04 Mindcrime-1
■6月8日
アシュリーが来て三日が経った。彼女の中にあったわずかな遠慮は、タンブルウィードと共にどこかへ転がっていった。
「おはよ、パメラ。今朝もトーストなの? たまにはベーグルがいいんだけど」
「おはよう、アシュリー。悪いけどうちの朝はトーストだよ、昔からの決まり」
「やだー、もう一週間も食べてないんだよ、ベーグル不足で倒れちゃうわ。ニコ、車出してよ。買いに行こ」
「え、僕が?」
「あなたねえ、ニコを勝手にタクシー扱いしないでくれるかしら」
パメラが本気で言っていないことは、ニコもわかっている。自分が頼み込めば、週末の買い出しあたりを交換条件に、渋々キーを貸してくれるだろう。
パメラはアシュリーを気に入ってる。少なくともニコにはそう見える。
パシフィック・ベットのことを話した時も、パメラは「チェスだけならいいけど、ギャンブルはNGだからね。それだけは約束しなさい」と言っただけだった。
ニコの知る限り、これは最大限に機嫌がいい時の譲歩だ。
「絶対ウマいのに。店で出せばいいじゃん、ウェスタンベーグルをカリカリに焼いて、中にチーズ挟むの」
アシュリーも、パメラに対してかなり心を許している。年の離れた姉のように思っているのかもしれない。
パメラに強く言われて親には電話したものの、もう少し旅行を続けると言ってそのまま居着いている。
「いいじゃない、ちゃんとホテル代は払ってるんだし」
その言葉に、パメラもそれ以上強くは言えなかった。
「ね、食べ終わったら打ってるとこ見せて。大斜は覚えた? ハメ手とかどんどん覚えてこうよ」
アシュリーが居着いた理由の一つに、ニコのことがあった。
アシュリーはニコのクロムブックに、自身の持っている棋書を手当たり次第にダウンロードした。ニコはそれを順番に覚えていく。
そこからの上達のスピードは異常で、数日もするとニコは、複雑な定石を難なく打ちまわすようになっていた。
「マジでもうこんな打てるようになってんの? すっご」
ユーカリの木のような速さで成長するニコを見ていると、甘い嫉妬心が首をもたげる。
アシュリーは学校の勉強こそあまり好きではなかったが、囲碁に対しては真面目に取り組んできた。レーティングも先日2200を超え、アマの中でも頭一つ抜けたという自信もある。言葉にこそしなかったけれど、ニコの上達を見るとそれが崩れそうになっていく。
だがそれ以上に、彼がどこまで進んでいくのかを見ていたい気持ちもいっぱいだった。それも、可能な限りすぐ傍で。
相手のレーティングは1600。ニコの二連星に対し、両小目に構えた。カカリ、ハサミ、ハサミ返す。
三々に入られると、代わりにニコは厚みを築く。
ふむふむ。後ろで見ていたアシュリーは、腕を組んだまま軽く首を揺らす。すぐに彼のいびつな上達に気が付く。
部分的な定石手順はカンペキだが、厚みが逆方向を向いているため、全体としてはむしろ損をしている。初級者によくあるミスだ。
中盤で相手が間違える。即座に隅を手順よく殺しに行くが、タイミングがあまりに早すぎる。利きが見えていないために、失敗して生きられる。
囲碁では定石の細かい手順による間違いよりも、石の方向や向きの方がずっと重要だ。相手の石を殺すかどうかよりも、いつ殺しに行くかが大切だ。
そしてそれは記憶よりも、経験や判断力の分野だ。
対局は大ヨセに差し掛かる。画面を見つめるニコの眉がゆがむ。
(すごいじゃん、形勢悪いことには気づいてんのね)
アシュリーはにやりとし、心の中でニコを褒める。
それからもう30手ほど打ち進めた後、ニコは投了する。
「負けだ。全然足りないや」
「ふふ、それがわかるだけでもすごいよ。褒めてあげる」
ニコははっきりと、壁にぶつかっていた。部分的な戦いだけで勝てるレベルはとうに過ぎていた。
本来なら碁を覚えて数日のニコがここまで打てること自体、驚異的ではあるのだが。それでも、壁は壁だ。
アシュリーは、唐突に彼をドライブに誘った。
「ねえ、ランチ食べたらちょっと車出してよ。買い物行こ。おごったげるから」
アシュリーは、こういう時は気分を変えるべきだと知っている。過去に彼女自身も、同じ壁にぶつかったことがあるから。
「いいけど、夕方までには帰るよ? 母さんの手伝いしなきゃ」
「わかってるって」
午後。カローラが走り出すと早々に、アシュリーはニコに尋ねる。
前々からずっとくすぶっていた疑問だった。
「ねえニコ、何でチェス止めちゃったの?」
「なんでってこともないけどさ、飽きちゃったから」
「ふーん」
その言葉を嘘だと思ったわけではないが、ニコの言い方は、何か引っかかるものを感じる。
アシュリーは突っ込んで聞いた。わざと無神経気味に。
「でもさ、そこまで強い人って、普通止めないよ。なんかあったの?」
レート2100は、単に記憶力が良いというだけでは到達できない数字だ。アシュリーにはそれがよくわかっている。
だからこそ気になったのだ。ニコが、チェスでの壁をどう乗り越えたのか。
だが、それはアシュリーが期待している話ではない。
ニコはぽつんと言った。
「大会でさ、優勝したんだよ。小さい大会だったけど、嬉しかった」
「ふむ。それで?」
「相手に泣かれちゃった。それでかな」
「その続きって、聞いていいやつ? 聞かないほうがいいやつ?」
ニコは答える代わりに、カローラのウインドウを少し開けた。温い風が吹き込み、ニコは少し目を細める。
チェスを始めて三ヶ月目のころだ。ニコはある大会に参加した。大会とはいっても、子供から大人まで参加してわいわいやるような、小さな地域のイベントだ。
ニコはとんとん勝ち上がり、決勝戦の相手はケヴィン、二つ上の中学生。その時のニコは知らなかったが、前の大会の優勝者だった。
そのころすでに、ニコの記憶力については、周りの知人たちも知っていた。もちろんケヴィンも。ケヴィンは決勝の相手がニコだとわかり、驚いたものの、それでもまだニコのことを馬鹿にしていた。たった数ヶ月で自分に勝てるわけはないと。
オープニングはスタンダードなシシリアン、二人ともほとんど時間を使わずに打ち進めていく。
最初に手が止まったのは、黒のケヴィンだった。何も考えなければビショップから攻めに行くところだが、ケヴィンは少し考えたあと、ナイドルフの形に入る。
ケヴィンの頭をよぎったのは、ニコの記憶のこと。勝つ自信はもちろんあったけれど、勝負を急いで変にもつれたくはなかった。
ゆっくり行こう、どうせ相手は覚えるだけの素人だ。読みになったらたぶんすぐボロが出る。
そう考えていた。
だが、ニコの能力はケヴィンの想定をはるかに超えていた。
ケヴィンの打ち方が綺麗過ぎたことも悪かった。
ニコの強さは、相手の強さに依存している。どんなに複雑でも長手順でも、定石書に載っている範囲の変化なら、ニコにとっては答えが用意されている問題をなぞっていくだけだ。
三十手も進んだころには、すでに取り返しのつかない差がついていた。
ニコのクイーンが中央を制圧し、あとはラインを上げるだけになる。
ケヴィンは諦めと戦いながらも少しだけ打ち続け、そして小さく「負けました」と言った。
声が震えていて、泣いていることはすぐにわかった。
涙を流すケヴィンを前に、ニコは喜んでいいものかどうかわからず、座ったまま何も言えなかった。
司会の大人がうまくその場をとりなしてくれたけれど、ニコは何度も振り返りながら、その場を後にした。
授賞式の時、ケヴィンはもう泣いていなかった。そのかわり、こちらを睨んでひとこと「覚えてるだけのくせに」とぼそりとつぶやいた。
その記憶は、タトゥーのように、ニコの脳内に焼き付いている。
「そんなに覚えられるってすごいね」と言われるたび、ニコは思う。「そんな馬鹿な」と。
だって、忘れることのほうが、ずっと難しいのだから。
マーケットに着くと、カローラは駐車場を軽く一回りしてから停車する。アシュリーは車から降りて伸びをする。
転がってきたコークの缶を蹴っ飛ばす。
「ね、とりあえずベーグル見るわよ。そのあとチーズ」
「はいはい」
ニコはずんずん歩くアシュリーのあとをついていく。アシュリーに引っ張られるのは楽しいけれど、警戒も忘れずに。なにせ、あれからたった数日しか経っていないのだ。
そんなニコの心配を他所に、アシュリーは目当てのウェスタンベーグルを見つけると、続けてチーズを吟味する。
「探してるやつ、あった?」
「ない。ティラムックのやつ」
「なにか拘りあるの?」
「ないけど、重要でしょ。これでパメラが気に入るかどうか決まんのよ」
「アッシュが作ってくれたら、たぶん母さんは喜んで食べるさ」
「そうかもしれないけど、どうせなら美味しいほうがいいじゃん」
頼まれていた野菜たちを探しながら、ニコは相変わらず落ち着きなく辺りを見回す。気にしているのは品物よりも、見慣れない客がいないかだ。
「心配性ねえ。でも、ありがと」
「どういたしまして。でも、アッシュは気にしなさすぎだろ」
「ここをどこだと思ってる?」
「マーケットだろ。君を拾ったとこ」
「そうじゃなくてさ、ここは野菜売り場だってこと言ってんの。あいつジャンキーだからね。ゾンビーが礼拝に来るようなもんよ」
カートを押しながら、アシュリーはふと思い出したように聞く。
「ねえ、何で勝てなくなったか、わかる?」
「え? いきなりだな。中盤で弱いからでしょ? 戦い始めたらすぐ負けちゃう。定石は覚えればいいけど、そのあとって本に載ってないからさ」
「なるほどねえ」
アシュリーは予想通りの答えににんまりとする。少し考えて、そして天井を見上げる。アシュリーの表情の変化を、ニコはわけもわからず眺めている。
「私さあ、あいつから逃げるって決めたとき、逃げる場所決めてからケンカ始めたんだよね」
「どういうこと?」
「マーケットなら、人も多いし、棚で見通し悪いじゃん」
「そうだね」
「だから、こういうところを探して「もういい、とりあえず酒買ってくる!」って言って、入ったの」
「それで?」
「で、そのままソッコー逆の入口から出たわ。パメラがいたのは偶然だけど、そうじゃなくてもこの辺って、ある程度建物があるから隠れやすいと思ったし」
ニコは、どう返事をしたものか迷っている。彼女の話はわかるが、話題が飛んだ理由がわからない。
「囲碁の話じゃなかったの?」
「囲碁の話よ。要するに、戦う前にどこで戦うか、そもそも戦うべきなのかを考えてから、戦うのよ」
「どういうこと?」
「囲碁とチェスのオープニングは、少し性質が違うってこと」
ニコは口元に手を当てて少しだけ考えるが、やはり答えは見つからない。
「……ごめん、やっぱりわからないや。僕の理解が悪かったのかな」
「ちがうちがう、レベルアップしてるってことよ。帰ったら布石のこと教えてあげる」




