えるとれ 26
ニンゲン、というのはあれら自身が自分たちをそう呼ぶわけではない。
あくまでエルエルがあれらをそう呼ぶのだ。
それもまた、神の真似事なのだろうとワタシは思っていた。
だから訊いたのだ。
エルエルを神と呼ぶのは、ニンゲンと名付けた獣自身がなのかと。
「そうじゃない。ワタシはただ名を伝えただけ」
エルエルはそう言って僅かに顔を歪ませた。
「たぶん、ワタシを勘違いしているんだと思う」
ことの始まりは、何の前触れもなく訪れたという。
イタズラ好きらしくエルエルが地上界のそばを走り回っていると、大概いつもその場に留まっている奇妙な獣を見つけた。
いわずもがなそれこそがニンゲンで、エルエルはそれらの存在が気に留まり、よく観察するようになった。
それらがいる場所の目印として、エルエルがいつも触れていた一本の大きな太い茎の草、その"キ"の先にある日突然"ハコ"と呼ばれるものが置かれていた。
そこに収められていたものこそ、サケだった。
サケ以外にも、ニク、カジツ、とおよそ獣が口にするものが入れられていた。
エルエルは中の一つである淡い赤色のカジツを口に入れ驚きはしたが、それで地上界に留まる方法に気がついたという。
しかしなぜハコがそんなところに置かれているのかわからない。
不思議に思うエルエルがその答えともいえることに気づいたのは、次にハコを見た時だった。
ハコには、前回描かれていなかった模様が刻まれていた。
同じ方向に向かう先が丸まった何本もの線と、その上には人間に似た頭だけがはっきりとしていて首から下が曖昧な存在の模様だ。
鳥でないことは一目瞭然のそれを自分のことだとエルエルは考えた。
前回にはなくて今回にあるのだとすれば、前回姿を現したことが理由だろうと思ったからだ。
だからおそらく、ニンゲンはエルエルの存在に気づいてはいたのだろう。
ハコはエルエルに与えられたものだった。
サケもカジツもニクも。
それは天使が神にすることと同じだ。
我らは神が決めるままに事を成し、神に全てを与える。
与えられるなどということを知らないワタシにとって、ニンゲンがエルエルにすることは神への行いそのままに感じられた。
しかし、エルエルに案内されてワタシが見つけたキは前回のものとは違うようで、ハコには何も入ってはいなかった。
「前に来た時から時間が過ぎていないからかな……。でも、待っていれば持ってきてくれるはずだよ」
エルエルはそう言うが、ワタシにはジカンというものがいまいちよくわからなかった。
曰く、それは風には関係の無いもの。
とはいえ天使であるエルエルにもその意味はわからず、ジカンというものをエルエルはハコにサケやカジツやニクが収められる間のことと理解していた。
そうしてワタシとエルエルが待っていると、言う通りあれらは現れた。
三匹のニンゲンはサケやカジツやニクを抱えていた。
待ちわびていたワタシはキから飛び降り、それを受け取りに行くと、ニンゲンは騒ぎ出した。
ワタシを指差し、キの上にいるエルエルを指差し。興奮している様子で喚くニンゲンの鳴き声は喧しかった。
しかしとにかくサケが欲しかったワタシが近付くと、ニンゲンはワタシの足下にサケとカジツとニクを並べ、その向こうで不意に膝を折った。
ただでさえ低い頭のさらに低く下げてワタシの顔を見上げ、一匹のニンゲンがボソボソと静かに鳴き始めたことで、それらが何かを言っていることに気がついた。
言葉だ。
思念声で得られる曖昧な感覚が、体を得たワタシにははっきりと音として感じることができた。
ニンゲンは、ワタシも含めて「エル」と呼んだ。
しかしそれだけがワタシの名ではない。
ワタシがベルエルであることを伝えたが、ニンゲンはワタシもエルとして理解してしまったようだった。
「また助けて欲しいみたい」
また、とエルエルが言うのは、前にも同じようなことがあったからだ。
その出来事こそ、エルエルを神として扱うきっかけだったのだろうとエルエルは言う。
つまり、今回もニンゲンはタベルことに困っているというのだ。
そこら中見渡せば見つかるものに困っているというのは、ニンゲンがどんな草でもタベルというわけではないかららしかった。
ニンゲンは、カジツや適当な草の他、特別に"コクモツ"という種の草をタベルようだった。
それには地の他に水が必要であり、しかしこの頃では地下界から滲み出る水が足りなくなる場所が増えているという。
だからエルエルは前回と同じく、ニンゲンに雨を連れてくることを約束した。
それでニンゲンが浮かべた明るい顔は、エルエルのそれと似ているように思えた。
それからワタシとエルエルは、ニンゲンが運んできたサケを体の色が変わるほど飲んだ。
さらに濃くなった体を元の色に戻すのに、ニンゲンの願いを聞くのは都合が良かった。
ワタシとエルエルは海へ行き、カジツを取り出した体にたっぷりと水を取り込んだ。
一体となり、巨大に変貌したワタシとエルエルは、大量の水を撒き散らしながら体がまた軽くなるまでニンゲンのそばを走り回った。
これもまた、神の真似事だ。
神の力である雨を我ら天使は体現することができるなんて、きっとエルエルに教えられなければ知ることはなかっただろう。
エルエルはただの天使ではないのかもしれない、と感じるようになっていた。
同時に。であれば神とは一体何なのか、疑問に思うようになった。
神は我らにも天上界の生命にも何も与えはしない。
話しかけてくることはあっても、我らからの話は同調を通してしか得ない。
しかし決めごとは絶対であり、守らないということをワタシは知りもしなかった。
エルエルだ。
エルエルがワタシを自由にした。自由を教えてくれたのだ。
ワタシとエルエルが起こした雨は、ニンゲンの"ハタケ"を潤した。
ワタシはまたサケを飲んだ。
それからは、エルエルとワタシが会うのは地上界に近いあの山の頂上となった。
とはいえ頻繁にそこへ行くのではいつ神に気づかれるともしれない。
だからエルエルとの待ち合わせは山の頂上のキにカジツが生る時とした。
繰り返されるエルエルとのヒミツの待ち合わせは何度に及んだか。
気がつくとワタシとエルエルには、ヤクソクが増えていた。
まずはニクを口にしないということ。
あれはどうにも香りが強すぎて、僅かに口にしただけでそう簡単に体から重さが消えなかったからだ。
そして地上界へ行く時には必ずエルエルと共に行くこと。
これはエルエルが決めたことで、あまり頻繁に姿を晒すとニンゲンが混乱するからだと言っていた。
このどちらもがヒミツであることは変わらない。
ワタシはこれを守り続けた。
ニンゲンからの贈り物は続いた。
いつも同じ、サケとカジツとニクだ。
きっと、エルエルとのヤクソクがなければ不思議に思うこともなかっただろう。
ニクはどうしてエルエルのハコに入れられているのか。
ワタシもエルエルも最初にひと舐めしてからニクを口にすることはなかった。
他がなくなってもそれは残し、それでもニンゲンはワタシとエルエルがニクを必要としないことに気づかなかったのだろうか。
ある時ワタシがエルエルにニクを不要だと伝えてはどうかと言うと、エルエルは名案とそれをニンゲンに伝え、ハコにニクが入れられることはなくなった。
だが、それもまた不思議だった。
どうしてニンゲンは、自分たちが口にしないニクをハコに入れていたのか。
わかるのは、あれらは神がニクをタベルと思っていたということ。
それが意味するのは、我らが神ではないまた別の神がいるということだろう。
地上界においてそれはひとつしかあり得ない。
ニンゲンは、【イグナス】を神として扱っているのだ。
神。
エルエルも、そしてワタシもそうだ。
これまで意識することもなかった神の存在は、こうしてひとつふたつと増えていくことで違和感のようなものへと変わっていった。
なぜ神なのか、神とはなんなのか。
ニンゲンにおける神エルは、エルエルのその名から付けられた。
では、我ら天使はなぜ【オウモ】を神と呼ぶのか。
【オウモ】が神と呼べと言ったわけではない。
神、は【オウモ】が自らをそう呼ぶから、我ら天使はそう呼ぶのだ。
何も与えず、神とは名ばかり。
その気づきがワタシにとっての神というそれそのものを希薄にしたが、どうしてか神の決めごとを守ることだけはしていた。
それからワタシは、エルエルにも言わず地上界に降りるようになった。
エルエル抜きで行く地上界は、余計に広く思えた。
聞かずとも知ることが多くある。情報は勝手にやって来る。
いずれワタシはニンゲンの扱う奇妙な形、"文字"というそれを理解するようになった。
あれらの"常識"というものを知った。
酒に種類があることも、果実に甘さがあることも。
数多く、無尽蔵に知識を窮屈な体の中に取り込んでいくと、その分自由を味わうことができた。
これがニンゲンのいう幸福というものだと、そう感じるようになった。
エルエルが明るかったのはきっとそのせいだ。
笑うということを覚えると、とても気分が良かった。
そんなワタシを見て、エルエルは何かに気がついたようだった。
「ベルエル。もしかして約束を守っていない?」
否定する理由が無い。
ワタシが頷くと、エルエルは厳しい表情でおれを睨んだ。
「秘密は? まさか神に知られていないよね」
知られたからといってどうなるというのか。
ワタシはもう神と同調する必要などないのではないかと伝えた。
「そんなことをしたら、神に怪しまれるよ。もし気づかれれば、神の怒りに触れる。もしそうなったら……」
不安げな表情を浮かべて言うわり、エルエルにも神の怒りが何を齎すのかわかっていないようだった。
しかしそもそも、なぜエルエルは神の怒りなどということを考えるのだろうか。
あれは寝てばかりでほとんど目も覚まさない。神など所詮名ばかりの存在だ、約束さえなければ秘密にする必要もないというのに。
ワタシが言うと、エルエルは怯えたあの顔をしていた。
そんなエルエルを空に置き去り、ワタシはまた地上界に降りた。
いつしかここにある香りが心地よいものだと感じるようになっていた。
酒の味も果実の甘さも、草や木の青い香りも。
地上界はワタシを魅了するもので満ちている。
ワタシは、この幸福を天上界に持っていくことに決めた。
エルエルが与えてくれたように、神のそばで大人しくしている天使たちにも自由を与えようと思ったのだ。
真似事ではない。
おれは、神が成さないことを成そうとしていた。
◯
視界を埋める数十本の木立の向こうで、今最後の生命が終わる。
残されるのは、ウシアタマのオスが一頭。
振り下ろされた蹄の足が直撃すると、五頭の内一番体の小さいヨロイオオカミはひと鳴きして沈黙した。
断末魔にしては短く、遠目では本当に死んでしまったのかと疑う。
だが、その期待ともとれる淡い懐疑心は撥ねた飛沫によって淡さを失った。
おそらく幼子であったヨロイオオカミは、生い茂る平凡な雑草の中で短い生涯を終えたのだ。
それは縄張りの多い輪の内側では日常の光景。
そこに疑問を抱けるのは、ただ何も知らない無知な者かもしくは。
「あいつはオオカミは食わないのか?」
ベルエルの質問に「しっ」と口元に指を立て、声を潜めてスズは言った。
「まさか、また?」
「ダメなのか?」
「いや、別にダメってわけでもないけど……」
スズは何か言いたげだが、その続きはどうやらまだ思いついていない。
ならばとウシアタマが去るのに合わせてベルエルが一歩踏み出すと、不意に鳴り響く。
振り返ったベルエルとスズの視線の先でジェニがターを奏でていたが、スズはそこに静粛を求めなかった。
だから音は流れ、旋律は木立の間を縫って先へ行く。
角の無いメスを抱いたまま、一度だけウシアタマは三人を振り返ったが、すぐに視線を戻し木立の奥へと姿を消してしまった。
それでもジェニの演奏は続く。
優しくそっと触れるような、労るようにも聴こえる旋律だ。
それがどこに向けられているのせよ、きっとそこには励ましも含まれているのだろう。
瞼を閉じたまま表情を変えないジェニの姿からは、不思議とそんな感情が窺えた。
その最後の一音がいつ来るのか。
待つというよりも探すように立てていたベルエルとスズの耳に飛び込んできたのは、思いもよらず叫び声だった――。




