07 Word is all of us-2
■9月4日 ①
翌日、アシュリーの運転で二人は会場に向かった。
パサデナ・コンベンション・センター。駐車場から会場までは、歩いてすぐだ。「パシフィック・ベット・オープン」と書かれた垂れ幕をくぐると、ニコは脊椎が締め付けられるように感じた。
緊張はあるけど、昨日のアシュリーの家で感じたものとは違い、前向きな緊張だ。
「ルールは?」
「持ち時間は30分だから、サイトで打つのと変わんないわ。スイスドロー5回戦、そのあと決勝ラウンド。日本のプロとのエキシビジョンもあるってさ。頑張って」
「あー、まあ最善は尽くすよ」
受付を済ませてホールに入る。すでにかなりの数の参加者が集まっていた。
慣れた様子で奥へと進むアシュリーだが、他の参加者に何度も捕まり、そのたびに笑顔で挨拶を返していく。
所在無さげにしているニコに、ストロベリーブロンドの女性が声をかける。
「や、あたしメーガン。あなた、ニコでしょ? アッシュがよくあんたのこと話してるよ」
「ああ。よろしく」
改めてニコの顔を見て、メーガンはつぶやく。
「ふーん、マジで年下だとは思わなかったわ」
メーガンはニコのシャツをじっと見つめている。
恥ずかしくなったニコは、慌てて言い訳をする。
「これなら、アッシュがもう着なくなったやつをもらっただけだよ。別に――、」
「ニコ、アッシュの好きなバンド知ってる?」
「いや、知らない」
「そ。ならいいわ」
メーガンの瞳は、ニコの脇腹にいるとぐろを巻いた蛇から離れない。
確か、メタリカって言ったっけ。もう数年前になるが、アシュリーに付き合わされてわざわざメルローズまで探しに行ったやつだ。
じきにアシュリーもこちらに気付く。
「ああ、メーガン。久しぶり。来てたのね」
「や、アッシュ。遅かったじゃん。あんた、男の趣味変わった?」
「は? いや、ニコは弟みたいなもんだって」
話してるうちに、時刻を告げるブザーが鳴る。
簡単な開会式が始まり、和服姿の日本人が紹介される。少しだけ周囲がざわつく。
「日本で活動してる、囲碁の、――そうね、IM (インターナショナル・マスター)よ」アシュリーが簡単に説明してくれたけれど、まだ碁を始めて数か月のニコには、いまいちピンと来ない。
ニコの耳に引っかかったのは、肩書よりも彼の言葉。
「どうも、角巻伊織です。立派な説明をされたけど、そんなたいした人間じゃありません。つい先日も、定石を忘れちゃって長考して……」
会場に小さな笑いが起こる。変な人だな、とニコは首をかしげる。そんなに強くても、定石を忘れちゃうのか。ニコは彼の言葉を頭の中で転がしている。
じきにスクリーンにペアリングが映される。アシュリーは「じゃ、私は向こうだから。頑張って!」と言い残し、さっさと行ってしまう。
一人になると急に寂しさがぶり返してくる。ニコは自分のテーブルを探すと、手持ち無沙汰に開始時刻を待っていた。
「や、調子どう?」
頭上からの声に、ニコは反射的に顔を上げる。
「どうも。緊張してる。こういう大会は初めてだから」
「そうなんだ。気楽にいこうぜ。チェスクロックの使い方とかはわかる?」
「大丈夫。チェスならやってた」
「オーケイ、じゃよろしく」
彼も椅子に座り、笑顔で挨拶する。ニコは素直に笑顔を返す。
間もなくスタッフから開始の合図があり、対局が始まる。
会場の静謐な空気は心地よかったが、対局が始まると一気に重たく、湿度が上がる。
ニコは自然と、ケヴィンのことを思い出していた。あれがニコにとって、最初で最後の大会だった。
胃が持ち上がる。風邪でもないのに喉が腫れあがり、酸素が入ってこない。
思考などする余裕はない。異常を訴える体を必死でなだめつかせることに、脳が削られていく。
相手が少し顔をあげ、ニコを見る。目が合う。ニコはすぐに視線を盤面に逸らす。
アシュリーの声を思い出す。
「ベーグル、もう一週間も食べてないのよ」
「ズルなんかじゃないわ、一緒よ」
「ペンネ・アラビアータ。美味しいよ」
少しずつ呼吸が戻っていく。
相手が小声で、そっと声をかけてくれた。
「大丈夫かい、きみ――」
「すみません。もう、平気です」
ニコはスミの石にカカリを打った。彼の目は見ないようにして、打ち続ける。
相手も何も言わない。心配はしてくれていたのだろうが。
「負けました」
ニコは静かに告げる。
「ありがとう、いい試合だったよ」
「ええ、勉強になりました」
「体調は? 必要なら先に医務室に行った方が――」
「もう、大丈夫。本当に」
実力が出せたとはとても言えない。むしろ、普段のニコからすると、酷い碁だ。
ただそれでも、最後まで逃げ出さず、打つことはできた。少しだけケヴィンの顔が浮かぶ。
心臓は少しだけ早くなったけど、もう、呼吸は乱れてはいない。
大会は午前のうちに3回戦を消化した。ニコは2勝1敗、まあまあのスタートだ。
「頑張ってるじゃん。正直、もっと苦戦すると思ってた」
ホットドッグを頬張りながら、アシュリーはニコを褒める。
「最初は緊張したけどね。アッシュは?」
「3-0!」
アッシュの口元は緩んでいる。ああ、これは聞いて欲しかったんだろうな、とニコは察する。
「決勝には行けそう?」
「余裕! あ、それよりニコ、気づいてた? 角巻プロがあんたを見てた」
「え、そうなの?」
「そ。3回戦の途中ね。面白そうににやけながら見てたわ。案外ニコもエキシビジョンに選ばれるんじゃない?」
エキシビジョンに選出されるのは、優勝者と準優勝者の二名。加えて、決勝ラウンドに残れなかった参加者からも数名が選ばれるらしい。アシュリーが言っているのは、後者の枠のことだ。
ニコも興味はあるものの、現実感は薄い。ただ、アシュリーには頑張って欲しいと願っている。
■9月4日 ②
角巻伊織は、一人の青年を探していた。
きっかけは第三戦目、珍しい形の定石に、たまたま目が留まったこと。盤の左下で進行していたのは、江戸時代によく打たれていた形。古碁ではよく出てくるけれど、現代では打たれることはない。
逆に右上スミで打たれていたのは、小目の二間高バサミの最新形だ。
「この二つが同時に盤に並ぶって、面白いな」そう思って、角巻は彼の番号を控えておいた。
昼休み、スタッフに何気なく彼のことを調べてもらい、角巻は驚く。見せてもらった受付データには、『囲碁歴:3か月』と書かれていた。
「うーん、囲碁歴を短めに書く人も、いるっちゃあいるんだけどなあ」
その青年の打ち方は、明らかに3か月目のプレイヤーのものではなかった。数々の才能ある子どもを(自身も含めて)見てきた彼の目からしても、彼が本当のことを書いているとは思えなかった。
ただ、嘘だと決めつけるには、少し引っかかるものがある。プロである角巻だからこそ感じた、小さな違和感。そうだ、彼の碁は、部分部分の打ち方が変にかみ合っていなかった。
角巻はもう一度彼の碁を思い出す。
手順前後で危うく石を取られかけたり、明らかな相手のミスに気付かなかったり。
どれも、これだけ打てるプレイヤーなら普通やらないような、単純なものばかりだった。
「ニコ・テイト君か。午後からもう一度見てみようかな」そうつぶやくと、角巻は判断を保留した。
角巻伊織は、実は今回のイベントにはあまり乗り気ではなかった。
一番の問題は、名人戦の対局の合間に挟み込まれたスケジュール。協会のお偉いさん曰く、「若いから大丈夫でしょ」「いい刺激になるよ」だそうだ。
まったく冗談じゃない、こっちは大事な初戦を落としてんだぜ。
正直、部屋にこもって反省と研究に時間を使いたかったが、それでも気分転換だと割り切って飛行機に乗り込んだ。
そんな義務感からの参加だったが、一人の青年のおかげで、いつの間にか楽しくなっていた。
午後、第四戦目が始まる。
角巻は適当に会場内を回るふりをしながら、ニコのテーブルを目指す。主催者側からエキシビジョンのために、数名適当な相手を選んでくれとは言われていたが、今の彼の興味は、ニコにしか向いていない。
中国流に構える相手に対し、白を持つニコは真正面からかかっていく。さすがに正直すぎると思っていた矢先、妙に狭いところに打ち込んでいった。
角巻はその踏み込みを知っていた。角巻の師が本因坊戦で打った手だ。自分でもかなり研究したから、覚えている。
ニコの打ち方は、手順前後もいいところだ。もう少し強いプレイヤーが相手なら、簡単に殺されていただろう。
だが。――角巻はそれでも、ニコに感心した。相手が間違えたとはいえ、気づけば急所となる位置はすべてニコが占めており、先手でその場を切り上げたのだ。出来上がり図だけ見れば、白に無駄な石は無い。まるで最初からその図が見えていたように。
対局後、角巻はニコに声をかけた。
「やあ、がんばってるね。後ろで見せてもらってたよ」
「あ、はい。ありがとう」
ぎこちない挨拶も早々に、角巻は聞いた。
「ねえ、さっきのゲーム、よく下辺に踏み込んだね。怖くなかったの?」
「え?」
ニコは少し考えて、56手目の打ち込みのことだと思い至る。
「ああ、大丈夫ってのはわかってたから。日本のプロが、同じ形であそこに打ち込んでたのを見たことがある」
「へえ。誰が打ったのか、わかるかい?」
「名前は知らない。日本語は読めないから。でも、打たれた日なら知ってる。6月16日、1988年」
角巻は言葉を失った。自分も本因坊戦の第四局ということまでは覚えているが、対局日まではさすがに覚えていない。
棋譜に対してこんな覚え方をする人間を、角巻はかつて見たことがなかった。
「君、なかなか面白いね。ありがとう、次も頑張ってね」
角巻はそこで会話を打ち切った。招待者の立場としては、あまり一人の参加者と話し込むわけにもいかない。
ただ、ニコに対する興味は、さらに大きくなっていた。




