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第83話 出会ってしまったから

 土の上で膝をついたまま、私は動けずにいた。


 目の前では、ラキが顔を伏せてしゃがみ込んでいる。ラキの肩はゆっくりと上下していた。

 朝の冷たい空気の中、自分のものかラキのものかも分からない荒い呼吸だけが耳の奥に響く。

 

 どくどくと心音が騒いでいるのを感じた。

 その脈動と呼吸音に包まれながら、私は今自分が何をしてしまったのかを思い出す。

 

 ――私……ラキがミラクを殺そうとするのを……何で、あんなにも必死に止めたのよ?

 

 私が、この手でミラクを殺したかったから?

 ラキに、手を汚させたくなったから?


 ……ううん、どれも、違う気がする。


 でも、じゃあなぜなのかと問われても、答えられない。


「……」


 ただ、ミラクを殺せない。それなのに、生かそうとすることも苦しい。

 ……自分の本当の気持ちが何なのか、分からない。


 乱れたままの呼吸を何とか整えようとして、私は息を吐いた。

 だけれど、胸の騒めきはおさまらない。

 また傷を増やしてしまったラキの血の匂いと、喉の奥に残っているミラクの血の味が混ざり合っている。

 

「……」


 それでも呼吸を整えながら、私はラキの方を見る。ラキはしゃがみ込んだままだ。その表情は分からない。


「サキ」


 ふいに、ラキが籠った声で私の名前を呼ぶ。


「なに?」


「俺は……疲れた。少しだけ、休みたい。……いいだろう?」


 ラキは少し顔を上げて私を見た。その赤い瞳は、いつもの鋭さを失っている。私は思わず息を呑む。それからラキの視線は地面に倒れたミラクへ向いた。


 ミラクは変わらず、何の反応も示さずに横たわっている。

 私は堪らずまた顔を伏せる。


「そう、よね。……たくさん無理させてしまってごめん」


 言ってから、当たり前のことに今さら気づく。考えてみれば、ラキが疲れないはずがない。

 たくさん怪我をしているし、私はラキの血をかなり飲んでしまった。そして、ラキは私みたいに吸血鬼族の回復能力があるわけではない。


 ――私、何しているんだろう?

 

 ラキの血を飲んで。

 レーシュの血を飲んで。

 ミラクの血まで飲んで。

 

 こんなこと、したかったわけではないのに。


 ――何で、ミラクを殺そうとすると、こんなに苦しいんだろう? ……ラキやラナのことが大切なのに、何で、苦しめてしまっているんだろう?


 分からない。

 ライトのことも。ミラクのことも。……ラキとラナのことも。

 ……私が、苦しいと感じる理由すらも。


 もどかしさに歯を食いしばる。でも、そんなことをしていても何も変わらない。

 私はまた、ラキの方を見た。

 

「……もちろん、ラキは休んでていいから」


 ぽつりと言葉が溢れた。


「悪いな」


 ラキは伏せたまま、短く息を吐いた。


「……悪くなんか、ないわ」


 ラキの声からは、気力がまったく感じられなくて。

 あまりにも、そっけなくて……何だか、そう……まるで、このままラキが、目の前から消えてしまうみたいで――。


 冷たい風が吹いて、口元が返り血で濡れていることに気がつく。私はそれを手の甲で拭った。指先に残る血の感触に、さっき自分がしたことを改めて突きつけられる。


「怪我、心配だから……! ……拠点で、治療してもらってね」


 堪らなくなって、私は少し大きく叫ぶ。


「……ああ。とにかく、俺は一度拠点に戻るよ」


 ラキは、ミラクのことについて触れなかった。

 無気力なのに、どこか有無を言わさない気迫を感じる。その声は、私にもミラクについて触れさせないようにしているみたいだった。


「ラナも連れて戻る。それでいいよな?」


 思わず息が少し詰まる。その言葉に壁を感じた。

 もうこれ以上、私とミラクに関することで話し合える気がしない――そんなふうにラキに諦められたような気がして、私は思わず、ラキを引き止めてしまいそうになる。


 だけれど、伸ばしかけた右手は寸前のところで押し止まった。


「……そうね。二人とも、休むべきだわ」


 私がそう答えたけれど、ラキは何も返さなかった。

 私の動揺を理解しながらも、もう宥める気は起きないとでも言うように、静かに視線を逸らし、踵を返す。

 ラキはラナのもとへ向かい、ラナの身を起こしていたレーシュを明らかな怒気を込めて睨んだ。そしてラナを抱き上げる。


 ラナは不安そうに私を見たけれど、何も言えないままラキへと心配そうに視線を移した。


 ……二人が、このまま行ってしまう。


 膝の上に置いた手が、知らないうちに強く握り込まれていた。爪が食い込む痛みを感じると同時に、焦燥感に突き動かされる。


「……ラキ!」


 私が名前を呼ぶと、ラキは一瞬だけ立ち止まった。


「ラナも。……気をつけて」

 

 ラキは何も答えずにまた歩き出した。

 動揺してきょろきょろと私とラキの顔を交互に見ているラナを横抱きにしたまま、ラキは歩いていく。


「……」


 私の傍には、動かないミラクがいる。


 息が詰まる。なぜか、胸がじりじりと焼けるように熱い。

 

 ――何、これ……。


 ミラクの血の匂いが、まだ漂っているせいなのか。

 喉の奥がひどく気持ち悪くて吐きそうなのに、息をして血の匂いを吸い込むたび、胸の奥の何かが掻き立てられる。


 ――吸血欲求……?

 でも、何か、違うような……。


 血への飢えとは違う。

 もっと胸の奥をじかに掻き回されるような嫌な熱が、全身を巡っていく。

 どうしようもなく苦しい。それなのに、私はラキとラナが歩いていく様子から目を逸らせなかった。

 ラキとラナの姿が見えなくなっても、私はしばらく二人が消えた方向を呆然と見つめていた。


「――その男、まだ微かに息があるわ」


 動けずに座りこんだままの私に、ミアが言う。


「殺しなさい。お前の手で。……あの双子は去ったわ。案ずることは、もうないでしょう?」


 ミアは私のほうへ歩み寄り、木陰から日の当たる場所に出る。レーシュの血を吸って治ったはずの肌からまた、薄く煙が立ち始めた。

 その異様な姿のまま、ミアは冷えきった目で私を見下ろしている。


 レーシュは、私とミアの気配を窺うように、少し離れた場所で息を潜めていた。


「早く、殺しなさい。……さもなくば、私はもう、お前を見限ってしまいそうなのよ」


「……」


 ――ミラクを、殺す。

 ……そうだ、殺さないといけない。分かってる。


 ……でも。


 ……私には、できなかった。

 あれだけ口にしても。あれほど、ミラクを殺せる状況を仕立て上げられても……できなかった。


 ミラクへの気持ちは、まだはっきりしない。

 でも私は、その曖昧なものからずっと目を背けていたのだと思う。

 ミラクのことを分かりたいと思っていたけれど、私自身のミラクへの気持ちからは、目を逸らしていた。


 ラナを連れ去られていたと知ったとき、私は確かにミラクを殺すべきだと思った。それもまた、嘘ではない。

 だけれど、きっと……私の本心はそれだけではない。

 ……目を背けていては、だめだ。

 ミラクからも。……私自身からも。

 喉の奥に残る血の味が、今になってやけに生々しく蘇る。


 認めたくない。

 信じたくない。

 最悪で、最低だと思う。

 ……だけれど、多分、私は――。


「ミア。……ラキや、私を助けてくれたことは感謝するわ。……でも、私は、ミラクのことを殺せない」

 

「……何ですって?」


 ミアの声が低く沈む。

 次の瞬間、焼けた指先が私の胸ぐらを乱暴に掴んだ。焼けるような熱が布越しに伝わって、反射的に息が詰まる。


「……っ」

 

「お前、自分が何を言っているのか分かっているの?」


 全身に殺意を湛えて、ミアは私を睨みつける。爛々と揺れるその目が、殺意は嘘ではないと告げている。……だけど。


「戦ろうって言うんなら、それでもいいわ。……私は、絶対に負けないから……!」


 私はミアの手を振り払った。

 胸の奥で暴れているものを、今度こそ言葉にしなくてはいけないと思った。


 ミアは私を逃す気はなかったようで、彼女の殺意を跳ね除けてまで啖呵をきる私に、少し目を見開いていた。


「あんたに何を言われようと、何をされようと、私は……もうこれ以上、自分自身を誤魔化さない」


 私は、自分自身からも目を逸らしてはいけないんだ。


 自分の感じていることから逃げずに、しっかりと言葉にしなくては、だめなんだ。

 ミラクを殺すべきだと思う。そうしないといけないとも、分かってる。

 殺されたニーナのためにも、ラキやラナのためにも。……私自身のためにも。

 ……だけれど、それはあくまでもそうするべきだという考えで、私の気持ちではない。

 

 私の本当の気持ちは……。

 私は――!


「私は……ミラクを、殺したくないの」


 そこまで言って、私は自分の喉が震えていることに気づいた。


「……違う」


 そう口にした瞬間、自分でも何を否定したのか分からなかった。

 けれど、それが本心とは微かにずれているのだと、少し遅れて、はっきり分かった。


 心の底を、今度こそ取り落とさないように、私は口を開く。


「ミラクに、死んでほしくない」


 そう言った瞬間、胸の奥で何かが痛いほど脈打つ。

 でも、その痛みを苦しいとは思わない。

 それは多分、自分の気持ちに嘘をつくのをやめたからだ。


「殺してしまうって……その人と互いに向け合った気持ちも、後悔も……ぜんぶを、無かったことにするって、そういうことじゃない……! 私は……そんな終わり方、したくない……!」


 想いは叫びとなって溢れた。だが、ミアは怒りを露わに顔を歪める。


「あの男は敵よ。敵は殺す。お前にはその力がある。……力がある者が生き残る。それだけのことでしょう」

 

 ミアの言うことも、その通りなのかもしれない。


「確かにミラクは、今まで、たくさんの人を理不尽に終わらせてきた。ミラク自身が殺されることも、起こり得ることだと思う。でも……ミラクは私の手の届くところにいるから」


 声が震えた。だけれど、心はまだ溢れて止まらない。


「私は、私の手の届くところにいる人を……分からないまま終わらせたくないの」


「……必ず、後悔するわよ」


 ミアは戒めるような声で言う。私はその警告に答える前に、浅く息を吸った。


「後悔はきっと……どんな道を選んでも、してしまうんだと思う。……ただ、これ以上は、自分の気持ちを誤魔化せそうにないの」


 ミラクを殺したら、私はきっと後悔する。ミラクに何を望んでいるのかも、ミラクの心の本当の奥底も、まだ私には分かっていない。

 

 ――だけれど、私はきっと、ずっとミラクを忘れられない。


 何も分からずに無かったことにしてしまったら、ミラクを思い出す度に、やるせない気持ちになってしまう。

 ……それでは、私は二度と前に進めないかもしれない。


 何より――。


「目を逸らしたくない。許せないことも、苦しかったことも、全部、ぜんぶ、最後まで見つめて、そして……最後にどうするのか決めたい。……だから、殺したくないの」


 ミアの目が細まる。その視線の冷たさに、思わず息を呑んだ。

 だけれど、もう言葉は止まらなかった。今は、自分の気持ちが、はっきりと見える気がするから。


「一緒に居たいと思った人のことを、受け止めたいと思うのは……そんなにおかしいことなの?」


「……ッ」

 

 ミアの目が揺れ、大きく見開かれる。ミアは私を見たまま、しばらく黙っていた。


 ミアの肌からまだ微かに煙が上がっている。朝の冷気の中で、彼女の身に残る熱だけが異質だった。

 

 焼け爛れた肌から立ちのぼる白い煙が、ゆっくりと風にほどけていく。


「……一緒に居たいと思った人を、受け止めたい……ですって?」


 その吐き捨てるような声音の奥に、ただの苛立ちとは違うものが混じる。怒りとも、侮蔑とも少し違う――古傷を不用意に抉られたような、不快感があった。


 ――一緒に居たい。

 ――受け止めたい。

 ――分からないまま、無かったことにしたくない。


 ミアは遠くを見るように目を細めた。

 ほんの一瞬だけ、その顔から怒りが薄れる。


 私が口にした言葉が、ミアの胸の奥に沈んだ何かに触れたような、そんな気がした。


 ――セレスティア。

 ふいに、ミアの唇が、その名を形だけで呼ぶ。


 セレスティア。それは、記憶にはない、私の母親の名前。

 私を、産んでくれた人の名前。

 こんなに色々なことがあれば、さすがに気がつく。ミアはきっと、私を……私の、お母さんと重ねている。

 ミアと母の間に何があったのか、私は詳しくは知らない。

 だけれどきっと、お母さんはミアとの交流をやめなかった。

 手放すべきものに手を伸ばし、終わらせるべきものを終わらせきれず……それでも前を向こうとしていた。

 

 その果てに、私はシャトラント村で生きることになった。でも、お母さんは……。


「あの子は、手を差し伸べることさえ、させてくれないまま……勝手に終わってしまった」


 ミアがぽつりと溢すように言う。ミアの言うあの子とは、きっと母のことだ。


 ミアの言葉が、自分の思いと重なって胸の奥に落ちた。


「私は、手を差し伸べたい。差し伸べられた手があるなら……ちゃんと取りたい」


「……」

 

 沈黙しているミアの顔は、怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。

 ミアは何かを決めたように目を閉じて、開けた。そして口を開く。


「……呆れ果てたわ。この私にまだ、そんな言葉が吐けるだなんて」


 刺々しい、毒を含んだ声でミアは言う。だけれど、その言葉は本心のすべてではないようにも聞こえた。


 ミアの目の奥に、毒々しい怒りだけではない光が差す。

 それが何なのか、私には分からない。けれど、見限ると決めた者の目には見えなかった。


「――ただ、私は気が変わったわ」


 ミアは私を見下ろしたまま、声を低く抑えて言った。そして横たわるミラクへと視線を落とす。


 だがミラクを一瞥してから、すぐに私へと目を戻した。


「お前の愚かな決断に、今回は乗ってあげるわ。……だけれど」


 一拍置いて、ミアは吐き捨てるように言った。


「……次はないわ。……せいぜい、目の前の一人に囚われて、本当に失いたくないものを見失わないことね」


「……!」


 そう言われて、私はハッとする。

 ミラクに死んでほしくない――それは、きっと本心だ。


 だけれど、それ以上に。

 

 ラキが伏せた顔も、ラナの怯えた目も、痛いほど焼きついて離れなかった。


 ――私、ラキがそっけなくて……寂しいって思ってしまったんだ。私のほうが、ラキに寂しくて辛い思いをさせてしまったかもしれないのに。……勝手だ。


 ……あの二人が、傷ついて離れていくことの方が、ずっと怖い。

 ラキとラナを失うことが、何よりも怖い。


 ……それなら、私が一番に考えないといけないのは――。


「失ってから気がついても、取り返しがつかないのよ」


 ミアはもう何も言わなかった。ただ、ラキとラナが消えていった森の奥を、一瞬だけ冷たく見やった。

 私はその視線の先を追う。


「私が大切なのは――」


 私が今、一番大切な人。一番、守りたい人。そばにいてくれないと、嫌な人。

 名前を呼ぼうとして、声が詰まった。だけれど、答えはもう出ている。


「――ラキと、ラナよ」


 私はようやく、そんな当たり前のことからも目を逸らしていたのだと知った。


 ラキとラナと出会ったときのこと。二人が一緒に来てくれたこと。一緒にいて、優しくて、楽しい気持ちになれた。たくさん、助けてもらって、たくさん、一緒に考えてきた。……でも、たくさん、傷つけてもしまった。

 二人との思い出が、頭の中に浮かんでは消える。

 

 ――もっとラキとラナと話をしたい。二人が考えていることを、もっと知りたい。……二人と、もっと心を通じ合わせたい。

 ……私、二人と一緒に、未来を生きたいと思ったのに。二人のこと、全然理解しようとしていなかった。

 でも、今ならきっと、まだ取り返しがつく。手遅れになる前に、行動して……ちゃんと、伝えないといけない。


 ミラクを理解したい気持ちだけではない。

 ラキとラナへのこの気持ちも、今一番に向き合うべき……私の、本心なんだ。


 ――もう、どちらからも目を逸らしはしない。


 朝の冷たい風が吹き抜け、血の匂いが少しだけ薄くなる。木々が揺れる音がやけにはっきりと聞こえた。


 震える息を吐きながら、地面に横たわるミラクと、ラキとラナが消えていった森の奥とを、交互に見つめた。

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