表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100/103

第84話 打ち明ける痛み

 不意に吹いた風が、私の髪を揺らした。

 地面に横たわるミラクの無造作な黒い髪も、少しだけ揺れる。

 呼吸は微かにしているけれど、ミラクは目を閉じたままだ。


「ミラク……もう、息も絶え絶えね」


 一緒に旅をしていた頃、ミラクはいつも私より先に起きていた。隙なんて見せるような奴ではなかった。

 ミラクはいつも一人きりで、焦がれて止まない何かを見つめていた。それを、必死に手に入れようとしていた。私はミラクを知ろうとして、その視線の先を追ってばかりいた。

 

 ……だけれど、ミラクの目は、今は何も見ていない。こいつが目を閉じているのをこんなにじっくり見ているだなんて、なんだか変な感じだ。

 

 そっと抱き起こすと、ミラクの呼吸が少し乱れた。熱はある。だけれど、血の匂いがあまりにも濃い。

 このままだと、ミラクが死ぬのは時間の問題だ。


 ――死んでほしくない。


 ミラクの死が過った瞬間、胸の奥に熱い願いが浮かぶ。

 

 ……ああ。私、本当に――。


 朝の光が、乱れた草の上に白く落ちている。木々の間から見える空は高く、都の城壁はもう遠い。

 差し込む陽の光が、やけに眩しかった。照らされた肌が、ひりつく。


「ミア。……レーシュ」


 私が声をかけると、二人がこちらを見た。


「お願いがあるわ。……聞いてくれる?」


 **


 俺は、ラナを抱えたまま拠点へ向かっていた。


 森の奥は朝の冷気に満ちている。枝葉の隙間から差し込む光はもう白い。夜はもう、とっくに終わっている。

 それなのに、俺の中の暗い闇は、まだ晴れない。


 ラナが目を覚ましたことは、本当なら何より喜ばしいはずだ。

 ミアとレーシュが味方に付いたことも、状況だけ見れば好転しているのかもしれない。

 だが、胸の内は少しも晴れなかった。


 サキがミラクに跨り、血を啜っていた光景が、何度も脳裏に蘇る。


 ……嫌でも思い知らされる。ミラクは誰よりもサキの心を占めている。俺はサキのことばかり考えてしまうのに。サキは俺のことは二の次だ。ミラクと再会してから、ずっと。

 

 サキが俺に悪意を抱いているわけではないことは分かる。だが、それとサキの言動に納得できることとは別だ。


 俺はただ、サキに俺の気持ちを分かってほしいんだと思う。だが、サキは俺の気持ちを分かろうとしていない。だから、俺はずっと満たされない。

 ……だから、ずっと苦しいんだ。


 こんなに苦しいなら、俺はいっそサキへの気持ちを――。


「ねえ、ラキ」


 思考の渦に嵌っていく感覚から引き戻される。腕の中からラナが声をかけたのだと、遅れて気がついた。


「……何だ」


「私が意識を失っている間にあったこと……聞かせて」


 意外な頼みに、俺は少し黙った。

 今のラナに聞かせていいのか分からなかったし、正直、心情的には俺自身だって整理し切れていない。

 だが、ラナは静かに俺を見上げていた。俺と同じ赤い目に、現実を受け入れることを決めた強さが宿っている。


「……ああ。……そうだな」


 拠点へ向かって歩きながら、俺は回らない頭を無理やり動かし、できるだけ順を追って話した。

 暗殺部隊の砦で何があったのか。

 その後、俺たちが反乱軍でも帝国軍でもない第三勢力として、民を助けていたこと。

 その中、フィロンとサリィの戦いを目撃したこと。ユリアナを追ったこと。……ソニアと手を組むことになったこと。

 ミラクと遭遇したこと。

 サキに突きつけられた残酷な事実。

 ここからはラナも意識があったはずだが、サキがミラクを殺さず……いや、殺せずに、あいつの血を吸ったことまで。


 ラナは黙って聞いていた。時折、木の根や石を踏んで俺の歩みが揺れても、黙っていた。


「……そっか」


 小さく落ちた声は、思っていたよりもずっと落ち着いていた。


「……悪い。一気に話し過ぎた」


「……ううん。私が聞きたいって言ったんだから」


 ラナはそう言ってから、少しだけ視線を伏せた。

 それから、何かを測るように口を開く。


「分からないことがあるんだけど、聞いてもいい?」


「何だ」


「ラキは、何でそんなに辛そうな顔をしてるの?」


 不意を突かれて、俺は眉を寄せた。


「……どう考えても、絶望的な状況だろ」


「そうかな」


 ラナは穏やかに返す。


「確かに、ひどいことはたくさんあったよ。でも、私が目を覚ましたことや、ミアさんとレーシュさんが今は敵ではないことは、悪いことではないでしょ?」


「……」


「なのにラキは、ずっと何かを堪えてるみたい」


 言葉が詰まる。

 図星だった。


「……疲れたんだよ。あいつらだって、いつ裏切るとも知れない。……サキだけ、あいつらと残してきてしまったけどな」


 俺はそれ以上は答えられなかった。

 ラナの言うことは間違っていない。だが、それでこの胸の苦しさが説明できるわけでもなかった。

 

 ……そう、俺は、疲れたんだ。サキのことは心配だが、サキといると、サキのことを考えようとすると――際限のない闇の海で、孤独にもがいているような感覚になる。


 ラナは少しだけ目を細めた。

 責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ俺を見る。


「ラキって、サキさんのことになると、すごく必死になるんだよね」


「……何だよ、それ」


「心配しすぎてる、って言えばいいのかな。……サキさんのことになると、余裕がなくなるっていうか」


 俺は黙ったまま歩く。


「それで、思い通りにならないと、余計に苦しくなるんじゃない?」


 ……これも図星なのかもしれない。だが、それを素直に認められなかった。

 認めると、まるで……まるで、俺ばかりが、サキと必死に通じ合おうとしているみたいで。


「……そうかもな」


 やっとそれだけ答えると、ラナは小さく頷いた。


「ラキが悪いって言いたいわけじゃないんだよ」


「……分かってるよ」


「私も、サキさんにも問題はあると思う。ラキの前で、あんなことしたんだもん」


 ラナの声は穏やかだったが、その言葉にははっきりした棘があった。

 それは少しだけ救いだった。ラナは俺の気持ちを尊重してくれている。俺だけが苦しんでいるわけではないと、そう思えた。


「でもね、ラキ。苦しいなら、ちゃんと話した方がいいよ。……サキさんに」

 

「……サキに?」

 

「ラキって、肝心なことを抱え込んでしまうところがあるから」


「……」


 俺は思わず苦笑した。

 ラナには、こういうところで敵わない。


「……抱え込む、か」


 ――ああ。そうだ。


 俺はサキに、分かってほしいと願っていた。


 ……だが、俺はサキに()()()を話してはいない。

 俺の心を最も蝕んだ、忌まわしい記憶を。――ミラクの過去の記憶が流れ込んだことで、奴の殺人の動機を知り、サキが大河に突き落とされる様子を、奴の視点で見てしまったことを……。


 俺はそれを話さずにいた。

 そのくせに――その苦しみを分けずにいたくせに、俺はサキに、俺の苦しみを理解することを望んでいた。……サキのミラクへの想いや言動に、問題がまったく無いとは思わないが。……俺のほうにも問題はあったのかもな。


「……ありがとう、ラナ。……俺、サキに伝えないといけないことがあるって、気づけたよ」


 ラナは少し意外そうな顔をして目を瞬く。だが、次の瞬間安心したように笑った。

 それを見て、少しだけ胸の奥の重さが和らいだ気がした。


「よかった」


 そのまま歩いているうちに、やがて森の奥に隠れるようにそびえる拠点が見えてきた。


 **


 血を混ぜた赤黒い影が、音もなく森の中を滑っていく。


 ミアが操るその影は、薄い膜に包むようにしてミラクの身体を宙に浮かせていた。


 目を閉じたままのミラクは、もうほとんど動かなかった。

 呼吸は浅い。顔色も悪い。血に濡れた黒髪が頬に張り付き、あれだけ爛々としていた黄色い目も、閉ざされたままだ。

 

 つい先刻まで、私はミラクを殺さなくてはいけないと思っていた。

 いや、そうするべきなのは、今も分かっている。

 それなのに、影に包まれて運ばれていくミラクの横顔を見るたび、胸の奥が騒ぐ。

 

 ――死んでほしくない。どれだけ傷つくことになってもいい。だから、私はまだ、ミラクと、もっと……。

 

 その気持ちを認めたばかりの胸は、まだ熱を持ったままだ。

 その熱は、もう誤魔化しようがない。


 私は視線を逸らして、前を歩くミアを見た。

 森の中でも影の濃い道を選んでいるけれど、それでもところどころから白い煙が立ちのぼっていた。


 ミアは私でさえ少しきつく感じる陽を浴びることに躊躇いがない。

 その姿はどこか、自傷めいて見えた。

 思えば……ミアはずっと、躊躇なく陽を浴びている。

 ……ずっと、破滅的な行動を繰り返している。


「……ミア」


 私が声をかけると、ミアは振り返らずに答えた。


「何かしら」


「さっきの話だけど……本当に、ミラクの監視と治療をしてくれるのよね」


 ほぼ無意識に名前を呼んでしまった。仕方なく、私は取り繕うように先刻話したことの確認をする。


 ミアの肩越しに、白い髪が揺れる。

 少し後ろを歩くレーシュも、無言のままこちらを見た。


「お前が愚かにもそうしたいと言うのなら、私は一度は付き合ってあげるわ」


 吐き捨てるような声音だった。


「だけれど、勘違いはしないことね。お前の判断を正しいとも思っていない」


「……」


 ……正しい、か。私にもまだ、ミラクを生かすという自分の選択が正しいかどうかは分からない。だけれど私は、私の心に従ってそう決めた。ならば、私は自分を信じるしかない。


「……分かった。私も、いつまでもあんたの手を借り続けるつもりはないから」


「……どのみち、あの男の状態はかなり悪い。生かしておきたいなら、手を尽くすのは私だけでは足りないわ」


 そう言って、ミアはレーシュを見やる。


 レーシュは少し肩を揺らし、それから小さく頷いた。


「あたしも……やる。ミラクのこと、嫌いだけど……サキがそれを望むのなら」


 その言い方は、やっぱり少しぎこちなかった。

 でも、逃げるような感じはない。


「礼を言うわ」


 私が言うと、レーシュは少しだけ目を伏せた。


「……お礼を言われるようなことでは、ない。あたしは、まだ……」


 続きを言わず、唇を結ぶ。

 たぶん、ラナのことも、私たちにしてきたことも、全部まだ消えていないのだろう。


 それは、私だって同じだ。

 感謝することと、許せることは、別だから。


 森の奥に隠した拠点が近づいてくる。

 その途端、胸の奥がまた少しだけざわついた。


 ――ラキと、ラナ。

 今、一番大切で、失いたくなくて、ちゃんと向き合わなくてはいけない二人。


 ……ラキは、どんな顔をするだろう。ラナは、何て言うだろう。

 もしかしたら、二人が私のもとを去りたいと言うことだってあるかもしれない。

 ――……二人に会うことを、こんなに怖く思うだなんて。……でも、もうその怖さからも目を逸らせない。

 それでも私は、二人に会いたいと感じるから。これはきっと、二人のことを見つめている証だから……。

 

 私は足を止めなかった。


 **


 拠点へ戻った後、俺はラナを寝台に座らせ、自分の傷の応急処置だけ済ませて、壁にもたれるように腰を下ろした。

 ラナはそのまま目を閉じた。本当に眠ったのか、眠ったふりをしているのかは分からなかった。

 

 全身が重い。

 瞼を閉じれば、そのまま意識が落ちそうだった。


 一人になると、静かだ。俺も目を閉じる。眠れる気はしないが、それでもいい。……疲れたから、休みたいんだ。


 ……もしかしたら俺は、サキのことを考えることから、少しの間、逃げていたいのかもしれないな……。


 

 ――どれくらいの間か、眠りに落ちていたようだった。

 

 目を覚ましてからも、何となく座ったままでいた。動く気にはなれず、眠りはしないが、また目を閉じていた。


 しばらく経って、扉の外から足音が聞こえた。複数の足音。近づいてくる。

 俺は目を開けた。


 ……戻って来たのか。


 **


 扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。


 壁際に座っていたラキが顔を上げる。

 赤い目がまっすぐにこちらを射抜いた。

 

「……思ったより早かったな、サキ」


 それだけ言って、ラキは私の後方へ鋭い視線を向ける。


 私の後ろでは、ミアの血を混ぜた赤黒い影が、意識のないミラクを球のように包み込んで浮かせている。

 レーシュはその少し後ろから、様子を窺うように付いてきていた。

 

 ミアとラキの視線が交わり、空気が張り詰める。


「そいつら全員、連れ帰ってきたんだな」


 ラキは立ち上がった。ぱちりと目を開いたラナが、寝台の上で息を呑んだのが分かった。

 そんな中、レーシュは一歩前へ出てミアとラキの間に割り込み、小さく言う。


「奥の部屋、借りるね。ミラクを、寝かせるから」


 私は頷く。道中、ミアとレーシュに空いているはずの部屋のことを話しておいた。

 この基地は、大陸戦争時代に人族が拠点としていた数ある建物の一つで、それなりに広い。


「サキ、こいつらに基地の内部を話したのか。……信用できる保証はないんだぞ」


 ラキが軽い舌打ちと共に言うと、ミアは冷たく笑った。


「それなら、今から力尽くで私達を追い出してみる? もっとも、お前にそんな余力があればの話だけれど」


 ラキはミアから忌々しげに目を逸らす。


「……勝手にしろ」


 ラキの声は硬かった。苛立ってはいるが、まともに相手をする気力がなさそうだ。

 ミアは鼻で笑う。


「言われなくてもそうするわ」


「……妙な真似をすれば、どんな手を使ってでも殺す」


 ラキの牽制にそれぞれ失笑とため息を溢し、ミアとレーシュは奥の部屋へ向かう。

 赤黒い影が、ミラクごと音もなく空中を滑っていく。


 扉が閉まる音がして、部屋の中には私とラキとラナだけになる。


 重い沈黙が流れた。


「ラキ」


 最初に口を開いたのは、私だ。ラキに歩み寄る。


 ラキは黙って私を見る。


「……ちゃんと話したいの」


 ラキの目が細まる。

 拒絶されても仕方がないのかもしれない。でも、ラキは視線を逸らさなかった。


「ラナも。……起きていられそうなら、だけれど」


 ラナがそっとラキを見る。

 ラキは短く息を吐いた。


「……そうだな。俺も、話さないといけないと思っていたんだ」


 ラキの鋭い目が、黒い前髪の隙間から私を見据える。私は胸の前で手を握りしめた。

 指先に力が入って、いつのまにか吸血鬼族のように長く伸びた爪が手のひらに食い込むのを感じながらも、私は意を決して口を開く。


「私は、ミラクを殺せなかった。そして、気づいたの。……私は、ミラクに死んでほしくないって、思っているんだって」


 今までのこと、すべてをなかったことにはできない。

 それは、ミラクがしてきたことも……私がラキやラナにしてしまったことも同じだ。


「……勝手よね。ラキが怒るのも、呆れるのも当然だと思う。ラナも。……怖い思いをさせてしまったよね。……ごめん」


 ラナが少しだけ目を伏せる。

 でも、何も言わなかった。


「私、二人が私のもとから去ってしまうと思ったら、どうしようもないくらい悲しくて寂しかったの。……そして、私自身の罪深さに気づいた。二人を苦しめてしまったこと……反省してる」


 息を吸う。

 喉が少し震える。


「でも、もう私は、自分の気持ちからも目を逸らしたくないの。ラキとラナが大切なことからも、二人への罪悪からも……ミラクを死なせたくないって、気持ちからも」


 ラキの目がわずかに揺れた。


「だから、ミアとレーシュにミラクを見てもらうことにしたの」


 私はミアとレーシュがいる奥の空き部屋の方を見る。


「二人とも、条件付きだけど引き受けてくれた。ミアは影で拘束し続けられるし、レーシュは医術が使える」


 そこまで言ったところで、ラキがやっと口を開いた。


「……ミラクは、それを望んでないだろ」


 胸の奥が、少しだけ強く脈打つ。


 ――それは、そうかもしれない。


 ラキの言葉はいつも以上に鋭くて、私の心の深い部分を刺す。

 

 ミラクはきっと、私の感情を弄ぶことを望む。その果てに私を絶望に染めて、殺すことを望む。


「そうかもしれない。……私のこの願いは、結局、自分のための願い……なのかもしれない」 


 私の脳裏に、ミラクの顔が浮かぶ。

 ミラクは言った。――受け入れたいというのなら、変えようとするな、と。


「ミラクの言っていた通り、あいつを分かりたいと願うのは……私のエゴ……なのかもしれない」

 

 あいつは熱を得られない生き方に価値などないと切り捨てて、もっと刹那的で破滅的な道を選ぶ。ただ衝動に身を任せて、熱に縋って生きていく……そんな生き方を望むのかもしれない。

 ……それでも。


「……でも、私はミラクの望む通りに殺されてやるつもりなんてないし、私からも終わらせてやる気はない」


「……それは当然だ。俺だってあいつの望み通りにサキを死なせる気はない」


 ラキはそれ以上は何も言わない。

 赤い目は鋭く私を射抜いている。拒絶されてはいない。


「……うん。ありがとう、ラキ」


「……」


 ……けれど、受け入れられたわけでもない。その曖昧な距離に、足場が崩れ落ちていくような感覚に陥る。


 それでも、私は視線を逸らさなかった。


「ミラクが何を望んでいるのかも、何を抱えてるのかも、私にはまだ全部は分かってない。分からないまま殺して、それですべてを終わりにすることは……したくない」


 何とか言い切ったけれど、喉の奥が掠れて、うまく言葉が出てこない。

 ラキの視線はなおも厳しい。

 けれど、もうそれから逃げないと決めた。まだ、言葉を紡ぐ。

 ラキとラナに、届くように、もっと、心を乗せて。


「……でも、それはミラクのためだけではないの。私は、ラキとラナのことが――」


「……いいよ」


 私の声だけが飽和していた部屋の中、小さく聞こえたラキの声。


 怒っているようにも、疲れ切っているようにも聞こえる声だった。

 私は思わず言葉を止める。


「サキが、俺とラナのことを考えてくれているのは分かった」


 許されたわけではない。

 全部を受け入れてもらえたわけでもない。

 それでも、その言葉は確かに胸の奥へ落ちてきた。張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。


 ラキは少しだけ俯いて、それから、何かを押し出すように続けた。


「……俺も、サキに話さないといけないことがあるんだ」


「……なに?」


 問い返した自分の声が、思ったより小さかった。

 ラキはすぐには答えない。喉が上下していて、言うかどうか、最後まで迷っているように見えた。


 そして、意を決したような顔になって、ようやく口を開く。


「俺は知っている。……サキが知ろうとしている、ミラクのすべてと……そう言えるものを」


 何を言われたのか、一瞬分からなかった。

 ……ただ、ラキの声があまりにも悲痛で、私は黙ってラキを見ることしかできなかった。


「俺は……ミラクの記憶を見た」


「……ミラクの、記憶?」


 言っていることの意味が、よく分からなかった。


「砦であいつに斬られた時……俺と奴の何かが共鳴して、記憶が、偶発的に流れ込んだらしいんだ」


 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。

 ――記憶を、見た?

 ラキが……ミラクの、記憶を……?


「……ミラクがサキを大河に突き落とした場面を、奴の視点で見た。殺したときの、理由も……全部」


 ラキの声は淡々としていた。

 ……だけれど、その淡々とした声音の奥に押し込められているものが、あまりにも重い。


 ――ミラクが使う、おそらくは殲獣製の剣。……その効果で、ミラクの記憶がラキに流れ込んだ。


 ラキの言葉が、少しずつ、少しずつ、私の中で意味を成していく。

 ……ミラクの過去を知ったこと。ミラクの心に触れてしまったこと。

 憎んでいるはずの相手を、理解してしまったこと。

 

 そこまで思い至った瞬間、喉の奥が詰まった。

 ラキは、そんなものを一人で抱えていたんだ。


「サキに話せば、苦しませると思っていた。……だが、本当は、俺が怖かっただけだと思う」


 ラキは私から目を逸らさなかった。

 

 声は、いつしか嗚咽混じりになっていた。


「サキが俺を見る目が変わるのが嫌だった。それを話さずにいたくせに、俺はサキに俺の苦しみを分かってほしいと……願っていたんだ」


 私もラナも、何も言えない。

 ただラキの声だけが、部屋の空気を裂いていく。


「何より苦しかったのは……俺は、そう、奴の記憶を見て……奴の気持ちを……理解、してしまったんだ!」


 ラキの声は乱れて、段々と大きくなっていく。最後の言葉はほとんど叫びだった。

 憎むはずの相手を、理解してしまうという心の矛盾。

 殺してやりたかったはずの得体の知れない相手。

 その中に、自分と地続きの痛みや歪みを見出してしまうこと。

 ……でも、一度知りたいと知ってしまったら。納得したいと思ってしまったら。

 ……もし、本当に、納得、してしまったのなら。


「何を欲し、何のために生きているのか、サキへの歪み切った感情さえ、すべて――!」


 ラキは、ミラクの過去を知り、ミラクの心に起こったことを理解し、共鳴してしまっている。

 ……ラキの苦しみは、きっと、今の私には計り知れない。

 私が、ミラクを分かりたいと思う気持ちは、本物。……ミラクを憎む気持ちも、本物。

 ラキに、ミラクの気持ちを理解したと言われても……すぐにすべてを受け入れられはしない。

 ……でも……それでも、ラキに、寄り添いたいと……そう、思うから。


 今は理解しきれなくても、いつかは理解したいと、せめて一人では抱えさせたくないと……思うから。


「……話してくれてありがとう、ラキ」


 言葉だけでは足りない気がして、私は思わずラキへ手を伸ばした。

 気づけば、そのまま抱きしめていた。

 肩越しに、ラキの吐息が伝わる。


「……辛かった、よね……」

 

 大河に落とされたときの絶望は、私の中に深く刻まれている。そのときのミラクの記憶を、ラキは持っていた。そんなものを一人で抱えていた。

 それも知らずに、私は、ラキのことを、傷つけて……大切だなんて、口にして――。


「……気づけなくて、ごめんね」


 溢れた声が掠れる。

 自分が泣いているのだと気がついた。

 ――ラキのそばにいたい。ラキから離れたくない。……こんなに辛いことを、一人きりで抱え込んでいたなんて。

 今、ラキが目の前にいてくれることのありがたさを噛み締める。

 

 ラキは私の腕の中で、ただ、小さく首を振った。


「……俺も……サキを信じて……話さなくて……ごめん」


 ラキの顔は見えないけれど、肩越しにラキの震えが伝わる。


「さっき……サキだけ置いて、基地に帰ったりしたことも……悪かった」


「そんなこと、ないわよ」


「……お互い様だな、サキ」


 ラキは、嗚咽混じりに、少しだけ笑みを滲ませて言った。

 

 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がほどけた。

 私は泣いたまま、少し笑ってしまう。


 私はラキの肩を両腕で抱いたまま腕を伸ばして、ゆっくりと身体を離した。


 けれど、すぐには手を放せなくて、肩に触れたままラキの顔を見る。……ラキも、私を見ている。


 ラキの瞳の奥は揺れていた。

 その揺れを、もっと近くで見ていたいと思う。

 このまま、もう少しだけ、こうしていたいと思う。

 

 この何物にも変えられない時間を、ずっと感じていたい。

 

 だけれど――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ