05 Mindcrime-2
■6月12日
「明日、帰ろうと思うのよ」
その言葉は唐突だった。だが、いつか必ず出るはずの言葉だ。
ニコは聞く。「グレイハウンド(※)?」
「それしかないじゃん。ニコが送ってくれるなら別だけど」
ニコは助けを求めるようにパメラをちらりと見るが、パメラは目線を合わせず、黙って聞いている。
アシュリーは答えを待たずに続ける。
「でさ、最後にニコと打ちたくて」
「うん」
「パメラ、事務所のパソコン貸してよ」
「いいわよ。でもどうして? いつも二人で部屋で打ってるんでしょ?」
「真剣な勝負よ。隣にいたら、気が散るわ」
その夜、ダイナーの喧噪がいつも通り響き始めたころ、ニコは自室でパソコンを立ち上げる。
いつも通りのログイン画面がやけに小さく見える。ニコはアカウント欄に『nikki』と打ち込む。一瞬の間を置き、すっかり見慣れたウインドウが開かれる。
盤の前で、アシュリーを待つ。
レニー・クラヴィッツをBGMに、二人の対局が始まる。
ニコは二連星、アシュリーは両目外しに構えた。ニコがカカリを打つと、アシュリーは即座に大斜で返す。まるで最初から決めていたように。
変化が多く、下手をすればツブレもありうる形だが、その分研究もされている。普通に打てば記憶しているニコが有利なはずのルートに、アシュリーはあえて踏み込んでくる。
複雑ではあるが、大斜の中では比較的単純な、基本形。
なぜこの定石を選んだのだろう? 不思議に思いつつ、ニコは慎重に打ち進める。
予想通りのニコの手を見て、アシュリーは無表情で思考を巡らせている。
「やっぱり素直よね。ちょっとでも得したいとか思わないんだから」ぽつりとつぶやくと、辺の黒の芯を止める。それは、戦いに誘うための一手だった。
盤面は中盤の入口。アシュリーの狙い通り、互いの石は浮いている。
盤面だけ見れば互角だが、二人の経験には相当な差がある。それは戦いになると、さらに顕著に表れた。
結局それ以降、ニコはいいところもなく、じわじわと一方的に攻められるだけだった。
一か八かの手はあっさりかわされ、勝負に持ち込むこともさせてもらえない。ニコの石は逃げ出し、つながるだけに終わる。
地は大差だった。
投了ボタンを押した後、ニコはこのあとどうするかを決めていないことに気付く。
ニコはアシュリーの部屋に向かって歩く。
砂をかぶったアスファルト。さび付いた車停め。崩れかけたレンガ。冷たく、少しだけ湿った風。
ダイナーの燈が遠ざかり、薄暗い地べたに目を凝らす。
ガチャガチャと音がして、アシュリーの部屋のドアが開く。
息が詰まり、空を見上げる。星空が目に入る。
「お疲れ様。驚いたわ、このままだとすぐに勝てなくなりそう」
「ありがとう。でもそれは言い過ぎだよ、さっぱりだった」
「ニコのことを知ってるからね。序盤はともかく、読みとかまだまだだもん」
「定石選択、間違えた?」
「そんなこと――、そうね、相手のことまで考えたらたぶん間違えてる。でもね、中盤の入り口までは互角だったわ。問題はそのあとかな」
「うーん、難しいな。だって、シチョウアタリとか全部考えながら打ってるわけ?」
「そういうわけじゃないけど、細かい部分ってよりは、強く押せるかどうかって感じかな」
「難しいねえ」
「だからいいんじゃない。今度プロの棋譜が入ったファイルをたくさんあげる、ニコなら絶対役に立つわ」
「ありがとう」
言葉と裏腹にニコの顔が一瞬曇る。アシュリーはそれを見逃さなかった。
「どしたの?」
「いや、覚えるって楽しくないなーと思って」
「ニコ、もしかして全部覚えるつもりだったの?」
「覚えるつもりじゃなくても、覚えちゃうんだよ」
ニコが思い出していたのは、ケヴィンの泣き顔だった。だが、そんな映像よりも深く心に刺さっているのは、彼の言葉。
あはは、とアシュリーが軽く笑う。遮るようにニコが訴える。
「笑いごとじゃないよ」
ニコの声は、少しだけ震えていた。ここまで感情の乗った彼の声を聞くのは、初めてだった。
「ごめん」とアシュリーは素直に謝った。
ニコに少し顔を近づけると、真剣な顔で言う。
「私には、勝手に覚えちゃうっていうニコの辛さはわかんない。でも、ニコも私のことわかんないでしょ。覚えたくても覚えらんないやって、学校のテストで何回ペンを投げ出しそうになったかとか」
「それは――、うん」
「でしょ? 私たち、一緒なのよ。単にできることとできないことが違うだけよ」
「それでも、僕がズルしてることには変わりない」
「ふふ、それこそ勘違いよ。囲碁の盤面の数って、いくつあるか知ってる?」
「え?知らない。何億とか?」
「冗談でしょ。桁が違うわ。ま、あたしもちゃんとは覚えてないけどね」
アシュリーは星空を見上げ、言う。
「なんかね、宇宙の全部の原子の数より多いんだって。それだけ覚えてる。ね、いくらニコでも覚えきれないでしょ」
ニコは黙ってうなずく。
「だから、ズルだとか気にしなくていいわ。一緒よ、私たち」
「うん」
ニコはその言葉を心の中で何度も繰り返す。「ありがとう」の一言を言い忘れるほどに。
「さ、荷造りしなきゃね。ありがと、ニコ。一週間楽しかったわ」
「僕もだ」
「囲碁、続けてね」
「ああ、もちろん」
※グレイハウンド――アメリカの長距離バス




