けれど、さっきまでみたいに突き放すような冷たさではない。

 だから私は、その視線を受け止めたまま続けた。


「都の中が今どうなっているのか、知る必要があるわ。帝国軍がどう動いているのか。城がどうなっているのか。ソニアやユリアナがどうしているのか。……それに、ライトの手がかりがあるかもしれない」


「……だが、危険だ。俺が一緒に行ける状態になるまで待て」


「一人で行ける」


 ラキが私を心配してくれているのは分かるし、それは嬉しいけれど、危険だと言われると、つい性分でムキになって、できると主張してしまう。


 ラキは少しだけ目を伏せた。


「……一人で行ったら無茶するだろ」


 返ってきたその言葉に、私は言葉が詰まった。

 反射的に否定しようとして、でも、今までの自分を思い返してしまう。

 確かに、私は何度も、無茶をしてきた。


「……明朝までには戻るわ」


 それでも、私は言う。


「危険なことがあったら、深追いせずに帰るって、約束するから」


 そこで一度言葉を切って、少しだけ目を伏せた。


「……何より、私、もうラキとラナと、長い間離れていたくないし……」


 口にした瞬間、自分で自分の顔が熱くなるのが分かった。

 でも、言ったことを誤魔化そうとは思わない。だって、これは私の本心からの言葉だから。


「……え?」

 

 ラキはぽつりとそれだけ言うと、私を見たままなぜか固まってしまって、しばらく黙っていた。


「……」

 

「な、なんとか言ったらどうなのよ?」


「……そ、そうか」


 たまらなくなって私が返事を促すと、ラキは何回か大きく瞬いて、やっとそれだけ言う。


「……うん、そうよ」

 

 私は一度、息を吸った。

 胸の奥の震えを押さえ込みながら、今の自分が一番言うべきことを、真っ直ぐに口にする。


「私、もう負けないから。周りで起こることにも。過去にも。……自分の気持ちにも」


 いつのまにか握っていた拳の中では、爪が手のひらに食い込んでいる。


 ラキは視線を少し落とし、考えるように間を置いた。


「……分かった。俺は基地に残る。ラナのそばについて、ミアとレーシュも見張っておこう。……ミラクもな」


「……ありがとう」


 そう言うと、ラキの目は和らいだ気がした。

 泣いた後だからか、その目の周りはまだ少し赤かった。

 

 ラキは視線を窓の外に向け、短く息を吐く。


「……サキさ、ライトが心配だろ」


 ラキが問う。


 その問いに、私はすぐには答えられなかった。

 

 心配していないわけではない。

 でも、心配に呑まれて足を止めたら、たぶん私は何もできなくなる。


「……ライトはきっと、どこかで生きているはずよ」


 口にしてから、自分の言葉の半分は願いなのだと気づく。

 それでも、今はその願いを信じるしかない。


「……死ぬなんて、考えられないから」


 ライトの強さは、赤子の頃からずっと一緒にいた私が誰よりも知っている。


「ライトだって、戦場に来る以上、ある程度の負傷は覚悟してきたはずよ。私がいつまでも心配して探し回ったら……再会したとき、呆れられちゃうわ」


 少しだけ口元を緩めようとしたけれど、うまく笑えなかった。

 ラキはそれを見ていた。


「……分かった。……明朝までには、戻ること。無茶をしないこと。それが約束できるなら、行ってこい」


「うん、約束」


 私は頷く。ラキに託してもらえて、心が弾むのを感じた。


「……信じてくれてありがとう、ラキ」


 ぽつりとそう言うと、部屋の中が一瞬静かになる。

 その静けさの中で、ラナが小さく息をついた。


「……サキさん」


「なに?」


「戻って、くるんだよね」


 ラナの不安気な瞳に、私は迷わず頷く。


「必ず戻るわ」


 ラナは寝台の上で少しだけ身体を起こした。まだ顔色は万全とは言えない。けれど、その赤い目には光が宿り、しっかりと私を見ていた。


「……うん。サキさんが都に行ってる間、こっちはこっちでやることをやるよ」


 ラナの視線が、奥の部屋へ向く。

 ミラクのいる方だ。


「まだ本調子じゃないけど、何もしないで待ってるだけは嫌だから」


「……無理はするな」


 ラキがすぐに口を挟むと、ラナは少しだけ笑った。


「それ、ラキもだよ。……さっき、私もびっくりしたんだから」


「……わ、悪い」


 ラキの目は、ラナを止めたいのと、ラナの意志を尊重したいのとで揺れているように見えた。


 二人の微笑ましいやり取りを見て、私は少しだけ肩の力が抜けた。

 こんなふうに、二人が二人らしく言葉を交わしているだけで、胸の奥が少しあたたかくなる。


 でも、その直後だった。


 ――今の私のままで、都へ向かうの?


 ふいに、そんな思いが胸をよぎる。


 ここまで来る間にも、何度も決めたはずだった。

 見るべきものすべてから、目を逸らさないと。

 けれど、その決意を、ただ胸の中に掲げたままでは足りない気がした。


 私は空中に手をかざし、血の短刀を作り出して、手に握る。


「……サキ?」


 その行動を見て、ラキが怪訝そうに眉をひそめた。


 私は答えず、少し微笑み、黒髪をひと房、手の中に集める。

 長く伸びた髪は、指に絡みつくようだった。

 

 ずっと、当たり前みたいにそこにあったもの。

 

 ライトは、髪なんて滅多に切ってくれなかったから。

 村のみんなも、ライトに育てられているんだから髪くらいは伸ばして、女の子らしくしたほうがいい――なんて言っていたっけ。

 

 ……それに、髪が長いほうが翼を隠せるから、とも。


 短刀の刃が、髪に触れる。

 一瞬だけ躊躇いが過る。

 

 ――いつかまた、ライトに切ってもらってもいいな。

 

 ……でも。

 それでも、その迷いごと断ち切るように、私は刃を引いた。


 ざくり。

 長く伸びていた黒髪が、広がるように床に落ちる。


「っ、おい……!」


 ラキが声を上げた。

 ラナも息を呑んだのが分かった。


 私はもう一度、髪に刃を入れる。


「おい、待て、何して――!」


 ラキは私に手を伸ばしたけれど、刃が髪に入るのを見て、足を止めた。

 

 長くて重かったものが、次々と肩から落ちていく。

 足元に散らばる黒髪は、まるで私の影みたいだった。


 短くなった髪が、首筋に触れる。


「……変な感じ」


 私は自分の髪に触れながら、小さく笑った。


「ずっと長かったから、慣れないわね」


 手を動かしてみると、いつもの位置に髪がない。

 ……本当に、なんだか変な感じがする。


 私はラキとラナを見た。

 

 部屋の中は静まり返っている。


 ラキはただ、私を見ていた。

 その目には、驚きと、呆れと、少しだけ別の何かが混じっているように見えた。


「……急に、何してるんだよ」


 低く揺れる声で、ラキが言う。


「けじめ、ってやつかしら」


 私は答える。


「短くなった髪を感じるたびに、決意をもっと強くできる気がしたから」


「……」


 ラキはしばらく黙っていた。


「……あーあ」

 

 やがて、長く息を吐く。


「……まったく……」


 ラキは私のほうへ歩いてくる。怖い顔をして詰め寄ってくるものだから、私は思わず後ずさりそうになる。

 

 けれど、ラキは私の目の前で立ち止まると、小さくため息をついた。

 そして足元にしゃがみ込み、床に散った黒髪に静かに手を伸ばす。


「これ、一体誰が掃除すると思ってるんだよ」


 ラキは床に落ちた私の髪を掴み、手に握りしめて、下を向いたまま言った。


「……え? ……あ」


 ラキの言葉の意味が、遅れて頭に届く。

 

 ――……掃除。


「ご、ごめん、ラキ」

 

 ……確かに。何やってるの私。……ラキやラナのこと全然考えられていないじゃない……!

 

 はっとラナの方を向くと、ラナは静かに微笑んでいた。


「ラナも、ごめ――」


「サキさん」


 何か言い訳しようとした私の声を遮って、ラナは私の名前を呼ぶ。


「帰ってきたら……今度は、ちゃんと、みんなで掃除しようね」


「……うん」

 

 ……ラナの言葉って、どうしてこんなに胸が詰まるんだろう。

 私は泣きそうになるのを何とか堪えて、頷いた。


 短くなった髪が頬に触れる。

 まだ慣れない感触が、そのたびに胸の奥の決意を撫でた。


 ――もう、目は逸らさない。


 **

 

 夕刻、日が沈む頃。

 私は都へ向かうための支度を済ませ、基地の外に立っていた。


 森を抜ける風が、短くなった髪を首筋で揺らす。

 落ち着かない。頭が軽くて、変な感じ。

 でも、その違和感が、逆に私を支えてくれる。


 振り返れば、木々の向こうに基地がある。

 ラキやラナが、待っていてくれる。道を共にしてくれると言ってくれた民たちがいる。


 それだけで、前に進める気がした。


 私は都の方角を見つめる。

 遠く、夕焼けに染まる森の向こうにある都シュタットは、まだ何も語らない。

 

 今、戦況はどうなっているのか。何が残っているのか。帝国軍はどう動いているのか。

 そして、ソニアや――ライトの行方。

 私から都へとまた足を踏み入れれば、何か分かるかもしれなかった。

 

「もう行くのか」

 

 背後で、不意にラキの声がした。


 振り返ると、ラキが少しだけ眠たそうな顔で立っている。

 

 あの話し合いの後、ひと段落ついて安心したのか、ラキはすぐに眠ってしまった。

 

 ――よく眠っていたから、そのままにしておいてあげようと思ったのに。起きてしまったのね。


「ええ、行くわ」

 

 私は視線を都の方へと戻しながら答える。

 空は濃い橙に染まり、都の方角に城壁の輪郭がうっすら浮かんでいた。


「ライトの槍……持っていくんだな」


 ラキは暗に、血の槍を生成できる私がわざわざ目立つライトの槍を持っていくことの不利を告げる。

 だけれど。


「うん。大丈夫よ、持っていくわ。……もし会えたら、返したいから」


 ……ううん。もし、ではないわね。きっとまた、遠くない未来に、どこかで会えるはずだから。

 心の中でそう言い直して、自分にもう一度頷いてみせた。


 ……そう。心配して探し回ったりしたら、再会してから笑われちゃうわ。

 

 無理やりそう思うと、少し力が抜けた。気持ちが引き締まる。

 

 私は翼を広げた。


「……必ず戻れよ」


「当たり前よ。……ラキこそ、留守を頼むわね」


 短くそれだけ答えて、私は地を蹴った。


 風を切る音が耳元で大きくなる。


 目だけで後ろを見る。基地が、後方へとだんだん小さくなっていく。


 ――ラキ……疲れているはずなのに、私が出ていくのに気がついて、わざわざ起きて見送りに来てくれるなんて。


 いつのまにか、頬が熱くなっている。

 夕日のせいかと思ったけれど、夕日はもう、こんなに身を焼くほどには残っていない。

 ラキの顔を思い浮かべると、なぜか胸の奥が熱を持つ。

 ……何なのかしら、これ。

 得体の知れない、けれど、どこかで覚えのある熱。……でも、なんだか懐かしいような気もする。

 

 いつだって、私を突き動かしていたのは、高鳴る心の熱だった。

 最近の私は、ずっと、その熱を見失っていた。

 ……でも、今、ほんの少しだけ、それを思い出せた気がする。

 

 眩しい日の光に鼓動が高鳴った、村を出たあの日。


 ……あの日の私と、今の私は、もう違う。

 でも――私の中にあるこの熱だけは、きっと変わっていない。


 短くなった髪が、風の中で首筋を撫でた。


 **


 日が完全に落ちた頃、私は城壁を越え、闇に紛れて屋根伝いに都の中へと入り込んだ。

 

 夜の都は、静かではなかった。

 

 戦火そのものは、反乱軍の縮小のためか落ち着いている。

 

 城壁周辺の人影は疎らだった。


 ただ、ところどころに帝国軍の兵士の姿がある。


 残党狩りに駆り出されているのかもしれないけれど、それにしては、彼らの目は獲物を追う目ではなかった。

 もっと別の何かを警戒しているような――そんな気配があった。

 私は屋根の上に伏せ、息を整える。

 四人組の兵士が、近くを通り過ぎていく。

 私は彼らを屋根の上から追うことにした。


「なあ、聞いたか? あの噂、本当だったらどうするよ。今すぐにでも、俺は――」


 兵士の一人が、肩を揺らして小さく声を漏らす。

 

「……まさか。何かの間違いに決まっている」

「だが、サリィ将軍も今朝から城に戻られていないんだろ?」

 

「口を慎め。……死にたくなければな」

 

 最も歳をとっている兵士が低く釘を刺す。

 その一言で、四人はそれきり黙り込んだまま歩いていく。


 ――何の話を、しているの?


 彼らが触れていた何か。形にならないまま、夜気の中へ溶けていったその輪郭を、屋根の上から見つめる。


 何が起こったのか。

 何がまだ起こっていないのか。

 情報を掴むため、夜の闇に溶けるように私は都を駆けた。

 

 **

 

 四人組の兵士は、やがて、戦時に急ごしらえで建てられたらしい小さな詰所に入っていった。

 兵士の出入りが多い。物資の搬入の跡もあった。臨時の指揮所のようなものみたいだ。

 私は詰所の裏手に積まれた木箱の影に身を潜めた。私の頭のすぐ上に、小さな格子窓がある。

 

 窓の隙間から、低い声がいくつも漏れてくる。格子窓から漏れる空気には、酒の匂いが混じっていた。

 ――……お酒の匂い? 兵士のくせに、こんなときに飲んでいるの?

 ……それほどまでに、もう帝国軍は優勢だと判断しているということなの? それとも、もう、規律を保つ余裕も残っていないということ?

 私は息を殺して、耳だけをそちらに向けた。


「反乱軍も、ほとんど残っちゃいねぇってよ。あとはほぼ残党狩りだ」

「……残党狩りに、なぜこんなに時間がかかる? サリィ将軍は、何をしている?」

「今朝から城を出たっきりだ。行き先は誰も知らねぇよ」

「鋼鬼四天すらも姿が見えない。カティア様は殺されたという噂で、城の地下牢はもぬけの殻だったと。将軍級が、あらかた消えたってことか」

「で、あの皇女と、ソニ――」

 

「……口を閉じろ」

 

 また、さっきの年長らしい兵士の声が会話を終わらせた。

 

「上の通達を聞いていなかったのか。その名は、今は出すなと言っただろう」

 

 空気が止まった。

 酒杯を置く音。

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

「……英雄ライトの件も、同じ扱いなんだよな」

 

 ぽつりと落ちた一言に、今度は舌打ちが聞こえた。

 

「口を閉じろと言っている」

 

 それきり、会話は途絶えた。


 ――どういう、こと?

 私は木箱の影に身を潜めたまま、唇を噛んだ。

 帝国兵たちの間で、ソニアとライトの名前を口にすることが、禁じられている……?


 ソニアの名が表に出ることを、軍の上層部が嫌うのは、まだ分かる。元はサリィの暗殺部隊の人間で、それを裏切って反乱軍に身を寄せていたのだから。

 ……でも、ライトの名まで禁じられる理由が分からない。



「――何やら血が騒ぐ。……窓の外に、羽虫がいるようだな」


 不意に耳に入った言葉に息を呑む。

 思考に気を取られ、いつのまにか地面に落としていた視線を、慌てて窓に戻す。

 一人の兵士の影が窓側に歩いてくる。


 ――……!


 しまった……! まさか気取られるなんて!

 窓から差す影がかたどる翼の形から、その兵士が吸血鬼族だと分かった。

 同族の血に、自身の血が共鳴する現象。もしかしたら、私の中に混ぜられたミアの血に、同族の兵士が反応したのかもしれない。


 ――理由は何にせよ、吸血鬼族ならば、夜目が利く。格子窓から顔を出されたら、間違いなく見つかる!


 私は兵士の足音が窓に近づく気配を測りながら、木箱の影を一息に離れた。

 背後で、格子に手をかける音。

 振り返らない。目の前の建物の屋根の端に手をかけ、音を殺して身体を引き上げる。

 

「……気のせいか」

 

 兵士の呟きが、小さく聞こえた。

 兵士は部屋の奥へと引き返していく。

 

 屋根の上に身を伏せたまま、私は息を整える。

 

「はぁ……」


 ――場所を変えたほうが良さそうね。

 

 しばらく屋根の上を走ってから、人気のない通りにある建物の上に降り立つ。

 

 遠く、城の尖塔が夜空に黒く浮かんでいるのが見える。

 

 ――ソニア……まだ、城にいるの?

 ……城で、一体何が起こったっていうのよ?

 

 けれど、ここから見える範囲では、それが何なのかまでは分からない。


 ここでただ一人きりで考えていても、何も変わらない。私が今すべきことは、一つでも多くの情報を持ち帰ること。


 ――もう少し、都の中心部に近づくしかなさそうね。

 

 拳を握り、私はもう一度、都の闇に身を溶かした。


 

 **


 

 夜が明ける頃。

 私は都から森へ戻る道を走っていた。


 ――やっぱり、短い髪は変な感じ。


 耳の下を風が撫でるたびに、落ち着かなさを覚える。

 肩にかかるはずの重みがない。髪を払う仕草が空振りする。

 だけれど、その小さな違和感が、そのたびに胸の奥の決意を確かめさせる。


 駆けている中、ふと、視界の端に小さな湖が見えた。

 何の気なしに覗き込むと、肩あたりで切り揃えられた髪の私が水面に映っている。

 ――そういえば、ラキって髪長いほうが好きだったりするのかな……?

 ふと、そんなことを考えた自分に気がついた。


「……? 何で私、こんな時にこんなこと考えてるのよ」


 少し頭を振って気を取り直してから、森の中を進む足取りを早める。


 昨夜、私は結局、城には近づくことができなかった。

 理由は単純で、城の周りには帝国兵がたくさんいたからだ。残党狩りに人手を割いているはずの帝国軍が、残った戦力をかき集めて城を守っているように見えた。

 ……まるで……まるで、何か、表に出せないものを抱えているのかもしれない。

 都に残っている民は、一応帝国軍が保護しているみたいだった。今、私が基地へ大人数連れ帰るのは難しいから、それは良かった。

 ……けれど、兵士たちの動きはどこか不自然だった。城の中枢からの統一した指揮系統は感じられず、現場の判断で、目に見える反乱軍の残党だけを潰して回っている――そんな印象だった。

 

 ――決定的な情報はまだ掴み切れていない。

 どこへ行っても、ソニアやライトのことは表立って語られてはいなかった。

 それはもう、不自然なくらいに。

 ……二人の情報は意図的に抑えられているみたいだった。だとしたら、それは一体、何のために……?


 朝霧の残る森を進みながら、私は無意識に槍を持つ手に力を込めた。肩に担いだライトの槍の重みを感じる。

 ……ライト。結局、会えなかったわね。

 ……槍、返せたらよかったんだけれど。

 ……でも、今はそんなこと気にしていたらいけないわね。ライトとは、また近いうちに会えるに決まっているんだから。

 まずは基地に戻って、ラキに集めた情報を伝えないと。


「……というか、そろそろ、基地に着くはずなんだけれど」


 歩みを止め、辺りを見回す。

 朝霧で視界がぼんやりとしていて、通ったことのある小道がどれだったか分からない。

 ――あれ……道を、間違えたかしら?


「方角はあっていると思ったんだけれど」


 少し引き返そうと踵を返した、その時だった。


 前方の木立の奥に、人影があるのが見えた。


 ……足が止まる。

 

 その影は、正面から、近づいてくる。


 ゆっくりと、だけれど、確実に。

 

 草を踏む音。

 静かな、重い足取り。

 やがて、木々の間から姿を現す。


 青葉に溶け込むように風に揺れる、緑の髪。

 朝日を思わせる、赤い目。

 ――そして、絶対的な力による、重圧。


「……」


 息が止まる。


「……サリィ」


 その名が、口から零れる。

 風が、こちらへ流れてくる。

 ……鉄の匂い。それと、土と、草の湿気。戦場で幾度となく嗅いだそれが、サリィの全身に濃くこびりついている。


 サリィは脱力したように左腕で剣を持っていて、その切先は土に触れている。

 そのまま剣を引きずって、私との距離を詰めてくる。


 ――何? 

 ……このサリィに……何か、違和感がある。

 なぜ剣を引きずっているの? ……それに、重心も何だかおかしい。


「……!!」


 その違和感の正体に気がつき、私は思わず息を呑む。

 

 ……右腕。

 サリィの右腕が、ない。

 肩のあたりで断たれた袖が、空を切るように風に揺れている。

 血の匂いの濃さの正体を、私は遅れて理解した。

 ――……サリィ、一体ここへ来るまでに、何を……。


 私の問いかけるような視線に気づいたのか、サリィはわずかに目を細めた。


「貴様のほうから私の前に現れるとはな。……しかも、ライトの槍を持っているとは」


 サリィはぼそっと呟くように言った。私が槍を構えたが、サリィの歩調は変わらない。

 ……こいつにとって、私が槍を構えているかいないかは、大した違いじゃないと言うことなの……?

 朝霧の残る森の中、喉の奥がひりつく。


「別に、あんたとここで会ったのはただの偶然なんだけどね」


 だけれど……サリィなら、私が手に入れられなかったソニアの情報も知っているかもしれない。

 

「……あんたは、この辺りに探りを入れてたってところかしら? ……随分、便利そうな身体になっているみたいだけれど」


 朝の冷気が張り詰める。


 私は短くなった髪を揺らしながら、槍を強く握り直す。

 サリィの視線がその髪に一瞬だけ落ちる。


「……その様子だと、けじめでもつけたつもりでいるのか」


 ほんの瞬きほどの間、サリィの剣を引きずる足音が、止まった。

 すぐにまた、剣の切先が土を引いていく。


「……だが、無意味なことだ。混血(わたしたち)はどこまでいこうとも、血に呑まれて己を失う危うさを捨てきれないのだからな」


 サリィは彼女の失われた右腕に目をやりながら言った。


 私は答えなかった。

 代わりに、胸の奥で脈打つものを感じていた。

 もう、目は逸らさない――そう決めたばかりの私の前に、サリィは静かに立っている。


 会ったのは偶然だけれど、この機を逃すわけにはいかない。サリィは帝国軍の将軍。都では得られなかった情報も、サリィならば握っているはずだ。

 警戒を崩さないまま、私は口を開こうとした。

 ――だけれど。

 

「ライトは死んだぞ」

 

 先に口を開いたのは、サリィだった。

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 音だけが耳を通り抜けていった。意味が、追いついてこない。

 

「……え?」

 

 槍を構えた腕が、少し下がる。

 サリィは、表情一つ変えずに私を見ていた。


「ライトが……死んだ?」


「ああ、そうだ」


 口に出してみて、初めて言葉の輪郭を確かめる。

 ――違う。

 そんなはずはない。

 

「あんたまで、その嘘を吐くのね」

 

 私はほとんど反射のように、そう言っていた。

 

「何で、そんなことを……。あんただって知っているはずよ、ライトが……そう()()()死ぬわけが――」


 言葉が溢れていく。


()()()()死なぬだろうな。――だが、死んだのだ」


 サリィは私の言葉を遮り、感情を乗せずに言う。


「私がこの手で殺した」


「……サリィ、が…………?」

 

 言葉が止まる。

 サリィの剣の切先は、土に触れたまま、動かない。


 木々を騒がせていた風の音が、聞こえなくなる。


 ――サリィの、失われた右腕。

 ――ミラクが私に突きつけた、血に塗れたライトの槍。

 

 まるで世界から取り残されたみたいに、私は立ち尽くしている。

 サリィの全身から漂う血の匂い。それはサリィ自身が流した血と、もう一つは……――。

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