10 The Needle Lies-2
帰りの車内で、ニコは、角巻とのことをアシュリーに話した。
「マジで? いいな、私も話したかった。でもやっぱりニコのことを見てたのね」
アシュリーは羨ましがってはいたが、満足そうでもあった。
「ねえ、帰ったら角巻プロの棋譜を探してあげようか」
「え、今から? もう寝ようよ」
「大丈夫、明日は10時からよ。少しなら寝坊できるから」
アシュリーは明らかに、自分の対局よりもニコのことを楽しみにしている。ニコが角巻に勝てる可能性があると、信じて疑っていない。
現実が見えていないわけではない。むしろ自身の棋力について、痛いほどよくわかっている。自分が必死で積み上げてきた階段を、ニコがいずれあっさりと通り過ぎていくのが、わかっている。だからこそ、ニコに夢を見るのだ。
「ねえ、ニコって高校卒業したらどうするつもり?」
「まだ何も考えてない」
「そうだよね、私もニコくらいのときは、何も考えてなかったわ」
アシュリーはそれ以上踏み込まない。何か言おうと口を開きかけたけれど、頭にはパメラの顔と、あの赤い荒野が浮かんだ。
隣に座るニコをちらりと見る。まだ成長段階の細い腕を。
ニコなら、大丈夫。私よりきっとうまくやるわ。
アシュリーが感じたのは頼りなさではなく、未来への期待だ。
■9月5日①
次の朝、会場につくと、昨日の張りつめた空気が嘘のようににぎわっていた。
日本からの物販だろう、木製の碁盤やら扇子が並べてある。重たそうな木の塊に車が買えそうな値段がついているのは、さすがに驚いた。
「気になるの? 何か買う?」
「いらない」
受け付けでスタッフにカードを見せ、奥に案内される。昨日は行けなかった、パーテーションの向こう側へ。
他の対局者、コリンズもいる。軽く挨拶を交わすと、自然とニコの気が引き締まる。
ただ、それも最初だけ。スタッフからプログラムの説明を受けて、ニコは苦い顔になる。マイクを渡されて、挨拶もしなければいけないらしい。
冗談だろ、昨夜だってやっとだったのに。ゲストとして一局打つだけだと思っていたのに、なかなか面倒くさい。
二人に気付いた角巻が、声をかけてくる。
「おはよ、二人とも。今日はお手柔らかに」
「よろしく」
角巻はスーツの男性に声をかける。
「ああ、スタッフさん。手合割(※)の変更ね。ニコ君とは置石なしで打つ予定だから、よろしく」
「は? ああ、かまいませんけど、いいんですか?」
スタッフはニコをちらりと見る。
「ハイ、大丈夫です」
ニコははっきりと言った。
エキシビジョンマッチは、4面打ちだ。ニコたちの対局の後、アシュリーとコリンズの対局が行われる。
「頑張って、後ろで見てるわ」
アシュリーはニコの斜め後ろに立ち、腕を組みじっと盤を見つめる。ニコは苦笑いで返す。パメラにも、ここまで期待に満ちた目で応援されたことはない。照れくさいけれど、悪い気分ではない。
隣の盤に、3つ4つと黒石が置かれていく。ニコだけが、まっさらな盤をじっと見つめている。
「それじゃあ時間ですね。皆さん、お願いします」
角巻が一礼し、同様にニコも軽く頭を下げる。
黒を持つニコは、静かに初手を小目に打つ。対する角巻も、対角の小目に白石を置いた。互いの四隅が小目で埋まり、黒は左上にかかっていく。
古くから何度も打たれてきた布石だ。
(まあ、プロである僕が、逃げるわけにはいかないからねえ)
角巻がニコをつぶすのは簡単だ。既存の棋譜にない手を打てばいいだけだ。だが、プロとしてそれはできない。
角巻は堂々と受けて立った。ニコに合わせるように。
ただ、角巻にとっては他の3人も大切な対局者だ。ニコだけを特別扱いするわけにはいかない。
どうしても思考が取られるのは仕方ないとしても、プロとしてそれを他の対局者に、いや、観客にも悟られるわけにはいかない。
足を止めずに、全体のバランスよく時間を使っていく。
ニコは頭の中で複数の棋譜を同時に並べ、結果を見比べながら打っている。
ニコのとった作戦は単純だ。相手の打った手に応じて、過去の棋譜からこちらの手を選ぶ。
本来なら有利なはずの置石を、ニコは拒否した。自身の記憶能力をフルに活用するために、棋譜にない場所に石があることは、逆に邪魔になると判断した。
ニコは角巻を信じて打っている。彼はプロであり、この戦いはエキシビジョンマッチだ。あからさまに、こちらの戦法をつぶすような手は打たないはずだと。
もちろん過去の棋譜をなぞるだけで勝てるほど、甘い相手ではないことは、ニコもわかっている。それでも、わずかでも勝つ確率があるなら、この戦い方しかないとニコは考える。
記憶を掘り起こせ。いつもよりも、ずっと深く。広く。
正面からの図だけではなく、反転させ、手順に限らず、同じ図がないかを探し回る。
すらすらと打っているように見えて、ニコの背は汗でじっとりと濡れている。
こんなに自分の力を意識し、頼って、何かを為すのは、初めてだった。
80手を過ぎて、まだニコの手は、脳内の棋譜たちから外れてはいなかった。
観戦していたコリンズが、アシュリーに聞く。
「彼、何者だい? まるでプロ並みの打ち方だ」
「そうね、将来の名人かもよ」
偶然ではない。だが、角巻が意図的に合わせたわけでもない。互いが最善を求めた結果、過去の棋譜と同じルートをたどっている。
100手を過ぎ、150手を過ぎ、ついに盤面は、一つの棋譜に収束する。
(それにしても、ずいぶん古めかしい形になっちゃったなあ)
角巻はその棋譜を知っている。江戸時代、約160年前に打たれた、本因坊秀和と秀策の対局だ。
(完全にニコ君の策にハマっちゃったな。困ったな、この局は結果まで覚えてないんだけど)
さすがに態度には出さないものの、角巻は驚いている。記憶能力について聞いてはいたものの、未だ半信半疑で、ここまでのものとは思っていなかった。
この棋譜は並べたことはあるけれど、さほど研究したわけでもない。結果もうろ覚えだ。他の三人との対局をこなしながら、限られた時間の中で目算を続ける。
なまじ棋譜を覚えていたことが災いしている。角巻は棋譜通りに打つつもりはなく、最善手を探し続けている。だが、考えるたびに、秀和の手が頭にちらつくのだ。それを超える手が思い浮かばない。
「おっと、ごめんね」
危ういところで角巻は手を止める。ニコとの対局に頭を取られ過ぎて、思わず別の対局で二度打ちしそうになってしまう。
まったく別のところで、ニコも困っていた。
ニコは、結果をわかっている。この対局は白の三目勝ちだ。このまま打ち進めても負けるだけだ。
(日本語が読めれば、解説とか、ヒントがあったかもしれないのになあ)
この期に及んで愚痴っても仕方がないのだが、愚痴らずにもいられない。
必死で逆転できるポイントを探すのだが、かつて棋聖とまで言われた棋士たちを越える手を思いつくわけもない。角巻が棋譜に無い手を打つことも期待したが、彼は澄ました顔で棋譜通りの手をなぞっている。彼も知っているのだと、ニコは確信した。
小ヨセまで打ち終わり、角巻はつぶやく。
「驚いた。こんなことがあるんだな」
囲碁の局面はほぼ無限だ。似た展開の局があっても、まったく同じ局なんてあるわけがない。
だが――
結果はニコの3目負けだった。棋譜通り、わかっていた結果だ。
観客たちは、プロ相手に大健闘したニコに熱い拍手を送ったが、ニコの心中は暗かった。角巻の顔を見ることができなかった。負けがわかっていたのに、そのまま打ち進めた罪悪感があった。
その気持ちを見透かすように、角巻はニコに聞く。
「この局の結果って、君、知ってたの?」
「はい。必死で違う手が無いかを探したけど、だめだった」
「そうか、探してたんだね」
「勝つつもりだったんだ、本気で。ごめん、負けるのがわかってて、打つべきじゃなかった」
ニコの謝罪に対し、角巻は聞いた。
「ねえ、君は碁を打ってたかい?」
ニコは昨夜の答えに気付く。顔をあげ、角巻の顔を見て、しっかりとした口ぶりで答える。
「――はい」
手合割――ハンディキャップのこと。置石なしということは、互角の対局になる。




