03 Revolution Calling-2
■6月5日 ②
代わり映えしない荒れ地の風景は、緊張感を低下させる。ニコが窓を開けると、温い風と共に土の匂いが車内に広がる。
一応警戒はしているけれど、幸いフォードとは出会わない。
アシュリーは猫のような伸びをする。あくびをかみ殺し、足元のオレンジを袋に戻しながら、ニコに聞く。
「ところでニコ、あなたって記憶力いいわけ?」
「そうみたいだね。自分じゃこれが当たり前だから、よくわかんないけど」
それを聞いたアシュリーは、ニコを試すように、いたずらっぽく聞く。
「へえ。じゃあさ、あのマーケットにあった他の車のナンバーも覚えてんの?」
「残りの32台ぶん? まさか。見えないところまでわかったら、エスパーだ」
「てことは、見えてるところは全部覚えてんの?」
「うん。言おうか?」
「いや、別にいいけどさ。それ普通じゃないわよ」
こともなげに答えるニコ。アシュリーはつまらなそうに、道沿いのブッシュに目を落とす。
普通じゃないという言葉にパメラの眉がぴくりと反応したが、今はまだ、何も言わずに二人の会話を聞き流している。
ニコは続ける。
「記憶力はそうかもしれないけど、僕自身は普通だよ。勉強の役には立つけどね、レシピを覚えたからって料理の腕前は別だから」
「もったいないなあ。あたしならベガスで一発狙うね、間違いなく」
笑みを浮かべるアシュリーを、ため息混じりにパメラがたしなめる。
「ちょっと、ニコに変なこと教えないで欲しいわね。それより、そろそろ着くわよ」
掠れた看板が見えた。アシュリーが目を凝らすと、かろうじて”RED ROCK SALOON”と読み取れた。
「うん、なかなか洒落た名前だと思うわ。古いけど」
アシュリーなりのリップサービスに、パメラは冷めた口調で返す。
「そっちはもう10年は前につぶれてるわよ。うちはあの向かい」
カローラが少しだけスピードを落とす。直後、途切れたアスファルトの段差が、サスペンションにガツンと衝撃を伝える。
アシュリーがうめき声を上げながらパメラが指さす方向を見る。白い屋根の店舗、月の意匠がこらされた、濃い群青の看板。ネオンではなく、昔ながらの木製の手作り看板だ。
「『銅の月・ダイナー』?」
「良い名前でしょ?」
「うん、マジでセンスいいんじゃない?」
アシュリーは看板を見上げたまま、つぶやくように言う。
ダイナーというよりパブのような名前だったが、パメラが付けたと思えば、「らしいな」とも感じる。それを見たアシュリーは、いつから二人で暮らしているのかということが気になった。
ガレージに車を止めると、パメラが手早く指示を出す。
「さあ、荷物を持つのを手伝ってくれる?」
「貸して。そっちは僕が持つよ」
「じゃ私はこっちね」
さっぱりしていると言えば聞こえはいいが、物が少ない事務所だった。奥の扉はそのままキッチンとダイナーに繋がっている。
パメラは熟練のレンガ職人のように、食材を片っ端から冷蔵庫に積み上げていく。店用と家庭用の食材も、区別はしていないようだった。
一通り片づけを終わらせると、パメラはアシュリーを呼ぶ。砂でざらついたカウンターを雑に払う。建付けが悪い引き出しを叩くと、ノートとペンを取り出す。
「アシュリー、一応これだけは書いてもらうわよ」
宿帳にアシュリーが記入していくのを、パメラはさりげなく、しかし豹のような目で見つめる。
kの文字をハート型に崩したようなサイン。続けて住所、電話番号。それぞれよどみなく書き込む。
思わずニコは漏らす。「偽名じゃなかったんだ」と。
パメラはニコの無礼を軽くたしなめるが、アシュリーは苦笑いで済ませる。
「いいって。あんな出会い方だし、疑って当たり前よ」
パメラは奥からカギを持ってくると、ニコに手渡す。
「ニコ、部屋を案内してあげて。105号でいいから」
「わかった」
「あのさ、服とか貸してもらえないかな? ほんと何も持ってきてなくて」
「わかってるわよ、夕食前には用意しとくわ」
「ありがと、パメラ。大好きよ」
事務所の脇を曲がると、奥には長屋タイプの部屋が並んでいる。このあたりのモーテルとしては、一般的なタイプだ。
ニコは歩きながら言った。
「母さんはああ言ってたけど、気にしなくていいよ。多分喜んでる」
「あれで喜んでるの? マジで?」
「泊まりの客は久しぶりだから。ほら、こっちの道(旧道)って基本的に観光用だろ? LAからでもベガスからでも、だいたい寄りやすい店の場所って決まってくるのさ。ここはそこから中途半端に外れてて、今のメイン客は地元のトラッカー」
ふうん、とそっけなく答えるアシュリー。ニコの言葉が本当なら、この店は夜の食事客をメインでやっているのだろう。
あまり詮索するつもりはないけれど、それだけでやっていけるものだろうか。まあ、母子家庭のようだし、政府からの援助でもあるのだろう。
そんな疑問をぐるぐる回すうちに、ドアの前に着く。
「はい、この部屋だ」
小さい部屋だったが、ベッドとテレビと、奥にはユニットバスと。一通りのものはそろっている。だが何よりも良かったのは、掃除が行き届いていたこと。
昨日まで泊まっていた安宿は、壁は薄いし虫は多いし、とにかくうんざりだったのだ。あれと比べれば、狭いくらいなんでもない。
「へえ、いい部屋じゃん、なかなか」
「そりゃどうも。店からは一番離れてるから、うるさくはないと思うよ。他に泊りの客はいないから、お湯も使い放題だ。じゃ、僕は行くよ」
「あ、ちょっと待ってよ、ねえ」
「なに?」
「パソコンはないの? ネットにつながってるやつ」
そういえばと、ニコは思い出す。彼女は、支払いはネットバンクですると言っていた。ただ――、
「あるのは型落ちのノートか、高校用のクロムブックくらいだけど」
「うえぇ、その二つならノートかな。ちょっと借りていい?」
「いいよ。今は使ってないやつが、事務所の奥にあったはずだから。あとで持ってこようか?」
「お願い。とりあえずシャワーでも浴びて一休みしてるわ」
砂漠の夜の空気は、アシュリーが思っていた以上に澄んでいた。
流れてくるフランツ・フェルディナントは、パメラの趣味だろうか。ダイナーからはそれなりに距離があるのに、こんなにもクリアに喧噪が聞こえてくることに、驚かされる。
昨夜までは彼氏と二人きりだったせいで、落ち着かなかった。
互いに会話の中であらを探しあうような、およそ恋人同士とは思えない緊張感のあるコミュニケーション。それはそれで刺激的ではあったが、連日となると疲れ果てる。
「別に嫌いってわけじゃなかったんだけどなあ」
ベッドに寝転んだままで、ぽつりとつぶやく。
厄介ごとだったのは確かだ。あいつがジャンキーだってことに気付いたのは、付き合い始めてからだったし。
やばい、と気づいたときにはもう好きになりかけていたから。
「でも、本気じゃない」自分を守るために、わざわざ口に出す。
窓を開けて見上げると、星空が見えた。カリフォルニアの星空は、シカゴやニューヨークよりもずっと高い。アシュリーはこの高い星空が好きだった。
ノックの音がする。ドアを開けると、ノートパソコンを抱えたニコが立っている。
「はい、お届け物のピザだよ」
「ありがとう。ちょっと冷めてるけど美味そうじゃん」
「そうでもないよ、電源いれるとすぐにアツくなるからさ。正直まいってる」
二人は小さく笑い合う。デスクにノートを乗せ、電源を入れる。ゆっくりと焦らすように、ウィンドウズのロゴが表示される。
「Wi-Fiは?」
「一応あるけど、まあお察しさ」
「あるだけいいか。ね、少し設定とかいじっていい?」
「どうせ使ってないし、好きにしていいよ」
ゼンマイ仕掛けの老人のようにのんびりと立ち上がるノートを待ちながら、どちらからともなく、口を開く。
「ねえ、ニコって生まれてずっとここに住んでんの?」
「そうだよ」
「うえぇ、マジか。私なら絶対耐えらんない。逃げ出すわ」
「そりゃ逃げられるなら逃げ出したいよ。でも、どこにさ。母さんを置いてくわけにもいかないし」
カタカタというタッチの音が断続的に流れていく。喋りながらも、アシュリーの指は止まらない。
グーグルからサイトを検索、選択。いくつかファイルをダウンロードし、設定を触っていく。
「そうだよねえ、私が無神経だったわ。ごめん」
「いいよ、このあたりの奴らなら、みんな思ってることだし」
アシュリーの目はモニタを見つめたままだ。
ウインドウを開き、たまに手を止めつつも、真剣な顔で入力を続ける。警告のメッセージが出ると読みもせずに消し、先を続ける。
「オーケイ、入れた。ここよ」
暗い画面に、『パシフィック・ベット』というそっけない表示。そのデザインは、怪しい雰囲気を隠す気もない。
「これって、確かギャンブルサイトだっけ」
「そうそう、ここでよく小銭かせいでんの。ニコ、あなたもやってるの?」
「いや、名前は聞いたことあるけど、興味ないな」
ニコの言葉は、半分は嘘だ。
サイトの登録者は、ほとんどが30代以下の若者だ。元々が賭けサイトなので、本来なら未成年は登録できないはずだが、ニコの友達にもアカウントを持っている人間はいる。例えば不良仲間や、親名義のクレジットカードを使ってだ。
彼らの自慢話を聞くたびに、ニコはうらやましく思っていた。当然のように自分もやってみたいと思っていたが、パメラが許してくれるわけもない。
パメラは、賭け事を死んだ魚の目玉のように嫌っている。親としてはしっかりしていると言えるのだろうけど。
「たぶん、これで大丈夫だと思うけど」
「よかった。通信は大丈夫だった?」
「うん、なんとか」
実際、銅の月のWi-Fiは、このあたりの安モーテルと比べてマシなほうだった。パメラの店がクレジット払いを始めたのは、9.11より後のこと。周りの店よりも若干新しい。
加えてパシフィック・ベット自体も、軽さをウリに作られている。粗製と言われようとも、どうせ集まるのはトラッシュたちだ。
アシュリーはいくつかの操作をしたあと、メモ用紙にペンを走らせる。
「『pop'n-ash』ってあるでしょ。これ、あたしのアカウント。サイトから直で送金もできるようになってんの、あとでパメラに振り込み先を聞いといて」
「わかった」
話を聞いているのかいないのか。ニコの目は、右端に並んだアイコンばかり眺めている。
アシュリーは「興味あるの?」と聞き、すぐにバカな質問をしたことに気付く。興味がないはずがないのだ。
自分だってニコと同じくらいのころ、不良友達がサイトの賭け話で盛り上がっているのを横で聞いて、羨ましく感じていた。
アシュリーは少し迷って、遠慮がちにニコを誘う。
「あー、えーとさ、良かったら少しプレイしてみる? 常時接続だとポーカーが定番、スポーツ系だとフットボール、野球、後はゴルフとかも。何かわかりそうなのある?」
説明しながら画面を次々にスクロールしていく。
「ん、この中ならチェスかな。昔リチェス(※)ってのやってたから」
「へえ、渋いね。レート覚えてる?」
「最後にプレイしたときで、2113」
「はあ? 2100超えてんの? そこまでいったのになんでやめたのよ、もったいないじゃない」
チェスならアシュリーも昔やっていた。そこそこ腕に自信はあったけれど、レートは1800が精いっぱいだ。
「なんか覚えた手順を引き出すだけになっちゃって、あんまり面白くなくなっちゃってさ」
彼の”能力”に思い至り、アシュリーは「ああ、」と察したように口をつむいだ。
気まずい空気。ニコは話題を変えようと、アシュリーに聞いた。
「アシュリーはいつも、何やってるの?」
「え? あたしはこれ。多分知らないと思うけど」
アシュリーは白黒の地味なアイコンをクリックする。
「囲碁、アジアのボードゲームよ」
「へえ、初めて見るな。中国製のチェスってこと?」
「うーん、どっちかっていうと、タクティクスじゃなくてストラテジーゲームかな。教えてあげようか?」
「うん、ありがと。ルールブックある?」
ニコの記憶能力は、視覚情報に特化している。
ニコにとって、本を読むのと聞いて覚えるのとには明確な差があった。
とはいえそこまで身構えずとも、碁のルール自体はさほど複雑なものではなかった。ただ、碁は彼にとって革命だった。
囲めば取れるというルールは理解できたのだが、実際にやってみると相手の石なんかさっぱり取れない。初心者向けのコンピュータ相手に、アシュリーのアドバイスを聞きながらやったのだが、それでもさっぱりだ。
石は交互に置く。囲めば取れる。地が多いほうが勝ち。一つ一つのルールは理解できるが、それぞれが絡み合い、糸のようにもつれ、ややこしく感じた。
ようやくルールが自分の中で消化できた後も、今度は対局でひどく負け続けた。勝つためにどうすればいいかがわからなかった。
本を読めば序盤の打ち方は書いてあるし、自身もその通りになぞっているつもりだったが、少し外れるともうだめだった。
なぜアテてはいけないかがわからないし、ノビが大きいと言われても、なぜノビれば大きくなるのかがわからない。
記憶だけで解決しないことがある。考えるためのとっかかりがないこともある。
アシュリーは横について、ゆっくりと教えていく。答えを教えるのではなく、理屈を、考え方を。
それはニコにとって新鮮な、だが懐かしい体験でもあった。
ニコがまだ小学生のころ。彼は教師や周りの大人にとって、物覚えが良く、手のかからない子供だった。もちろんパメラにとっても。
持って帰ってくるテストはほとんどが満点だった。間違えた個所があったとしても、誤字脱字で減点されたりという、子供らしいミスによるものだ。
そんなある日、ニコが珍しく80点のテストを持って帰った。算数のテストだった。
間違えた場所は数か所、簡単な二桁の引き算だ。
「珍しいわね、なんで間違えちゃったのか、自分でわかるかしら?」
パメラはわざと笑顔を見せて、明るく聞いた。ニコが落ち込んでいないかと思ったのだ。ところが。
「うん。この組み合わせって、今まで見たことなかったから、知らなかったんだよ。31-8、23-5、あと二つもね。ちゃんと覚えたから、今度は間違えないよ」
予想外の角度からの返答に、パメラは言葉が出なかった。驚くべきか呆れるべきかを迷っていた。
その時初めて、パメラは息子の能力に気が付いた。なんてことだ、この子は計算ができるわけじゃない。答えを覚えて、その通りに書いていただけなのだ。
おそらくニコにとってのテストとは、記憶の中の辞書から答えを探し、貼り付ける作業なのだ。
無邪気に笑顔を見せるニコに、パメラは優しく言う。
「あのね、問題は覚えるだけじゃダメなのよ。初めて見る問題を解く時は、『考える』っていうことをするの」
「考える?」
「そうよ。覚えていないことでも、考えればわかることがあるの」
「何それ、すごい!」
ニコは目を輝かせてパメラの説明に聞き入った。今までずっと閉ざされていた扉が開かれたようだった。
もちろん、今までも日常生活で考えていなかったわけじゃない。けれど学校の勉強のようなはっきりとした正解があるものは、彼にとっては記憶のパッチワークに過ぎず、新しいものを作り出す行為ではなかったのである。
その日から、ニコのテストは間違いが増えた。だが母にとってはむしろ、そんな答案のほうが価値があった。
間違えた問題についてパメラは、なぜそう思ったのかをニコに尋ねる。ニコが頑張って説明するのを、微笑みながら聞く。
パメラが無邪気に笑う我が子を見ながら思ったことは、喜びというよりは安堵だった。
このまま彼の頭の内側に気付かないままだったら、ニコはどう成長しただろうか。そう考えて、少しだけ身震いした。
ニコは、そんなパメラの胸中など察することもなかったが。
部屋の照度がわずかに下がる。閉店時間を迎え、ダイナーの明かりが消えたのだ。
ニコはそれに気づくと、時計を目にする。
「あ、やば。もう店が閉まる時間だ。戻らないと」
「そうなんだ? あたしも片付けを手伝った方がいいかな」
ニコは少しだけ迷い、「そうだね、一緒にいこう」と言う。
パメラ相手に下手にごまかしたところで、すぐにばれるのはわかっている。変に勘繰られるよりは、二人して正直に顔を見せに行った方がいいだろう。
アシュリーは言った。
「あんたもアカウント作ったら? こんな砂漠じゃ相手なんか見つかんないわよ」
「うーん、そうしたいんだけどね。まだ未成年だし」
だが、その言葉にアシュリーは引っかかり、あやふやな記憶をたどる。
「ベットなしのゲーム専用アカウントなら、たしか未成年でも作れたと思うけどな」
それを聞いて、ニコの心臓がはねる。
「本当? 僕でも作れるの?」
「メアドと別アカからの紹介があれば、大丈夫だったはず。明日でよければ見てあげるわ」
「ありがとう」
今日一番の笑顔を浮かべるニコに、アシュリーも笑い返す。
「いいよ、お礼だかんね」
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