えるとれ 25
口の中に入れた瞬間、まず先に感じたのは"温度"。
間もなく冷えた口内が僅かにでも温められ、小さな歪が生じる。
そうして歪んだ口の中の空気はまとまりを失って喉の奥へと伝達され、体内の別の隙間へとねじ込まれていく。
気がつくと体中が違和感に侵されており、特に胸の少ししたのところから上の頭部付近にそれは強く感じられた。
違和感の正体は温度ほど容易には感じ取れなかったが、後になって些細な煩わしさへと変わり。
そしてそれがだんだんと"重さ"なのだと思えるようになる。
どこからともなく体を引かれるような、故意のような感覚だ。
いずれ体内に留まっていた冷えた空気がぬるい風となって口や鼻の穴から押し出されていくと、ついでに目玉まで飛び出してしまうような気がした。
すると、熱くなる。
ついさっきまで重く感じていた胸から上が全て、内側から焼けるように。
突如生まれた異様な熱は、口や鼻から出ていった重さとは違ってじわりじわりと体の下部へと下っていった。
実際それは腕や脚にまで達することはなかったが、どうしてかその時は体全てが熱くなったように感じた。
時折感じるあの張り付くような熱さを体の内側に感じているかのようだった。
慌てて吸い込んだ冷たい空気は、蠢く違和感と熱と混ざり合い、伴って二度目に口から溢れ出していた空気は体の内側の熱をそのまま吐き出したかのようだった。
いや。
口なんて無かった。
喉も、目も、体も、きっとその時に初めて出来たのだろう。
◯
「ベルエル、どうかな?」
と、それは怯えたような口調で言った。
ワタシは、聞こえてはいたが返事はせず、筒に込められたその液体を一気に飲み干した。
「ねえ。ベルエル……」
急かすような言葉にワタシはそれをただ見つめた。
「どう、かな?」
覗き込み、窺うような目線。硬く結ばれた口元、その表情。
ワタシはそれが好ましく思わなかった。
だから無言のまま、二本目の筒をよこすよう言った。
うん、とひとつだけ返事をして、それはワタシに二本目の筒をよこした。
ワタシがそれを飲み干すと、それはまた「どうかな」と訊いてきた。
いい加減返事をしてやろうと思ったが、どうかと訊かれてどうとも答えられない。
考えあぐねてワタシは、他にはないのかと訊いた。
「もう無いの。こぼすと危ないし、これ以上は……」
またしても怯えたような表情で言うと、それはもっと欲しいかと訊いた。
ワタシもまた考えあぐねて、頷くだけはした。
すると、それは妙に明るい表情をしていたように思う。
気味が悪くてワタシはそれを睨みつけた。
それはそんなワタシを見てすぐに俯いた。
「あのさ。だったらまたここに来てくれる?」
何を言っているのかわからなかった。
訝しんでワタシがそれを見ていると、それは口を開くなり"ヒミツ"なのだと言った。
「見つかったら、怒らせちゃう。でもここならベルエルとワタシしかいないし、だからベルエルさえ秘密にしていてくれれば大丈夫……だから……」
懇願するように言うそれに何を思うこともなかったが、そうでなければ筒を渡さないというのであれば仕方がない。
そう思ってワタシはそれの言うことに承諾した。
その時もまた、それは明るい表情を見せた。
それからワタシとそれは度々"神よりも高い空"で会うこととなる。
それは毎度二本ずつ、"サケ"と呼ぶ不思議な液体を持ってきた。
その度にそれはワタシに幾つか知恵を与えた。
サケに始まり、ヒミツ。
ヒミツとは、神に見つかってはならない行いに付けられる呼び方らしい。
そして、ヤクソク。
それは、ヒミツを守る神の鱗のようなものであり、しかし形はないので自意識で守らなければならない。つまり、破れれば風に還るのと同じだという。
まるで神の真似事だ。
今までならばなんら惜しむこともなかったが、サケを失うのはどうしてか惜しいと感じていた。
だから守ると決めた。
それから、口に入れられるものはサケに限ったことではなく、他にもニクや草もそうすることができるらしいが、そもそも鳥や飛竜にも関係なく、ましてや天使には無理なことだと知った。
理由は定かではないが、天使にはニクや草のような形を得たものを腹の中で混ぜることができないため、口に入れても体の中に異物として残り続けてしまうらしい。
それら行為は"タベル"という。
それも一度だけ試して慌てて取り出したという。
その点サケは雨に似ているため、天使であっても混ざることができる。
カジュウも同じ理由で天使に合っているようだ。空を走ればいずれ消えてしまうのだと、それは言った。
そうして幾つか話を聞いて、それの名を知ったのは後のことだ。
「エルエル、って神がそう呼ぶの。ベルエルもそうでしょ?」
当たり前のことに頷くと、それだけで"エルエル"は明るい。
ちなみにそれだけでなく、ワタシには怠惰という性格が与えられていた。
よくはわからないが、特に何もしないでいいと神が言ったのだ。
しかしエルエルは、神にまだ性格を与えられていなかったようだ。
怯えて窺う好かない感じは、そのせいだと思っていた。
だからある日ワタシは、エルエルに性格を与えることにした。
「……イタズラ好き? それがワタシの?」
神の真似事がてら、妙に空以外を知ろうとするエルエルに思った性格を伝えると、エルエルはこれまでで一番明るかったように思う。
なんだか顔がむず痒かった。
するといつしか、ワタシはエルエルへの好ましくない思いが薄れていった。
もしかすると、エルエルには性格が無かったことが問題だったのかもしれない。
はっきりと性格が見えれば、見どころのある天使だと思った。
なにせワタシの知らないことを多く教えてくれる。
神にすら抱かない疑問が、エルエルにはできていた。
きっと体が似ているからだろう。
眠ってばかりの神に見つかる疑問は答えのために試す必要があったが、エルエルには必要ない。
思念声で得られるワタシとしての情報だけでなく、なぜエルエルがその光景を目の当たりにしたのかとか、そういうことが気になるようになっていた。
ワタシは他の天使と同様神のそばにばかりいてあまり空を走ることをしなかったが、それでも天上界より低いところに場所があることくらいは知っている。
地上界は、黒竜【イグナス】の領域。
空にいる我ら天使はいつだってそこに辿り着くことは可能だが。長くいることができないのは、あれの熱が凄まじくすぐに空へ押し返されてしまうし散り散りに消えてしまうからだ。
実際、そのせいで神は地上よりも遥か高いところにいる。
だが、思念声で得られるエルエルが見るものは草で満ちていた。
そこにはサケがあり、草や色とりどりの何かがある。
それと、あれは獣と呼ばれるものだ。
地上界を通り過ぎる時いつも止まって見えていたそれが、エルエルの思念声ではやけに速く動いて見えた。
もしやと思い、エルエルは地上界に留まれるのかと訊いたのはいつのことだったか。
エルエルは、久しぶりに怯えた顔をしていた。
「……どうしてそう思うの?」
ワタシは獣の動きが速いことを伝えた。
「やっぱり、そういう見え方があるんだ……」
そう言うエルエルはやけに苦しそうな顔をしていたので、ワタシがどうしたのか訊くと、エルエルはそれもヒミツなのだと言った。
「酒もそうだけど、ワタシが地上界に留まっていることを神に知られるわけにはいかないの。本当に怒られちゃう」
それでワタシはエルエルに神から性格を与えられていない本当の理由を知った。
エルエルは、神と同調していなかったのだ。
訊けばもう随分と神に会っていないという。
それも、地上界での留まり方を知ってからだそうだ。
そんな方法があることをワタシはもちろんのこと、きっと天使の誰も知らない。
どうしているのか訊くと、エルエルはワタシにヒミツにすることをヤクソクするように言った。
とはいえ、エルエルとワタシが会っていることはもうすでにその範疇だ。
今さら何を言っているのかと思いつつ、ワタシは承諾した。
地上界に留まる方法。
まず理屈は、天使が風であるため地上界の熱によって空に押し返されてしまうが、それは天使が軽いからだ。つまり、体を重くすれば地上界に留まれる。というもの。
自分自身の重さなど特段意識したことはなかったが、ワタシの知らないことを知っているエルエルがいうことなので信じる以外考えられなかった。
そしてその具体的な方法はというと、エルエルはワタシがもうすでに知っていると言った。
その後地上界のそばまでエルエルと走っていくと、とある山の頂上付近でワタシの前には、カジュウの素である"カジツ"が差し出された。
「食べて。そうすればベルエルは変われる」
しかしどうすればタベルのかわからない。
受け取ったカジツを眺めて何もせずいると、エルエルは飲むのと変わらないと言った。
言われるまま、ワタシはカジツをタベル。
口に入れた瞬間、温度を感じるまではサケを飲むのと変わらなかった。
だが、その後に感じられる重さの感覚はサケが体に混じりこんでくる程度の比ではなかった。
この時初めて窮屈であるということを意識した。
自由に空を走れる気はせず、怠惰という性格を与えられたワタシらしく、本当に動くことが面倒だと思えるほどに体は重たかった。
気がつくと、ワタシは地上界の地というものに触れていた。
しかしいったい自分がどうしているのかわからず、するとワタシのそばでエルエルが言った。
「やっぱり、ワタシとおんなじ」
それが自分の姿を意味するのなら、ワタシもエルエルと同様に"水を固めたような姿"なのだろう。
輪郭は光に紛れてほとんど判別もつかないほどに淡く、向こうの景色が歪んで透けて見えていた。
しかしそれは空で天使としている時とおよそ変わらない。
風の化身としての天使は、そもそもひとまとまりにしか感じられず、神を通しての思念声を覗くだけではエルエルのように個別の判断は付けにくいからだ。
そういう意味でエルエルは特別だったのだと、今さらになってワタシは気がついた。
それと同時に、神と同調することへの違和感を覚えたていた。
違和感。
サケを初めて飲んだその時に体内を侵していたそれを、エルエルは"香り"というのだと教えてくれた。
香りは、天上界には存在しない。
香りの全ては、地上界か地下界から風に混じってやってくるだけなのだと。
そしてそれはワタシたち天使にとって"重さ"として感じられる。
その重さには奇妙な性質があり、故に天使は地上界のそばにいる時に限って鈍く、草を揺らすほどに密集してしまうということのようだった。
いくら聞いてもやはりよくわからないことだった。
だが、重さが不自由だということだけは理解できた。
ワタシはサケを覚えてからというもの、それを失うことへの妙な焦りのせいで神との同調を煩わしいことだと考えるようになっていた。
そのせいでワタシは以前よりも多く空を走り、サケとエルエルのことを隠すことに努めた。
それはとても面倒なことで、これまで感じることのなかったその重苦しさこそ、ワタシにとっての不自由さに他ならない。
体とは神とは、不自由なものなのだと思うようになったのはこの時からだ。
そしてワタシは、サケが旨いということ、体を内から外から熱されるということの心地よさと、そしてもうひとつ。
エルエルが地上界の獣、特にニンゲンという存在に神として扱われていることを知った。




