第20話 守りたい女
メイド喫茶『ベルン』の朝は、いつも騒がしい。
厨房では皿の音が鳴り、ホールでは開店準備に追われるメイドたちの足音が響く。
その喧騒の中、店の入口に立った一人の少女を見た瞬間、空気がわずかに止まった。
「本日から働かせていただきます、クラウディアです」
そう言って、クラウディアは深く頭を下げた。
新しい制服はまだ馴染んでいないのか、袖口を少し気にするように指先が動く。
けれど、その仕草には妙な品があった。
安物のメイド服を着ていても隠しきれない、元は深窓の令嬢だった者だけが持つ、静かな気配。
沈黙を破ったのは、包帯姿のローレンツだった。
テオをはじめとして、ファミリーたちは登校前に店を確認しているのだ。
だから、ローレンツもここにいる。退院したばかりであるが、金の臭いの誘惑を断ち切れず、杖をつきながらやってきたのだ。
「……は?」
退院したばかりの顔で、目を剥く。
「なんでこの女がいるんだ!? 刺したぞ俺を!?」
「落ち着け。まだ傷開くぞ」
帳簿を確認していたテオが顔も上げずに言う。
「ぎゃー、もう開いてる!!」
指摘されるも遅し。すでに傷口は開いていた。
ローレンツの叫び声が店内に響いた。
だが、誰もあまり心配していない。
ブルーノに至っては腕を組んだまま、真剣な顔でクラウディアを見ていた。
「改心してくれたようでよかった」
そこだけは本心らしかった。
クラウディアは一瞬だけ視線を揺らし、すぐに頭を下げた。
「この前は……申し訳ありませんでした」
頭を下げたのはテオに対して。
ローレンツは腹を押さえながら前に出る。
「謝る相手、俺だろ!?」
しかし空気。
テオはクラウディアの肩に手をかける。
「うちの親が迷惑かけたからね」
後ろめたさから視線がクラウディアからずれる。
クラウディアがそこでようやく顔を上げた。
その一言で、店の空気が少しだけ変わる。
「それに、働かないと食べていけませんので」
クラウディアは静かに言った。
「復讐なんてしても、何も戻らないと分かりましたし。っていうか、お母さんが働きたくないからっていう理由で、私に復讐させて取り戻そうとしていただけだし……」
クラウディアの顔にも影が落ちる。
みんなが母親の事には触れづらい雰囲気。
ただ、諦めきったような静かな目だけが、これまでの不幸を物語っていた。
メイドたちも、構成員たちも、何となく気まずそうに目を逸らす。
テオだけは毒親という境遇に共感していた。
ただ一人だけ不機嫌な人物がいた。
エリザベートだけはじっとクラウディアを見ていた。
(……なによ、この子)
第一印象は、儚い、だった。
細い。
白い。
今にも折れそうなほど頼りない。
なのに、不思議と目を引く。
見ているだけで「大丈夫なのかしら」と声を掛けたくなるような、危うさがある。
エリザベートは無意識に眉を寄せた。
(しかも、元は貴族の令嬢……?)
それは、少し困る。
落ちぶれた令嬢。
薄幸。
品のある儚さ。
自分と少し被っていた。
いや、被っているだけならまだいい。
問題は――
(……客が好きそう)
嫌な予感しかしなかった。
開店後、その予感は早々に現実になる。
「……お、おかえりなさいませ」
クラウディアの声は少し震えていた。
まだ接客に慣れていないのだろう。礼の角度も浅いし、言葉もどこかたどたどしい。
けれど。
「……なんだ、あの子」
客の一人がぽつりと呟く。
「守ってやりたくなるな……」
別の客も頷いた。
クラウディアは慌ててメニューを差し出そうとして、危うく取り落としかける。
「も、申し訳ありません……!」
「いや、いいんだ。ゆっくりで」
客の声が優しい。
「無理しなくていいからな」
「……ありがとうございます」
クラウディアがほっとしたように微笑む。
その瞬間、店内の空気がふっと柔らかくなった。
放課後、テオやエリザベートが来てからも、それは変っていなかった。
見ていたテオは小さく息を吐く。
(強いな)
技術ではない。
教育された接客でもない。
あれは、本人が背負ってきたものの重さが生む空気だった。
隣ではエリザベートが、自分の客席を見ていた。
「こちらがおすすめです」
にこりと笑う。
完璧な所作。完璧な声色。完璧な誘導。
「は、はい」
客は頷く。
だが頷き方が少し硬い。
言うなれば、安心ではなく服従だった。
(……何、この差)
エリザベートの胸がざわつく。
自分の方が正しい。
接客の完成度も、礼儀も、所作も上だ。
それは間違いない。
なのに。
客たちの視線は、ちらちらとクラウディアの方へ流れている。
(私の方が“ちゃんとしてる”のに)
なのに、あの子の方が――
(……守りたいって、思われてる?)
その認識が生まれた瞬間、エリザベートは言いようのない焦りを覚えた。
自分は守られる側ではない。
ずっとそうだった。
強くあろうとしてきたし、実際そう振る舞ってきた。
けれど今、目の前には何もしなくても「守ってあげたい」と思わせる少女がいる。
それは、自分にはない武器だった。
言葉こそないが、そこには妹属性、あるいは不幸属性というものがあった。
「リザ、顔怖いぞ」
横を通りかかったテオが小声で言う。
「怖くないわ」
「いや怖い」
「怖くない」
否定するも、そこには般若がいた。
もしくは悪鬼ラークシャサ。
テオに対する不満の爆発。
だが、その視線は完全にクラウディアを追っている。
数日が過ぎる頃には、店内の客層に妙な変化が起きていた。
いつもならエリザベートの圧に怯えつつ注文していた常連客たちが、今日は妙にそわそわしている。
「クラウディアさん、こっちに水を」
「あ、はい……!」
「無理しないでな」
「重くないか?」
「持とうか?」
優しい。
とにかく優しい。
クラウディアが一歩歩くたびに、周囲の男どもが心配そうに見る。
エリザベートはその光景を見て、ぎり、と歯を食いしばった。
(何なのよ、あれ……)
対して自分は。
「エリザベートさん、いつものおすすめで」
「ええ。迷わなくて結構です」
「はい」
「ツンツンした仕草がいい……」
この“はい”は絶対服従の“はい”だった。
ローレンツがぼそりと呟く。
「ボス、客の顔が違いますね。っていうか、あの接客でいいんですか?」
「黙っていようよ。関わらない方がいい」
「はい」
疲れた顔のテオ。
直ぐにローレンツは同意した。
客がすこし切れたところで、テオは腕を組みながら店内を見回す。
「まあ、いい傾向ではあるな」
「どこがよ」
休憩時間となったエリザベートがやってきて、刺すような視線を向ける。
「客層が分かれた。リザは支配されたい層、クラウディアは守りたい層。商売としては幅が出る叱られたいと守ってあげたい。幅が広がったな」
「……分析しないで」
「事実だろ」
「嫌よ」
貴族の令嬢らしからぬ有様で、感情がそのまま声に出ていた。
テオは少しだけ目を丸くする。
「そんなに気にしてるのか」
「気にしてないわ」
「いや気にしてるだろ」
「気にしてない」
その時だった。
クラウディアがトレイを持ったまま、少しふらついた。
「あ……」
客席の角に足を取られ、身体が傾く。
とっさにテオが腕を伸ばした。
「危ない!」
がしゃん、と派手な音が鳴る前に、テオがクラウディアを抱き留める。
トレイだけが床に落ちて、皿が一枚割れた。
店内が静まる。
「大丈夫か?」
テオが覗き込む。
クラウディアは目を見開いたまま、彼の胸元を掴んでいた。
「……は、はい」
かすれた声。
頬が赤い。
客たちがざわつく。
「おい今の見たか」
「自然すぎるだろ」
「なんだあいつ……」
「男の娘のくせに!」
「いや、それはそれでありでござる」
エリザベートの中で、何かがぶちっと切れた。
「離れなさい」
気がつけば、低い声が出ていた。
テオとクラウディアが同時に振り向く。
「え?」
「そのままだと危ないでしょう。オタッキー、ブタッキー、チー牛の餌食よ。立てるなら立ちなさい」
クラウディアは慌てて離れる。
「す、すみません……」
「皿一枚で済んでよかったな」
テオは特に気にした様子もなく言う。
だが、エリザベートの胸は妙にざわざわしていた。
(何、この気持ち)
苛立ち。
焦り。
それから――
(……取られたくない?)
その考えが浮かんだ瞬間、自分で自分に驚く。
何を。
誰を。
どういう意味で。
全く整理できなかった。
全てを否定しようという焦りが胸を焦がす。
夜。
混雑も一段落し、メイドたちが交代で休憩を取っていた。
クラウディアは店の裏手で、小さく息を吐いていた。
「大丈夫か?」
声を掛けたのはテオだった。
紙袋からパンを取り出し、一つ差し出す。
「食べて。今日はよく働いたし、疲れているよね。甘いものは疲れに良いから」
「ありがとうございます」
受け取る指先が、少し震えている。
「慣れないことをすると疲れるだろ」
「そうですね。でも……」
クラウディアはパンを見つめ、小さく笑った。
「働いてお金を貰うって、こんなに安心するんですね」
その笑みは、少しだけ寂しかった。
「今までは、お金がないことばかり考えていましたから」
テオは少しだけ視線を逸らす。
「……悪かったな」
「テオさんが謝ることじゃありません」
「でも、親父のやったことには変わりない」
クラウディアは首を横に振った。
「それでも、ここで働かせてもらってます」
沈黙。
そこへ。
ばたん、と勢いよく扉が開いた。
「テオ!」
エリザベートだった。
裏手に二人きりでいる光景を見て、ぴたりと動きが止まる。
「……何してるの?」
「休憩だよ」
「そう」
短い返事。
だが目が笑っていない。
「クラウディア。休憩が長いんじゃないかしら」
「す、すみません」
クラウディアが立ち上がろうとした、その時。
ぐらり、と身体が揺れた。
「きゃっ――」
反射的にテオが支える。
「おい、大丈夫か」
「ちょっと立ちくらみが……」
ふわりと、クラウディアの髪がテオの肩にかかる。
それを見た瞬間、エリザベートの中で何かが完全に爆発した。
「……ちょっと」
低い。
ものすごく低い声だった。
「その子、今日はもう休ませた方がいいわ」
「いや、でも人手が――」
「休ませた方がいいわ」
圧がすごい。
「……はい」
テオは従うしかなかった。
そして、その夜。
閉店後の片付け中、事件は起きた。
魔力の流れが乱れたのか、疲労のせいか。
テオが厨房の奥で突然ふらついた。
「まずい……」
視界が揺れる。
身体の輪郭が曖昧になる。
次の瞬間。
そこに立っていたのは、見慣れない少女だった。
細い肩。
やわらかな髪。
整った顔立ち。
見惚れるほど綺麗な、女の姿のテオ。
「……え?」
たまたま皿を取りに来たエリザベートが、その場で固まる。
時間が止まった。
一瞬で理解が追いつかない。
知らない少女。
でも、どこか見覚えがある。
というか、夢にまで見た女性のテオそっくりだった。
いや、それよりも先に胸を衝いたのは――
(綺麗……)
だった。
女である自分ですら息を呑むような美しさ。
儚くて、危うくて、今にも壊れそうで。
それなのに、目が離せない。
「え、あ、いや、これは……」
女の姿のテオが明らかに動揺している。
その様子すら、エリザベートの庇護欲を刺激した。
(守らなきゃ)
その思考が、ごく自然に浮かんだ。
何から守るのかは意味不明だが。
「大丈夫?」
気づけば、エリザベートは駆け寄っていた。
「どこから来たの?」
「……リザ?」
「私の名前!?」
エリザベートの目が見開く。
初めて出会う少女が自分の名前を知っている。
そして、その少女はテオにどこか似ている。
次の瞬間には、顔が真っ赤になっていた。
(待って、声までいい……)
心臓がうるさい。
鼓動が速い。
頭が熱い。
何だこれ、と思う間もなく、視線が離せない。
「……夢?」
ぽつりと呟く。
「は?」
「そうよね。こんな綺麗な子が急に現れるなんて、夢に決まってるわ」
「いや夢じゃ――」
「夢ね」
断定だった。
エリザベートは胸に手を当て、ふらりと一歩下がる。
(落ち着きなさい、私)
(これは夢。幻覚。疲れてるだけ)
だが、どれだけ言い聞かせても、目の前の少女が綺麗すぎて説得力がなかった。
「……あなた」
「え?」
「私の家に来なさい」
「なんで?」
「いいから」
エリザベートは女テオの前に立つ。
まるで誰かから守るように。
そこへ、扉が開いた。
「あら」
聞き慣れた声。
シャルロッテだった。
テオとエリザベートがいるなら、何か事件があるかもしれないと、黙って店の奥に入ってきたのである。
凄まじい直感であった。
彼女は女体化したテオを見て、一瞬だけ目を細める。
そして、すべてを察したように微笑んだ。
「……面白いわね」
最悪だった。
テオは頭を抱える。
(終わった)
シャルロッテはくすくす笑いながら、エリザベートを見る。
「あなた、そういう趣味だったのね」
「ち、違います!」
「違わないわ。顔に出てるもの」
エリザベートは耳まで赤くなる。
女テオはその後ろで青ざめていた。
「待ってくれ、色々説明が――」
「いらないわ」
シャルロッテは楽しそうに言った。
「だって、その方が面白いもの」
その瞬間、テオは確信する。
(……絶対、ろくでもない方向に転がる)
そしてその予感は、たぶん今回も外れない。
そこでエリザベートの脳がオーバーヒートし、彼女は崩れ落ちる。
慌てて抱きかかえるテオ。
エリザベートはその柔らかい何かに包まれながら、気を失ったのであった。




