09 The Needle Lies-1
■9月4日②
会場はホテルの3階だった。初めて入るイベントホールの天井の高さに、ニコは驚く。準備されている料理よりも先に、シャンデリアを見上げる。
よくわからない人たちのよくわからない挨拶を聞き流し、明日のイベント参加者の紹介に入る。もちろんニコもだ。
たどたどしい挨拶をすませ、早々にマイクをスタッフに返す。
オレンジジュースで乾杯をしてやっと落ち着く。
「早く行こ。肉がなくなるわ」
アシュリーが急かす。ローストビーフを真っ先に取りに行く。
初めて食べるホテルの食事は、思っていたよりも”普通”だった。ニコはもっと豪華さが前面に出ているものだと想像していた。ただ、手のかけ方が違っている。
少し酸味のある、上品な味。いつものダイナーで出す料理とは、味の重なり方が違うことが衝撃だった。
「美味いね、これ。肉もだけど、このソースは初めてだ」
「ああ、オレンジソースね。私も好き。後でもう一回取りに行こうか」
一通りのメニューを味わったあたりで、少しずつ二人のテーブルに挨拶に来る大人たちが増え始める。
常連の入賞者と、囲碁歴わずか3か月の新人と。特にニコは、エキシビジョンにも選ばれている。どういう知り合いかと、出席者たちの興味を引いたのだろう。
手慣れた様子で挨拶をするアシュリーに感心してマネしようとはしたものの、やはりすぐに慣れることはない。
戸惑っているニコを気遣い、アシュリーはそっと囁く。
「大丈夫? トイレでも行くフリして、少し逃げてたら?」
「ん、ごめん、少し休憩してくる」
アシュリーの助けに素直に頷いたニコは、ふらふらしながらホールを出る。重たい扉をそっと閉じた瞬間、あれだけざわついていた音たちが、嘘のように遠くに消える。
廊下のふかふかした絨毯を踏みしめながら、ニコはトイレと逆方向へと歩いていく。
少し離れた、夜景が見えるロビー。ニコはソファにだらりと体重を預け、背伸びをする。自然にあくびが漏れた。
「はあ、あんなに話しかけられるとは思わなかった」
考えてみれば今日は一日中、人の中にいる。砂漠育ちのニコにとっては、異常なことだ。おまけに朝から対局で、脳みそも動きっぱなしだ。
料理も美味しかったけれど、腹に詰まっている感覚は薄かった。
「やっぱりコークとハンバーガーだな。あれが一番楽だ」
頭に浮かんだのは、数年前に母と寄ったイン・ナウト・バーガー。パメラの友人に会いに行った帰り道、夜のがらんとした店内で食べたハンバーガーだ。ニコは未だに、あれより美味いバーガーを食べたことはない。
前から和服姿の日本人が歩いてくる。角巻伊織だ。
「やあ。君、ニコ・テイト君だよね」
「はい。ええと、角巻プロですね、よろしく」
「普通に、”角巻さん”とかでいいよ。アメリカまできてプロだとか段位だとか呼ばれるのも、窮屈でねえ」
立ち上がろうとするニコを、角巻は軽く笑いながら手で制止する。
「ああ、いいよ、そのままで。どうせ君も堅苦しいのが苦手で、抜け出してきたんじゃない?」
「慣れてないんだ、人が多いところ」
ニコは苦笑いで応じる。角巻も同様に笑い返し、隣のソファに腰掛ける。
「あはは、実は僕もなんだ。あ、明日はよろしくね。楽しみにしてるよ」
「こちらこそ」
ニコは閉会式の時の、角巻の視線を思い出していた。あの針のような視線を。
自分に何か用なのだろうか、それとも、本当にたまたま出会っただけなんだろうか。
角巻は言う。何かに気遣うような口調だった。
「もしよかったら、少し話でもしないかい? なんか君、いろいろ考え事してそうだったからさ」
「ああ、そりゃ考えるよ。いきなりエキシビジョンに選ばれるなんて、思ってもいなかったから」
「いや、ちがうちがう。そうじゃなくて、もっと後ろ向きなやつ。たとえばほら、――人生とか」
角巻はぼかすように言った。
ニコは反射的に、メーガンの言葉を思い出した。アシュリーのこと、自分の将来のこと。そしてカホン・パス(※1)を越えてから、故郷のモハーヴェの見え方が変わってしまったこと。どれもこれも、すべてこの3か月に起きたことばかりだ。
ニコは答える。自信なさげに。
「ええと、まあ、はい。――でも、どうして? そんな不安そうな顔をしてたかな」
「そこはまあ、僕は棋士だからね」
「?」
ニコは角巻の言葉が理解できない。棋士と自分の悩み事とが、どうつながるのだろうと。
角巻はニコの疑問に気付いているのかいないのか、話を変える。
「君の友人、アシュリーさんね。彼女が君のことを色々話してたよ。囲碁を始めてたった3ヶ月なのに、すごく強いって。ものすごく褒めてた」
「ありがとう。でも、今日はさっぱりだった」
「しかたないよ。君、ずっとネットで打ってたんだろ。どう? ネットと対面、けっこう違うでしょ」
「けっこうどころか、全然だ。指も重たいし」
「だろ? 僕らプロでも、ネットで打つのと盤を挟んで対面で打つのとじゃ、全然感覚が違うからね」
「慣れてても?」
「そう、慣れてても」
「変だよね、囲碁は囲碁だってのに。僕は、慣れさえすれば、盤面と時計だけに集中できるものだと思ってた」
「ん? ああ、それはちょっと意味が違う。もちろん盤面が一番なんだけどさ。目の前の人間のことも、けっこう見てるもんなんだよ」
あいかわらず角巻の説明は、ふやけたベイクドビーンズみたいにつかみどころがない。日本人の話し方ってのはみんなこうなのだろうか、それとも彼だけなのか。確かめようもないけれど。
「人間って?」
「そうだねえ。相手が自信満々に、本とかで見たことがない手を打ってきたら、どう思う?」
「うーん、事前に調べてるんだろうなって思う。ちょっとやだね」
「でしょ? 逆に自信がなさそうにしてたら、正面から受けて立つかもしれない。表情だけじゃなくてさ、お茶を飲む仕草とか、落ち着きなく座り直したりしてるとか。まあ、見てるってよりも、気付いちゃうって言った方がいいかもしれないけどね」
「態度から、感情みたいなものを、見てるってこと?」
「そうそう。だからきっと、君が悩んでるなーってのも、なんとなくわかっちゃうんだよ。たぶんね」
「へえ、そういうの気にしてるって、意外だな。……プロでも、対局中に緊張して、息が苦しくなったりすることもある?」
「もちろん。僕だってタイトル戦のときは、心臓バクバクさ。でも、隠してる。ばれないように、必死でね。――君はもっと、盤上以外を見て打った方がいい。いや、こんなアドバイスは良くなかったかな」
角巻はいつの間にか手にしていた扇子で、口元を隠している。まるで、言い過ぎたと言わんばかりに。
会話が途切れる。
何気なく窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。ニコのよく知る派手なネオンの明かりは見えず、控えめで落ち着いた夜景が広がっている。
話を再開するきっかけを失ったニコは、ぼんやりと外を眺める。
遠くで警察のサイレンが聞こえた。次いで、廊下の向こうで数秒だけパーティーの喧噪が聞こえ、すぐにまた静かになる。
エレベーターの軽快なチャイム。男たちの話声。
ぱたぱたと軽い扇子の音。
僕はあのとき、アッシュを見ていた。スクリーンの盤面と、アッシュを、繰り返し見ていた。
じゃあ、アッシュは何を見て打ってたんだろう。
見ていたはずなのに、思い出せない。そのときニコは初めて、本当に見るべきものを見ていなかったことに気付く。
「そういえば君さ、記憶力がすごいんだって?」
「あ、うん。でも――」
「びっくりしたよ。けど、それでわかった。なぜ君がそんなに強かったのか。うらやましいよ、本当に。僕は昔から物覚えが悪かったからね」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていなかった。
ニコの脳内にケヴィンの言葉がちらつく。ただ、頭をかき乱すほどではない。その棘は以前よりも、ずっと小さくなっている。
ニコは、角巻にひとつの質問をぶつける。
「例えば、――例えばだよ。僕が過去の棋譜を、すべて完璧に覚えてたとする。僕はその通りに打つ。相手が受ける。僕はその手を元に、過去の同じ棋譜を探して手を選ぶ。……僕だけが結果を知って、手を選んでる。それで、本当に碁を打ってるって言えると思う?」
角巻は目を細めて、腕を組む。そうだなあ、と言いながらしばらく考える。
「相手が僕だったとして、だよ」と前置きし、角巻は答える。
「過去の棋譜とまったく同じだったとしてもさ、それは碁だよ。少なくとも僕は、碁を打ってるからね。碁は、二人で打つんだ。いくら君が記憶通りに打ったとしても、僕が考えた事実まで、勝手になかったことにしないで欲しいな」
「……わかった。じゃあ、僕については? 記憶を、本をなぞっているだけの僕は、碁を打ってるって言える?」
「それは自分で決めることだよ、ニコ。自分のやったことの意味は、他人に決めてもらうべきじゃあないと思う」
黙って考え込むニコ。ゆっくりと、言葉を選びながら説明する。
「僕も、考えることは大切だと思ってる。でも、決めるのは他人だと思ってた。だって、僕が何を考えてたとしても、心の中までは見えないから。それに、出来上がりが一緒だったとしたら、それは結局、同じことなんじゃない?」
角巻が思い出したのは、ニコが打った例の打ち込みだ。白の完璧な出来上がり図と、それに至るまでの手順前後と。
ただ、角巻はわかっている。ニコが欲しがっている答えは、それではないと。ニコの言葉を頭の中で転がしているうちに、ああ、そうだと思いつく。
角巻は優しく微笑んで、ニコに語り掛ける。
「ほら、サルでも無限の時間とタイプライターさえあれば、シェイクスピアが打てる(※2)っていうじゃない。……この話は知ってる?」
「ええ、まあ、一応」
「シェイクスピアどころか、もっと上質な作品が書けるかもしれないよね。すごいよね。それに倣うと、僕らだって無限の時間さえあれば、サルに負けちゃうわけだよ。人間のプロが、ね」
「はあ……」
「じゃあ、そのサルは、偉いと思うかい?」
「ええと、それは」
ニコは言い淀んだ。偉いとも、そうでないとも、判断がつかなかった。
「シェイクスピアが書いたお話だって、それと一緒だ。ただ猿よりは少し、運が良かっただけ」
「ずいぶん乱暴な話に聞こえるけどな」
「あはは、ごめんね。でも、確かに乱暴だよね。でもさ、これってあくまでも”書く”までの話だろ。実際はそれを読んで感動した人がいて。劇にして演じたり、研究したり。影響されて、自分でもお話を作ったり。そういうのの積み重ねで、芸術だって呼ばれるようになったんじゃないかな。作者が作れるのって、たぶんその作品の半分でしかないんだよ。残り半分は、受け取った側の問題」
「でもそれは、シェイクスピアだからだよ。棋譜でも同じことが言える?」
「君だって、友達と打った大切な棋譜ってあるだろ。他の人にはなんでもなくても、君にとって大切な棋譜が」
ニコはあの日、アシュリーが帰る前日に打った局を思い出す。この3か月、寂しくなったら並べていた、あの棋譜を。
「そう……ですね、そうかもしれない」
廊下の向こうで、スーツ姿の男性が角巻を探している。いつの間にか、かなりの時間が過ぎていた。
角巻は立ち上がると、申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、もう行かないと。実は君とは、ゆっくり話してみたかったんだ。楽しい話ができてよかったよ、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「じゃ、また明日ね」
「あ、はい。――あの!」
ニコは立ち上がり、角巻に向き直る。まっすぐに角巻の目を見て、頼み込む。
「明日の手合い、置石なしで打てる?」
「別にかまわないけど、どうして?」
「本気で勝ちたいんだ。今の僕が一番力を出せるのは、たぶん互先だと思うから」
「なるほどね。確かに君なら、そっちの方が強いかもしれないね。いいよ、一番いいと思ったやり方で、やってごらん」
戦う前に、戦い方を考える。マーケットでアシュリーに教えてもらったことだ。
ここまで強く、何を差し置いても勝ちたいと思ったのは、初めてのことだった。
※1カホン・パス――ロサンゼルス北東にある峠、LAと砂漠地域との境目にあたる。
※2無限の猿定理――猿が無作為にキーボードを叩いたとしても、無限の試行回数があれば、いつかシェイクスピアと同様の作品が生まれる可能性がある、という思考実験。




