第39話 きわどいメイドと酔った兄
喫茶ベルン。
クラウディアがトレイを運んでいた。
グラスに注がれた、店自慢の果実ジュース。
深紅の液体が、光を受けてきらきらと揺れている。
そして。
テオの足元に、散らばっていた布巾。
「あっ――」
つま先が引っかかった。
トレイが傾く。
グラスが、弧を描いた。
ざぱっ。
全部、テオにかかった。
沈黙。
「……」
テオは動かなかった。
頭から、果実ジュースが滴り落ちている。
深紅の液体が、制服に染みていく。
「す、すみません……!!」
クラウディアが青ざめる。
「大丈夫……気にしないで」
テオは静かに言った。
液体がぽたぽたと床に落ちる音だけがした。
「着替えてきます」
控え室に向かうテオ。
扉を開けて、着替えを探す。
制服。
ない。
予備のシャツ。
ない。
メイド服。
「……あった」
手に取る。
見る。
「……」
もう一度、見る。
露出が、高かった。
胸元が大きく開いている。
スカートが短い。
肩が出ている。
通常のメイド服の倍は肌が見える設計だった。
(なんでこれしかないんだ)
テオは頭を抱えた。
「ボス、他のメイド服は全部洗濯中です」
扉の外からローレンツの声。
「なんで今日に限って全部洗濯してるんだ」
「月に一度の大洗濯日です。私も今日だとは忘れていました」
(忘れるな)
「これしかないのか」
「はい」
「他の、男のスタッフ用の服――」
「駄目です。殿下が許してくれません」
テオはしばらく沈黙した。
「……分かった」
覚悟を決めた。
――
数分後。
控え室から出てきたテオを見て、店内の空気が一瞬止まった。
「……」
客が固まっている。
エリザベートが固まっている。
クラウディアが固まっている。
ローレンツだけが、さっと視線を逸らした。
金の匂いがした気がしたからだ。
「見るな」
テオは低い声で言った。
「見てないわ」
エリザベートが即座に答えた。
見ていた。
「見てません」
クラウディアが答えた。
見ていた。
シャルロッテが、客席の奥から顔を上げた。
「あら」
一言だった。
それだけで、全てが伝わった。
「楽しまないでください」
「楽しんでないわ」
にっこり笑っていた。
(楽しんでる)
テオは深呼吸した。
(早く普通の服に戻れるよう、洗濯が終わるのを待とう。それだけだ。何も起きなければ)
その時だった。
ガンッ。
扉が蹴破られた。
「うまい酒はあるかあ!!」
入ってきたのは、レオンハルトだった。
目が据わっている。
赤い顔。
足元がふらついている。
完全に酔っていた。
(なんで今日に限って……!!)
テオは咄嗟に柱の陰に隠れた。
「いらっしゃいませ……」
メイドの一人が恐る恐る近づく。
「酒だ。一番強いやつ」
「当店はアルコールの提供は――」
「うるせえ!!」
テーブルが揺れた。
客が悲鳴を上げて離れる。
(止めないといけない)
テオは柱の陰で考えた。
(でも、魔力を使って身体強化すれば、胸が……)
きわどいメイド服を見下ろす。
(バレる。絶対バレる)
視線だけでシャルロッテを探す。
シャルロッテは客席の奥で紅茶を飲んでいた。
完全に他人事の顔だった。
「殿下」
テオは小声で言った。
「お願いします。止めてください」
「やだ」
即答だった。
「なんでですか」
「面白いから」
紅茶を一口飲む。
「あなたがどうするか、見たいのよ」
「それは見物ではなく見世物です」
「いいじゃない。どちらも楽しいわ」
(恨む。本気で恨む)
その間にも、レオンハルトは暴れていた。
「酒はないのか!!」
椅子が飛んだ。
「きゃあ!!」
テーブルが傾いた。
テオは歯を食いしばった。
(どうする。どうすれば止められる)
視線が部屋を走る。
テーブルクロス。
レオンハルトに吹き飛ばされたテーブルのクロスが、あちこちに散らばっていた。
白い布が、床に広がっている。
(……使える)
テオは動いた。
「ちょっと待ってください!!」
大声を出した。
レオンハルトが振り向く。
「あ? テオのくせに――」
次の瞬間。
テオはテーブルクロスを次々と拾い上げ、手近な柱と棚の間に張った。
もう一枚。
また一枚。
あっという間に、部屋の一角に、白い布の幕ができあがった。
「な、何してる?」
レオンハルトが眉をひそめる。
「少しお待ちを」
テオは幕の内側に入った。
そこには。
偶然居合わせたエリザベートと、倒れたテーブルに閉じ込められたレオンハルトがいた。
「テオ、何のつもり――」
エリザベートが言いかけた。
その瞬間。
テオの体から、魔力が溢れた。
(一瞬なら、エリザベートの目も誤魔化せるか?今はお兄ちゃんを止めないと!)
輪郭が変わる。
髪が伸びる。
シルエットが、しなやかに変化する。
きわどいメイド服を着た、美しい少女が、そこに立っていた。
(よし、幕の中だ。見えていない)
テオは素早く動いた。
レオンハルトの懐に入り、一撃。
ドン。
鈍い音。
「ぐっ……!」
レオンハルトがよろめく。
追撃。
もう一撃。
ズドン。
巨体が、床に崩れ落ちた。
(なんか、テオがいつもと違う)
エリザベートの脳がオーバーフローして、気を失う。
静寂。
テオは荒い息を整えた。
……全部で、十秒もかかっていなかった。
幕の外から、ローレンツの声。
「ボス、大丈夫ですか!!」
「大丈夫だ」
テオは幕の外に出た。
魔力が収まり、元の体型に戻っている。
髪も、元に戻っている。
「何があったんですか!!音がして――」
「お兄ちゃんを寝かせた。外に運んでくれ」
淡々と言った。
構成員たちが幕の中に入って、レオンハルトを担ぎ出す。
実の兄を外に転がすというのもひどい仕打ちであるが、酔ったレオンハルトにはこれくらいがちょうどいい。
騒動は終わった。
シャルロッテが、拍手した。
「見事ね」
にっこり笑う。
「テーブルクロスで目隠しを作るとは、発想が面白いわ」
「褒めないでください。最初から止めてくれれば良かっただけです」
「それはそれ、これはこれよ」
テオはため息をついた。
その時。
「……テオ」
幕の中から、声がした。
エリザベートだった。
まだ中にいた。
(そうだ。気を失っていたんだっけ)
テオは幕をめくって中に入った。
「ローゼン……リザ、大丈夫か?」
エリザベートは壁際に立っていた。
顔が、真っ赤だった。
「……さっき」
小さな声だった。
「さっき、見た」
沈黙。
「……何を」
テオはとぼけようとした。
「あなたが」
エリザベートの目が、ゆっくりとテオを見た。
「女の人になったのを」
長い沈黙。
「……気のせいじゃないか」
「気のせいじゃないわ」
「暗かったし」
「明るかったわ」
「目の錯覚では」
「錯覚じゃないわ」
全部、真顔で返ってきた。
「きわどいメイド服を着た、綺麗な……」
エリザベートの顔が、さらに赤くなった。
「綺麗な……女の人が……」
目が、遠くなってきた。
「リザ?」
「……白馬の……」
「リザ」
「……王女様……」
「リザ!!」
ぱたり。
エリザベートが倒れた。
思い返して、またも脳がオーバーフローしたのである。
「おい!!」
テオが支える。
気を失っていた。
幕の外から、人が集まってくる気配。
「何があったんですか!!」
「エリザベートお嬢様!!」
ブルーノが飛び込んでくる。
テオはエリザベートを抱えたまま、幕の外に出た。
そして気づく。
きわどいメイド服のまま、エリザベートをお姫様抱っこしていた。
「……」
店内の全員が、こちらを見ていた。
「大丈夫ですか、ボス」
「大丈夫だ」
「エリザベートお嬢様は」
「気絶した」
「なんで?」
答えられなかった。
しばらくして。
エリザベートが目を覚ました。
目を開けて、最初に見えたのはテオの顔だった。
「……テオ」
「気がついたか」
「……うん」
ぼんやりとした目が、テオを見ている。
次の瞬間。
エリザベートの手が、テオの服に伸びた。
「……ちょっと待て」
「ここ、開けると……」
「待て」
「確かめたくて……」
「待てと言っている!!」
がばっ。
テオはエリザベートの手を両手で押さえた。
周囲の視線が刺さる。
「……何してるんですか、お嬢様」
ブルーノが、信じられないものを見る目をしていた。
「ちがっ、これは……!」
エリザベートが我に返る。
顔が、耳まで真っ赤になった。
「ち、違うのよ!!確かめたかっただけで……!!」
「何を確かめようとしてたんですか」
ブルーノは真顔だった。
「そ、それは……!!」
「見てた」
シャルロッテの声。
楽しそうだった。
「全部、見てたわ」
「殿下!!」
「いい場面だったわね」
にっこり笑う。
「ローレンツ、記録しておきなさい」
「承知しました」
「するな!!」
テオとエリザベートが同時に叫んだ。
店内が、どっと笑いに包まれた。
テオは天を仰いだ。
(きわどいメイド服。酔った兄。テーブルクロスの幕。気絶。脱がそうとする人。全部記録される)
(何も解決していない)
「ああ……」
「ああ……俺はなぜ異世界でこんな目に……」
きわどいメイド服のまま、テオの声は喫茶ベルンに溶けていった。




