08 Word is all of us-3
■9月4日 ③
5戦目、ニコの最後の戦いが終わる。
「ありがとう」
「こちらこそ。強いね、君。若いのにずいぶん落ち着いた打ち方してる。かなり長くやってるんだろ?」
「いえ、三か月です」
「ははは、そりゃ来年には優勝できるな。応援してるよ」
相手は笑いながら答える。おそらくジョークだと思ったのだろう。それでもしっかりと、熱のこもった握手をしてくれる。
結果は三勝二敗。最終戦は切り合いからの激しい戦いになり、必死で読んだものの、ニコの攻め合い負けだった。
それでも最初の負けとは質の違う、悔いのない負けだ。悔しさはあるけれど、充実感はあった。
「や、ニコ。どうだった?」
「ああメーガン。3-2だよ。アッシュは?」
「それ、わざわざ聞く? 5-0。今、あっちで決勝ラウンドの説明やってるよ」
メーガンの指さす方では、スタッフらが簡易的なステージを設営中だった。
奥で数人のプレイヤーが、輪になり談笑している。もちろん、アシュリーも。
「決勝まで行けるかな?」
「余裕でしょ。コリンズと当たるのは最後だし」
「コリンズ?」
「知らない? 2年連続で優勝してんの。アッシュも2年連続で負けてる。今年は最後まで当たんないから、去年よりは運あんじゃない?」
メーガンの言う通り、アッシュは順当に勝ち上がっていった。そして、コリンズも。
決勝戦の直前、メーガンはニコに声をかけた。
「向こうのモニタで、プロが解説するってさ。行こうよ」
ニコは少し迷い、答える。
「いや、僕はここで見てる」
プロの解説は魅力的だったけれど、対局中のアシュリーの姿を見ていたかった。
「そ。じゃ、またあとでね」
メーガンは特に気にもせず、ニコから離れる。いや、メーガンなりに気遣ってのことだろうか。
ニコはステージ上のアシュリーを見つめる。パーテーション越しに、レモンティーのボトルを持ったアシュリーと目が合う。
軽く笑って、手を振ってくる。ニコも笑い返す。
直後、スタッフに声を掛けられ、アシュリーは席に着く。
決勝戦の時刻が近づく。スタッフが手元の時計に目を落とすと、会場のざわつきが収まっていく。
「時間です、どうぞ」
二人は目配せし、アシュリーがクロックを開始する。
黒のコリンズは星と小目に、アシュリーは両小目に構える。
黒のカカリに、アシュリーはコスミで受ける。固く打ち、ヨセの勝負に持ち込むつもりだった。
静かな立ち上がり。少しずつ辺が埋まっていく。アシュリーの狙い通り、どちらも弱い石のないゆっくりとした進行が続く。
コリンズが左辺の石を飛び、先手がアシュリーに回る。
アシュリーは時計と彼の顔とを見比べる。ようやく待った貴重な先手に、長考に入る。
アシュリーは上辺のカケを選ぶ、ここで上辺を制限しておけば、後は大きくなりそうな場所はない。
コリンズも無理せず、オシで受ける。足りると思っているのだろうか?
アシュリーはオシに手を抜き、右辺のツケを優先する。もし中央で頭を叩かれても、切れば戦えるという判断だ。
コリンズは少し考えて、中央をノビた。
(あ、ヤバいかも)
アシュリーに迷いが生まれた。
(だいたい負ける時って、ヤバい瞬間がわかるんだよねえ)
負けるときはいつもこうだ。慎重に打っていたつもりが、気づいたら泥沼の中にいる。幾つもある選択肢のどれもが、悪くなる未来しか見えてこない。
深く息を吐く。冷静に盤を見直す。今更中央には戻れない。
コリンズが手を抜いた右辺を打つのが普通だが、そこで下手に戦いを始めたら、中央のノビが効いてくる。
アシュリーは覚悟を決める。我慢するしかない。
大差がついたわけではない。数目の差だが、それでも重しには違いない。
アシュリーは逆転の一手への誘惑に耐える。
ここで焦っても、本当にダメにするだけだ。それはわかるが、苦しい選択だった。
アシュリーは経験で知っている。わかっている。負けているときにすべきことは、逆転の手を探すことじゃない。待つことだ。
普段よりもずっと、注意深く、慎重に待たなくてはいけない。
相手のミスを、食らいつくべき隙を、必ず機会がくると信じて、じっと待ち続けることだ。
劣勢の時、アシュリーはいつも、子供の頃に通っていたスイミングスクールを思いだす。
アシュリーは息継ぎが苦手だった。ずっと息を止めたまま、水から顔を上げるのを我慢して、泳ぎ続けるのだ。
囲碁には、水泳と違って相手がいる。顔を上げれば楽になるけれど、その時に相手より一歩でも前にいなければならない。
相手がどこまで泳いでいるのかは、わからない。隣なのか、後ろなのか。どこまで我慢すればいいかもわからないまま、泳ぎ続けるしかない。
冷たく重たい水が、喉を締め付けていく感覚に襲われながら。
黒の浮石をつながらせ、下辺で数目をもぎ取る。中央を固められ、先手のコスミを決められる。
胃が締め付けられる思いで、後手の守りを打つ。どうしても必要だと頭ではわかっているが、指がひどく重たい。
じりじりと、盤が狭くなっていく。
半コウを争いながら、何度も地を数え直す。
――終局。
結局、最後までチャンスは来なかった。
整地を終えたアシュリーは、天井を見上げる。
結果は二目半負けだった。
「また負けたわ」
「ありがとう、良いゲームだった」
「それはどうも」
アシュリーは心の中で毒づく。
(相変わらず、表情が変わんないのね。次に負けたら、石膏で固めて美術室に突っ込んでやるわ)
そのまますぐに閉会式が始まり、アシュリーは銀のトロフィーを受け取る。
笑顔でコメントを述べるアシュリーを、メーガンとニコは苦笑いで見ている。
「アッシュのやつ、ムカつきの絶頂だね。よく我慢してるわ」
「わかる。ブロッコリー食べてるときみたいだ」
「え、あいつ、ブロッコリー残すでしょ」
「母さんの前では食べてたよ」
「そりゃ初耳だわ。やっぱあんたのとこ、相当に気に入ってたんだよ」
照れるように笑うニコを見て、メーガンは言う。
「ねえ、ニコ。あんた、アッシュのこと好きなら、もっと行動したほうがいいよ」
「え?」
メーガンに、ニコを焚きつけるつもりはない。むしろ応援だったけれど、ニコにはまだ、その言葉を受け止める準備はできていない。
言葉に詰まるニコを、メーガンは見比べる。ハイスクール時代の自分やアシュリーと。自信の無さを瞳の奥に隠して、背伸びをして大人たちに並ぼうとしていたころだ。
「ええと、あんたくらいの年だとわかんないかもしれないけどさ。年齢差はあるけどね、あんたが思ってる以上に、アッシュはニコを気に入ってる。あいつ、わりと誘惑には弱いところあるけど、根はマジメだから。ちゃんと気持ち伝えれば、わかってもらえると思うよ。――たぶんね」
「いや、別に僕は――」
「一度、言葉にしときなって。後から絶対に後悔するから」
「……うん。ありがとう、メーガン。やってみる」
6月の旅行から戻ってきてから、アシュリーは明らかに変わった。ハマってたはずのポーカーはぱったり止めるし、夜に遊びに誘っても「また今度ね」だ。
その代わり、囲碁の勉強やら料理やら(これにはマジで驚いた)を始めたらしい。
やりたいことを見つけたアシュリーを、メーガンは羨ましく感じている。と同時に、親友にきっかけをくれたニコへの感謝も。
「――さて、最後になりましたが、明日のプログラムの紹介です」
司会者の声のトーンが変わる。
明日のエキシビジョンの参加者の発表だ。
まずは決勝まで残った、コリンズとアシュリーの名前が呼ばれる。
そしてマイクが角巻の手に渡る。
「えーと、次に、僕が会場を回って選ばせてもらった選手を4名、発表します。ライアン・ミラーさん。ティム・デイヴィスさん。リン・ウーさん。そして最後に、ニコ・テイトさん。以上4名ですね」
急に名前を呼ばれたニコは、驚いて顔を上げる。
「マジで? すごいじゃん、ニコ」
「ああ、僕もびっくりした」
ステージの上から目を離せないまま、メーガンに生返事を返す。
角巻はニコを見ていた。もちろんニコも。視線が交錯し、角巻が少しだけ微笑む。
「碁は自由だとよく言われますが、実際に自由に打って勝てるなら、苦労しませんよね。ははは」
観客たちから小さな笑いが漏れるが、彼は突き刺すような視線をニコから外さないまま続ける。
「特に驚かされたのは、対局経験の少なさを、棋譜を読むことでカバーしていた方ですね」
ニコの心臓が跳ねた。
彼は、自分に言っている。そう確信した。いつの間にか、右手で強くシャツの裾を握りしめていた。プリントされている、とぐろを巻いた蛇を。
「この後、エキシビジョン出場者は、パサデナ・グランドホテルでのレセプションに招待されます。係員の案内をお待ちください」
大会は終わり、ゆっくりと会場の熱が引いていく。
「や、アッシュ。おめでと。ニコも、明日はがんばって」
「ありがと、メーガン」
「じゃ。私、明日はデートだから。悪いけどもう帰るわ」
「うん。じゃ、また」
メーガンは軽く手を振ると、さっさと行ってしまう。
残された二人。ニコはあらためてアシュリーを祝福する。
「おめでとう、アッシュ」
「ありがと。ニコもね。正直、二人で明日に残れるとは思ってなかったわ」
二人は並んで、受付へと歩き出す。
「それなら、僕のほうがずっと驚いてる。レセプションも行くんだろ?」
「もちろん! あそこのホテル、けっこういいとこなのよ。ヤケ食いするには贅沢なくらいね」
スタッフが名前の書かれたカードを手渡す。
「ははは、それなら付き合うよ。昨日のアラビアータみたいに辛いのは勘弁だけど」
「じゃあ、肉ね。コリンズのぶんまで食べてやろうかな。きっかり1ポンドぶんね」
二人は歩きながらそれを首にかけ、会場を後にする。
「ワインはダメだよ、運転するんだし」
太陽はコンベンションセンターの背に隠れていた。涼しい風が吹いてくる。
「わかってる」
そう応えながら、アシュリーは乱れた髪を手で押さえた。




