第十節「寵愛」
悪しき噂には続きがあった。
野心家、タリアスの濃い疑い。
その後に続くは……その息子、ティカシウのこと。
「ティカシウは体が弱く……幼い頃はよく伏せりました」
彼自身のことだろうに彼は名前で語る。
違和感もあるが、自分ごととして語るのは辛いのだろうと納得した。
「立つこともできぬ日もあり……
最も酷い時は、父に抱えられて礼拝に参加しました」
礼拝の不参加は許されない。
守家でも聞いたこの国の掟だが、思っていたよりずっと厳しく、重いようだ。
怪しい告発も、怪しい出世も、怪しい婚姻も許され、神官という灰髪の者の中で最も高い地位についたタリアスでさえ、少しの時間、自身の息子一人病床に置いておけないとは……。
「当然、ろくに祈りもできません。
神を讃える礼も、拍手もできずに、
床に横たえられているだけの日もありました」
この口ぶりでは何度もそういうことがあったのだろう。
「目立っただろう」
「それはもう。国で知らないものはなかったでしょう」
一昨日見た、劇場のような礼拝堂では、身分が高い者ほど、舞台……神の座す場所の近くへ席があった。
神を見るものは同時に自分より身分が高い者の背を見ることになる。
ティカシウは神官の息子なのだから、おそらく最前列に身を置いたはずだ。
「体は今も弱いのか?」
「いいえ、今——」
プラムバム神官の言葉は、途中で咳に代わった。
細切れの謝罪が掠れる声に紛れる。
ずっと喋り通しだ。緊張もしているだろう。
「水を飲みなさい」
頼んだ椀はまだだろうか。
「私のを使っても構わない」
「いえっ……そういうわけには……」
貴人——正確には貴人扱い——はこういう時に不便だ。
コッパーは袖で椀の口を拭って差し出す。
「私の強い望みはお前の話を聞くことだ。
早く汲みなさい」
「は、い」
そうしてプラムバム神官に水を飲ませる。十分に話せるまで、遠慮するなと念を押し、彼は両手の平ほどの椀の三杯分を飲み干した。
彼は深々と礼をし、飲み口を拭って、とりあえず元の場所へ戻した。
洗いに行かせると言ったが、そのままにしておけと伝える。
「ありがとうございます」
ようやく続きが聞ける。
……なんだったか。
確か……昔は体が弱かった、という……。
「……コッパー様、不思議ではありませんか?」
「……ん?」
続きにしては突飛な滑り出しだ。
何の話をしていたか私は取り違えていただろうか?
「……何がだ?」
慌ててはいけない。
動揺しなければ、彼等は続きを話し出す。
「……バルコタ家は強い。
他の神官を降ろす手段などいくらでも尽くせます」
そうだ、元は、彼がバルコタ家に嫌われている理由を聞いているのだった。
「……そう見える」
「神下の出自のタリアス。
それを迎え推薦したプラムバム家……そして、
長らく礼拝……神の御前で無礼な姿でいたティカシウ。
正当に訴え出る材料に不足はありません。
……なのに、私はまだこうしています」
「……ふむ……」
あの押しの強く、手段を選ばなさそうなグスタ神官。
陰湿に手を回すルニーカ神官。
その姉弟が、この国最高位に近い役職の三分の二の権威を持つのだ。
確かに彼らならきっと、後ろめたい出自の者などどうとでもしてしまえる……。
「……その理由が、わかっていると?」
「はい。……それは、私が、天使様に……
格別に目をかけて頂いているからに他なりません」
やはり、そうか。
彼を語るにおいて、天使の存在は避けられないだろう。
初めて会った時。天使アグは、集会に遅れてきたプラムバム神官に対しそれを咎めることなく笑顔で受け入れた。
そしてバルコタ家の目の前で彼らの仕事を奪って、プラムバム神官に与えた。
その一部始終をコッパーは見たのだ。
「アグ様は私を信じ、重用してくださっています」
——天使様のご寵愛だけで神官の座を死守していると
噂で聞くまでもなく、コッパーの目から見ても明らかに、天使は彼を気に入っている。
「私には身に余るような仕事や権限を、
天使様はお与えくださいます」
だが……それが、喜ばしいことばかりとは限らない。
天使があからさまにプラムバム神官を引き立てる時、彼が無邪気に喜んでいるようには見えなかった。
「ですが……グスタ神官やルニーカ神官もその様子を見ています。
私は恐れ多いと申し上げるのですが、
新しい仕事を完遂してみせることこそ、
彼らを認めさせる能力を示す機会だと、天使様はお考えです」
……そういうこともあるかもしれないが、立場と因縁と誇りと言うものがある。
バルコタの二人にとってはどう考えても逆効果だっただろう。
良かれと思ってされたことでも、時に強い孤独を招く。
「……何かきっかけがあったのか」
「きっかけ、とは?」
「……いや……」
……妙な質問をしてしまった。
プラムバム神官の身の上を聞いて、黒民奴隷は、彼との共通した立場、親しみのようなものを抱き始めている。
一方的で、仮初のものだ。油断してはならない。
「……何故、天使様の信頼を得るに至ったか、ですか?」
彼はそう言った後、ゆったりとした瞬きをする。
「……何故なのでしょうね……」
プラムバム神官は、少しだけ、可笑しそうに笑った。
だが楽しいのでないことはわかる。
失敗ばかりしているのを、誤魔化すような……。
「天使様は『有能であるから』と言って下さいます。
畏れ多いことです」
彼はまた隠した。コッパーにはそれがわかった。
……しかし、彼を責める気にはなれない。
コッパーはひとつ、彼と天使に関する考えがあった。
「バルコタ家の不興を買うのも無理はありませんね」
腰に回されていた真白い手が、噂の断片が、イメナータを恐れた私に対する細やかすぎる配慮が、それに繋がっている気がしてならない。
その予想が合っているのだとすれば……彼がそれを隠す理由も心境も、コッパーには恐ろしいほど理解できた。
「……いかがでしょうか。
大まかなところは、お話しできたかと……」
どれくらいの時間が経っただろうか。
彼の顔には疲れが滲んでいる。
コッパーも、今の話を一旦整理したいところだ。
お互いのためにも折良いところで帰してやらなければ。
「そうだな……」
コッパーは考えのために沈黙し、場が静まる。
そうなってすぐ、二人は部屋の扉を見ることになった。
この部屋に向かって駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。
長くなってしまいました。そろそろ章を区切りたいところ。




