第87話 告解
ラキの赤い目が、私を射抜いている。
肩を掴む手に力が込もっていく。痛いくらい強いその力が、闇に沈みそうになる私の意識を、現実へと引き戻していく。
……ああ。
私は、帰ってきたんだ。
ライトの血の匂いに引き寄せられて、ライトの死体を見つけて、土を掘って、埋めて。
槍を、ライトのところに置いてきて。
それでも、私はここに戻ってきた。
……戻ってくることができた。
「槍なら……ライトのところに、置いてきたわ」
掠れた声で、ようやくそれだけを言った。
ラキの眉が、ぴくりと動く。
「置いてきた……?」
「……うん」
ラキは息を詰まらせた。目を閉じて、唇を噛み締める。
そして目を開いて、私を見た。……何かを堪えているような、揺れる目で。
「詳しいことは……今はいい」
ラキの優しい声に、喉の奥が詰まる。また涙が出そうだった。
「……よく帰ってきたな」
肩にあったラキの手から、力が抜けた。
肩から腕を離して、私の首の後ろに両手が回る。
「……うん。ただいま」
抱きしめられているんだと少し遅れて気がついて、私もラキの背に腕を回した。
「……サキ、さん?」
そのとき、扉の奥から、ラナの声が聞こえた。
顔を上げると、ラキの肩越しに、ラナの姿が見える。
ラナは寝台から起き上がったばかりなのか、ぼんやりとした目で扉の手前で立ち止まっている。
まだ顔色は万全とは言えないけれど、その瞳が、私を捉えた瞬間に揺れた。
「サキ……っ、さん……!」
ラナは駆け寄ってきて、私の腰に抱きついた。
「……サキさん、ちゃんと……ちゃんと帰ってきてくれて、よかった……!」
ラナは、私にしがみついたまま泣いている。
私はラキから片腕を離して、ラナの背中をそっと撫でた。
……私は、帰ってきた。
ライトのところから。
ここに。
ラナの縋るような細い腕の力を感じながら、私はようやく口を開く。
「……ただいま」
短く、それだけ。
それ以上の言葉を、私はまだ持ち合わせていなかった。
「おかえりなさい……!」
ラナの声は震えていた。
その震えは、肩を伝って私にも届く。
ラキとラナ。
大切な二人の温もりに包まれながら、私は思った。
……この二人を、また暗闇に落としたくない。
そのために……自分が何をするべきなのかを、考えていた。
**
基地の中の小さな広間。
木で作られた卓に、ラキとラナと、私は座っていた。
ミアとレーシュは、奥の部屋でミラクを見ている。
私はまず、都からの帰り道でサリィと出会ってしまったことから話した。
……そして、ライトの元へ行くように言われたことを。
「だから……ライトを……埋めてきたの。森の奥に……その、ちゃんとしたお墓なんて、作れなかったけれど……でも、あのままには、できなかったから」
私の口から零れたその言葉に、ラナの肩が、震えるのが分かった。
「……っ、ライトさん……」
ラナの目から、ぼろぼろと涙が落ちた。
「ごめんなさい、私っ……ライトさんのこと、そんなにたくさん知っているわけじゃないのに……でも、サキさんが……そんな顔をするくらい、大事な人だったんだって思うと……っ……」
ラキは、ずっと黙って聞いていた。
話し終わってしばらく、ラキは口を開かなかった。
組んだ両手が、机の上で固く握られている。
「……サリィが言っていたことを、もっと詳しく話さないといけないわ」
私は続けた。
サリィの片腕がなかったこと。サリィがミラクを殺すと言ったこと。
帝国は、もう保たないこと。ユリアナが、皇帝を殺したこと。
……サリィが、ミラクを探していること。
それを話したとき、ラキの目が、わずかに見開かれた。
「……皇帝が殺されて、帝国が滅ぶのか? いや、それより、サリィがあいつを探しているだと……?」
ラキは眉を寄せた。サリィとは私たち全員、暗殺部隊の砦で対峙している。ラキは、私ほどはサリィとライトのことを知らないから……納得しづらい部分があるのかもしれない。
「……それで」
ラキの声が、少し低くなる。
「サリィが基地に来る可能性は」
「すぐには、ないと思う」
私は息を整えて、続けた。
「場所は知らないはずだし、私を追えばミラクに辿り着けると分かっていたはずなのに――追ってはこなかったから」
言いながら、改めて気づく。
「……まさか、ミラクが完全に私たちと行動を共にしているとは、思っていないのね」
「……そうか」
ラキは小さく息を吐いた。
しばらく、何も言わなかった。
組まれていた両手の指が、ゆっくりと解ける。
「サキ」
名前を呼ぶ声が、ひと回り、低くなった気がした。
今までの、情報を分析していた冷静な声ではない。
「お前、ライトの……埋葬を、一人でやったのか」
ラキの赤い目が、まっすぐに私を見ている。
「……そうよ」
「血の刃で、土を掘って」
「……うん」
「ライトの身体を、運んで」
「……うん」
「……」
ラキは何かを言いかけて、口を結んだ。
顔の片側に手を当てて、目を伏せる。
「正気か」
絞り出すような、低い声だった。
「お前さ……ライトが死んでて、その目の前で、それを……ひとりで、ぜんぶ……」
ラキの言葉は、途切れた。
握っていた拳が、机を一度、強く打つ。
「……無理だろ」
ラナがびくりと肩を揺らした。けれど、ラキはラナの方を見ない。
ただ、私だけを見ている。
「……サキ、お前、本当に大丈夫なのか。……なぜ、そんなに普通に話せているんだ……?」
その声は、責めているわけではなかった。
怒っているわけでもない。
ただ、信じられないものを見てしまったような、そんな声だった。
ラキはいつも、私より先に物事を見抜く。
私が隠そうとしていることも、私自身が認めたくないことも、嫌になるくらい見透かしてくる。
だから、今もきっと、分かってしまったのだろう。
私がどういう状態で、ライトを埋めたのか。
どれほど正気ではなかったのか。
「……大丈夫なわけ、ないわ」
言った瞬間、声が震えた。
ラキの目が、わずかに見開かれる。
「大丈夫なわけないじゃない……! 寂しいに、決まっているわ……!」
言葉にした途端、抑えていたものがまた溢れてくる。
泣きたくなかった。
泣いたら、また立てなくなってしまう気がした。
でも、涙は勝手に頬を伝った。
「寂しいに、決まっているじゃない……」
喉が痛い。
息がうまく吸えない。
ラキは何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
強くて、鋭くて、でも今は、どこか痛そうな目で。
「……でも」
私は、涙で滲む視界の中で、ラキを見返した。
「目を逸らさないって、決めたから」
声が震える。
それでも、言葉は止められなかった。
「悲しいっていう気持ちを……ちゃんと認めた上で、それでも……悲しいことに、向き合わないといけないから……! ライトが死んだことも、私が何も返せなかったことも、もう会えないことも……全部、見ないふりなんて……できないから……!」
そこまで言って、息が詰まった。
……本当は、逃げたい。
何もかもから目を逸らしたい。
ミラクの手を取って、暗い闇の中で何も考えずに堕ちてしまいたいと思うくらいには、私は弱い。
それでも。
ライトを埋めた手の感触が、まだ残っている。
湿った土の冷たさも。
槍を墓標にした時の、あの重みも。
それをなかったことには、できない。
……受け止めて、進まないといけない。
「……サキ」
低い声が、名前を呼んだ。
次の瞬間、ラキの腕が私の背中に回った。
強く、抱きしめられる。
「……お前のそういうところは、本当にすごいと思う」
ラキは、ぽつりと言った。
「……でもな」
ラキは、背中に回した腕に、少しだけ力を込めた。
「一人で抱え込まなくても、いいんだ」
「……っ」
肩口に、ラキの息が触れた。
ラキの体温が近い。
ラキはただ、私が立っていられるように、私の背中を支えていた。
……ラキの心臓の音が、聞こえる。
……ラキの服から、土と、汗と、かすかな血の匂いがする。
……ラキの、匂いだ。
それだけのことで、呼吸が楽になった気がした。
だけれど安心したせいか、涙がまたぼろぼろと溢れてきた。
ラナも、椅子から立ち上がって、私の腕に縋りついて泣いていた。
……私は、堪えていたものをすべて、ラキの肩に押し付けるように、泣いた。
どれくらい、そうしていたんだろう。
ラキは、私の身体を少し離して、両肩を両手で掴む。
目線が合う。ラキの目は、いくらか濡れていた。
……ラキも泣いてたんだ。
「俺も、サキの気持ちを……一緒に、背負いたい。泣きたいなら、いくらでも泣いていい。俺が……隣にいるから」
言い切ってから、ラキは、ふと、視線を落とした。
「……俺が言えたことじゃないかもしれないけどな」
……ラキは、ずっと、一人で抱えていた。
ミラクの記憶を、ミラクの気持ちを理解してしまったことを、ラキは私に話してくれたばかりだ。
……一人で抱え込まないでほしい、というのは。
……たぶん、ラキ自身も、そうしたかった言葉なんだ。
また、嗚咽がこぼれそうになる。
ラキは何も言わずに、私の背中を撫でていた。
「……ありがとう、ラキ」
やっと、声が出た。
ラキの目をまっすぐ見ながら伝える。
「ラキがいてくれてよかった」
言いたいことは、たくさんあるはずなのに、出てくるのは、こんな短い言葉ばかり。
「……私、ラキのことが、本当に、大切」
言ってから、自分の頬が、熱くなるのが分かった。
ラキは、何も言わなかった。
ただ、私の背を抱く腕が、ほんの少しだけ、力を増した気がした。
……沈黙が、降りる。
ラナのすすり泣きの音だけが、部屋に響いていた。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
「……」
――それなのに、なぜだろう。
目の奥がちくちくするような感じがして、ラキから思わず、目を逸らしてしまった。
……なんで、私はラキの目を、まっすぐに見ていることができないんだろう。
……もしかして……私、ラキに関することで……何か、目を逸らしているのかな。
でも今は、それを考えるより先に、しないといけないことがある。
……ライトのこと、サリィのこと。私が知ったことは、ミアとレーシュにも伝えないといけない。
……それに、サリィがミラクを殺しに来ると言ったのは、何より、あの二人に関わる話だから。
私は、ラキの肩からそっと手を離した。
頬の熱が、まだ引かない。それでも、椅子から立ち上がる。
「……奥の部屋に行ってくるわ。ミアとレーシュにも、サリィのことを話さないといけないから」
声は、まだ少し掠れていた。それでもどうにか、形になった。
「……俺も行くか?」
ラキの問いに、私は首を振る。
「……いいわ。ミアと話すのは、きっと私が一人で行ったほうが、いいから」
ミアは私の母を知っている人。……ラキを連れていったら、ミアはきっと、別の顔をする。私一人で受け止めるしかないことが、ミアにはある。
ラキは少しだけ眉を寄せたが、すぐに頷いた。
「……分かった。俺はこの基地に避難している人達の様子を見て、サキが持ち帰った情報を話をしてくるよ。……混乱を避けるため、すべては話せないがな」
「……そうね、お願い。そのあとは、ラナのそばにいてあげてね」
「……もし何かあればすぐ呼べ」
「うん。……ありがとう」
ラナは椅子に座り直して、両手で目元を拭っていた。私が立ち上がったのを見て、潤んだ目で見上げる。
「……サキさん」
「大丈夫よ。話をするだけだから」
短く答えて、私は広間を出た。
奥の部屋へ続く廊下は、夕暮れの薄明かりに沈んでいた。
**
奥の部屋の扉を開けた瞬間、夕方の薄い陽の光が、部屋の中に満ちているのが分かった。
古い砦の窓は小さい。窓辺に立つミアは、その小さな日差しすらも避けるように、影の中にいた。
「……戻ったのね、サキ」
ミアは振り返らないまま、そう言った。
部屋の片隅では、寝台の傍らにレーシュが座っていて、その寝台の上には――ミラクが、横たわっている。
手足を赤黒い影で縛られたまま。目を閉じて、微かに胸を上下させているだけのミラク。
……生きてはいるみたい。
心臓が、ほんの少しだけ、跳ねた。
生きていて欲しいとは思っていたけど……実際に体験してみると、ミラクについてならこんなに簡単に騒いでしまう鼓動が、少し嫌になって、私は奥歯を噛む。
「サキ……お帰り、なさい」
レーシュが、こちらを見て言う。紫の目に、少しだけ安堵が浮かんでいた。けれど、すぐに、その目の奥は曇る。
……たぶん、私の血と土に汚れた姿で、何かあったことを察したんだと思う。
「……ミラクの容体は?」
言葉が、自分でも驚くくらい、平坦に出てきた。
「峠は……越えた。心臓の傷は、ミア様の影が縫合の代わりみたいに塞いでくれている。あたしも薬は使ったから……死にはしない。……でも」
レーシュは目を伏せる。
「目を覚ますかは、本人次第」
「……そう」
私は、寝台のミラクから視線を外して、ミアに向き直る。
「……ミア。話したいことが、あるの」
ミアは、ようやく振り返った。
その顔は、要塞で再会したときよりも、さらに痩せて見えた。爛れた肌の傷も、まだ完全には引いていない。
「サリィに、会ったわ」
ミアの眉が、わずかに上がる。
「……森で。サリィは、もう片腕を失っていて。……ライトは、サリィに殺されたって」
言葉にする。
部屋の空気が、少しだけ重くなった気がした。
「ライトの遺体は、私が見つけて、埋めてきた。……間違いなく、ライトは……死んでる」
ミアの黒い瞳が、ゆっくりと細められる。
その目の中で、何かが揺らいで、すぐに収まった。
「……そう」
ミアの声は、思っていたよりも淡々としていた。
「……要塞で私を逃がしておきながら……あの男は――かつて英雄だった男ですら、生き残ることができなかったのね」
ぽつりと言って、ミアは小さく息を吐いた。
その声は微かに震えていたけれど、それが悲しみによるものなのか、高揚によるものなのか……私には判別がつかない。
「それから、サリィは……」
私は続ける。
「ミラクを探し出して殺すつもりだと言っていたわ」
「……」
レーシュが、寝台の傍らで、小さく息を呑むのが分かった。
紫の瞳が、わずかに見開かれている。
「サリィ……」
レーシュが呟いた。
「……あの人は、あたしを……逃してくれたの」
私は、レーシュを見る。
「好きにしろって。……あたしは、フィロンの遺志を継ぐって決めていたから、サキたちのところに来た。……でも、まさか、あたしがここでミラクを匿うことになるとは、サリィも思っていなかったはず」
レーシュは俯く。
「サリィがここに辿り着いたら……あたしには、止められない。……どうなるかは、あたしにも、読めない」
その声には、サリィへの単純な恐怖だけではない、別の感情が滲んでいた。育てられた者が、育てた者へ向ける、複雑な何か。
ミアは、ずっと黙ったまま、レーシュの言葉を聞いていた。
そして、寝台のミラクへと、視線を移す。
「サリィが、ミラクを、ね」
ミアは、誰にともなく呟く。
「……ねえ、サキ」
ミアの目が、こちらを向いた。
「ミラクは、サキの手で殺すべきだと思うわよ」
その言葉に、私は身体を硬くする。
……ミアは前にもそれを言った。要塞での朝、跪かせたミラクを差し出した時に。
「だけれどね」
ミアは、自分の傷ついた両手を、軽く広げてみせる。
「私が手を貸すのは、ここまでよ」
……え。
私は、ミアを見つめ返す。
「ユリアナが皇帝を殺し、ライトが本当に死んだのなら……帝国が崩れるなら、私にもやることがある」
ミアの声は、いつの間にか、確信のようなものを帯びていた。
「セレスティアと夢見た世界。……反乱軍の敗北と、フィロンの死で、もう叶わないと思っていたわ。……でも」
ミアは、影の中で、わずかに笑った気がした。
「英雄が死に、皇帝が死んだなら――この国は、いよいよ、混沌に飲まれる」
その言葉に、私は冷たいものが背筋を伝うのを感じた。
ミアの言うことに、嘘はない。
……ただ、その先で、ミアが何をするつもりなのか――そこまでは、私には読めなかった。
「……ミア」
私は、思わず一歩踏み出していた。
「ここを、出ていくつもりなの?」
「ええ」
あっさりと、ミアは答えた。
「ミラクの始末は、サキ、お前が付けなさい。私はもう、お膳立てはしない」
ミアは寝台のミラクを一瞥して、それから、私のところまで歩いてきた。
ミアの目が、私の目を覗き込む。
……前にも、こんなふうに見られたことが、ある。要塞で、初めて二人きりで話したときに。
「セレスティアの娘」
ミアは小さく言った。
「いずれ私が創り出す修羅の世界で、また会いましょう」
ミアは、私から目を逸らさないまま言った。
「……ミア」
私は、何を言えばいいのか、分からなかった。
ミアを引き止めたいのかどうか、自分でも、はっきりしない。
……ミアは、私の母を知っている、唯一の人。
……でも、ミアは私たちの味方だったわけではない。最初から、ずっと。
「……いつか、また会えるかしら」
やっと、口から出てきたのは、そんな間の抜けた質問だった。
ミアは、少しだけ目を細めた。
その表情が、笑みなのか、苦みなのか、私には、やっぱり分からない。……ただ、いつにも増して毒々しさの滲んだ表情だった。
「さあ……それは、お前が切り開く道次第」
それだけ言って、ミアは私の横を通り過ぎる。
部屋の戸口で、一度だけ、立ち止まった。
「……ミラクを殺し、過去に区切りをつけて、新たな道を……修羅の世界を生き抜く覚悟ができるかどうかよ」
私は、振り返ってミアの背を見た。
ミアは、こちらを振り返らない。
「……最後にもう一度だけ言うわ。お前が、あれと本当に向き合いたいのなら――他の誰でもなく、お前自身の手で、終わらせなさい」
ミアの声が、扉の向こうに消えていく。
……扉が、閉まる。
軽い足音は、廊下を遠ざかっていって、やがて、聞こえなくなった。
部屋には、レーシュと、寝台のミラクと、私だけが残された。
**
夜が更けるまでに、レーシュと話したことは、多くなかった。
ミラクの容体のこと。サリィに備えて、基地の周りに何かしらの仕掛けをすべきかということ。ラナの体調のこと。
レーシュは、淡々と必要なことを答えてくれた。
ミアが去ったことについては、最後まで、何も言わなかった。
ただ、ミアが座っていた窓辺を、時折、視線で確かめるように見ているのに気づいた。
「……あたしは、少し、休むね」
夜半過ぎ、レーシュは小さく言った。
「ミラクは縛ってあるし、薬で眠ってる。……でも、念のため、サキ、見ていてくれる?」
「……わかったわ」
レーシュは寝台の脇の長椅子で、毛布を被って眠った。
……それで、部屋には、ほぼ私とミラクの、二人だけになった。
私は、寝台の脇に椅子を寄せて、ミラクを見つめていた。
縛られた両腕。微かに上下する胸。閉じたままの瞼。
……いつもの、私を弄ぶようなあの目つきが、今は、見えない。
ミラクの黒い髪が、寝台に広がっている。
頬は痩けて、唇は乾いている。
「……」
……ミラクは、ずっと私を殺そうとしていた。
私も、ミラクを殺そうとしていた。
でも……私は、殺し切れなかった。死んでほしくないと願ってしまった。
……ミラクは……ライトを、死へと追いやった。
私を……絶望させるために。……そんなことのために……ライトを死なせてしまった。
でも……それでもなお……私は、ミラクを殺そうとは思えていない。
今、意識を失っているミラクを見て……胸を締め付けられてすらいる。
ミラク……私たちは、根本的なところは同じなのよね。
制御のできない欲求を抱えながら、ただ、それでも差す……微かな光に、縋りながら生きるしかない。
ミラクは……ずっと、終わらない暗闇の中……私と繋がろうとしていた。
私も……ミラクを憎みながらも、殺したいとさえ思いながらも……ミラクのことをもっと知って、理解して……もっと……私を見て欲しいと思ってしまった。
もっと……ミラクを見つめていたいと思ってしまった。
……たぶん、だから私は……「死んでほしくない」と願ってしまった。
窓の外は、もう、すっかり夜だった。
基地の中もしんと静まっていて、たまに風で何かが軋む音だけが、廊下の向こうから流れてくる。
私は、ミラクを、ずっと見ていた。
……何を考えていたんだろう。
たぶん、何も考えていなかった。
ただ、ミラクの顔を見ていて、胸の中で、何か、自分でもよく分からないものが、ゆっくりと動いていた。
憎しみと、未練と、もう一つ――名前のつかない、執着のような何か。
――ピクッ
ふいに、ミラクの瞼が、微かに痙攣した。
「……っ!」
私は、息を止めた。
気づけば、椅子の縁を掴む手に力が入っていた。爪が木目に食い込む。
でも、ミラクは目を開けない。眉を寄せただけで、また、静かな呼吸に戻った。
……夢の中で、何かを見ているのかもしれない。
心臓が、私の胸の奥で、強く打っていた。
……でも、それは、温かい高鳴りではなかった。
冷たくて、ざらついた、嫌な高鳴り。
……ラキに抱きしめられたときの、あの心臓の動きとは、全然、違う。
私は、ふと、思い至る。
ラキに抱きしめられた瞬間。
ラキの胸に額を押し付けたときの、息ができるようになった感覚。
ラキの心臓の音が、早かったこと。
ラキの匂いに、私の身体の力が、抜けたこと。
ラキが、私の肩を両手で掴んで、目を合わせてくれた瞬間。
……あの瞬間に、私の中で、何が動いていたんだろう。
……ラキへ抱くこの気持ちが、何なのか。
胸の熱の正体が、何なのか。
……答えは、もう、出ているのかもしれない。
ただ、それを口にすることが、私は、まだ怖い。
言葉にしてしまったら、もう戻れない。
……それに、ラキは、なんて思うんだろう。
ラキは、私を、どう思っているんだろう。
ライトが死んだばかりの今、私が口にすべきことなんだろうか。
……ラキにとっても、今そんな話をされても、困ってしまうんじゃないか。
ぐるぐると、考える。考えるほど、結論からは離れていく。
……でも、ふと、思う。
ミラクは、目を覚ましたら、また、私の感情を弄ぶつもりでいる。
その時、私は、何を持って、ミラクの前に立つんだろう。
……ラキへの気持ちを、誤魔化したままで。
ラキは、私の隣にいてくれているのに、その隣にいる意味を、私が言葉にしていないままで。
……そんな半端なままで、立ち向かえるの?
短くなった髪が、首筋に触れる。
……ライトの墓の前で、私は、目を逸らさないと、もう一度決めたんだ。
――ラキ。
出会ったときから、今までのことを思い浮かべてみる。
……森の中で初めて手合わせをした日の、双剣の音。
『……俺は、お前と旅に出る。そう決めた』って、まっすぐに伝えてくれたこと。
酷い目にたくさん遭ったのに……西部に帰る選択肢もあったのに……私のそばにいることを選んでくれたこと。
砦で……ミラクと再会して……絶望に呑まれそうになったとき、ラキは私を一人にはしないと言ってくれた。
……戦場で血に酔って我を失いかけた私に、ラキは自分の腕を傷つけ、血を差し出してまで、正気を取り戻させてくれた。
……噴水の水の中で、ラキの血を吸ったときの、あの熱。あれは吸血だけじゃない何かだって……本当は、あの時から気づきかけていたんだ。
――昨日、ライトを埋めて戻ってきた私に、ラキはまた言ってくれた。……隣にいる、って。
ずっと……ラキは私に寄り添ってくれた。
私が誤魔化したり、目を逸らしたりしようとしても……ラキはちゃんと私を見つめてくれた。
そして、今……私も、ラキを見つめていたいと……そう思う。
やっぱり……私のこの気持ちは、間違いない。
こんなときに、こんな気持ち……本当は、抱いてはいけないのかもしれない。
胸の奥が熱くなるのを感じて、私は拳を強く握りしめた。
――でも、もう、私……この気持ちを誤魔化せない。鼓動の高鳴りを、抑えられない。
……認めてしまったせいか……気持ちは、高まっていくばかり。まるで火がついて燃え広がっているみたいで……もう、止まりそうにない。
「……」
――ラキ……今、避難してきたみんながいる大部屋にいるかな。
顔を上げる。窓の外の闇は、ほんの少しだけ、薄くなり始めていた。




