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あれとれ 9

 元々は平らだったのだろうその石の床は、今となっては静かに波打つ水面のように僅かに歪んでいて、そのところどころで染みになりきれなかった水が溜まっている。

 風雨から守られているはずのこの屋内で、そんな雨降りの後のような光景が残っているのは、そこに水が撒かれたという単純な理由からだ。


 なぜ、屋内のそこに水が撒かれたのか。

 その理由をラナイは知っていた。


 ラナイが金色に輝く檻に追い込まれる直前、自分の体二つ分程度の狭い檻の中で視線を横切ったもの。

 その何ともつかない怪物が、それよりもずっと"長い"怪物を引きずって残した痕跡を、ここの係員がバケツの水で乱暴に洗い流すのを見ていたからだ。  


 一つ、長い怪物を"地竜"だとラナイは知っていた。しかし。

 それを引きずる宝石の原石を固めて作ったような、ところどころで光に赤く煌めく人型の生物を知らず。

 だが、その原石の人型の脇を歩く灰色のローブを纏った小さな人間には覚えがあった。


 それは、街の中に入る祭、ラナイの足にぶつかって雑踏に消えた小さな人間。

 その大きさにも特別なところはないし、着ているものもありふれたなんということのない灰色のローブだったが。

 目深に被ったフードの後頭部あたりに刺繍された"黒い涙目"が、間違いなくその人物であることを物語っていた。  


 ラナイは、気付いてすぐにそばの飼育員に「あれは誰か」と聞いた。

 そうして得られた答えは、「グリム」。

 それ以上の情報が何も得られないまま、そしてラナイは金色の檻の中にいる。


          ◯


 どこを見れば良いのかもわからないまま、なんとなくラナイが向けたその視線の先。

 ラナイに遅れて檻の中に入ってきたのは、爬虫類系の二つ頭と、それと同等に大きな塊を柄の先端につけた二本の大槌を手に持つ二足歩行の生物だった。


 どこかから聞こえる声は、それを"世にも珍しい双頭の竜人グリンドル"と呼んだ。 

 当然それもラナイにとっては知らない生物だったが、それだけでなく。


「西方より出でしは、当闘技場がガーディアン"ホワイトゴーレム"!」


 その"ホワイトゴーレム"という呼び名も知らないものだった。

 そしてわからないことはそれだけでもない。


(……だから、なんなんだ)


 ラナイは、どうして自分が檻の中に入れられているのかもわかっていなかったのだ。

 何も知らされず、話すと「黙っていろ」と言われるばかりで、ここがどこなのか、なぜ檻に入れられたのか、その何も教えてはもらえなかった。


 そうしてラナイが自分の置かれた状況を模索する最中にも、檻を見下ろす観客たちの歓声は響き。

 その中には最早聞き慣れた「なんだあれは」なんて声も混じっていた。

 ざわめきと歓声が入り混じる、混沌とした室内。


 何気なく振り返ったラナイの視線。

 通用路の奥に、見覚えのあるバンダナの小さな人間、イーリークラップの姿がいた。

 イーリークラップは、身振りで自分より少し背の高いがたいの良い別の妖獣人と話している。

 何を話しているのかはわからなかったが、(何か揉めてるのか?)ということは傍目に見るラナイにも理解できた。


「お―い! うさ耳ー!」


 この状況の説明を得ようと、ラナイは通用路に向かって叫ぶ。

 すると、その声に気付いたのかイーリークラップはちらとラナイの方を向いたが、返事はせず。

 ラナイの視線から隠れるように道の陰へと話し相手を押し込んで行った。


「……なんだよ、あいつ」


 イーリークラップの消えた通用路を見つめてラナイがぼやくと、「おい、ヌシよ」と声が聞こえた。

 ラナイが振り返ると、グリンドルが四つの目玉全てをラナイに向けている。


「何か用か?」

「ヌシ、口が利けるのだな」

「それだけじゃなくて、お前の言ってることもわかるし、匂いもわかるぞ。すごいか?」


 幾つかの感情を込めてラナイが言うと、グリンドルが鼻で笑う。


「ただ口が利けるだけ、というわけでもないようだ……。して、ヌシは何なのだ? ここでガーディアンといえば、バカな猛獣と決っているものだと思っていたが」

「それは、おれにもわからない。むしろこっちが聞きたいくらいだよ」


 そう言って頭を振り、「お前にはおれが何に見える?」。


「そうだな……言われる通り"白いゴーレム"か、もしくはガーディアンであろうな」

「……あ、そう」


 雑談を交わす二人。

 すると観客たちからは不満を露わにする「何してやがる」と野次が飛び、それに感化されたのか、檻のそばにいる係員が「早く始めろ」と檻を打ち鳴らした。


「早くもなにも、何すればいいのかわからないんだよ」


 苛立って檻を叩く係員にラナイは言った。


「やるんだよ! そこにいる相手と戦うんだ、このバカ!」

「なんでそんなことしなきゃならないんだ。おれはただ、道を聞きに来ただけなんだぞ?」


 ラナイが言うと、係員が絶句する。


「お前まさかっ、まだ理解してなかったのか!?」

「理解って何をだ」


 とその答えに係員は空いた口が塞がらない。その時だ。

 

「ヌシにやる気が無いのならば、ワタシは不戦勝でも構わないぞ」


 グリンドルが二人の会話に割って入る。

 対して声を荒げたのは、係員で。


「ふざけるな! 客どもが見たがっているもんをあんたも知ってるだろ!? 不戦勝なんざ、【アーハイム】のポロトロス始まって以来の大失態だ!」


 そう言ってさらに、「んなことになったら、お前をバラバラにして学者どもの研究材料にするからな!」と脅すような言葉をラナイに吐き捨て、係員は足元の石を投げつけた。

 そんな態度に、グリンドルの表情が歪む。


「貴様、それが命を賭けて戦う者への態度か……?」


 静かな声、しかし漏れ出したその殺気に押され、係員は口ごもる。


「こっ、こいつはウチのもんだ。どう扱おうが……お前には……関係……ないだろ……」


 気圧され、徐々に声を小さくした係員は、最終的に舌打ちをして檻に背を向けた。

 その背中に「ふんっ」と鼻息を当て、「とはいえ」とグリンドルは観客を見回した。


「彼らの期待に応える必要はあるだろう。どうだ、ヌシよ。ワタシと手合わせ願えないだろうか」

「それは、意味もなく戦えってことか?」

「……期待に応える、それだけではダメだと?」

「おれには関係ない」


 ラナイが言うと、グリンドルは「ふぅ」とため息をつき、


「ならばこうしよう。ヌシがワタシと闘い、そして勝てたのならば、ヌシを開放することを約束する」

「そんなの、自分で考えるよ」


 そう言ってラナイが頭を掻く。

 その耳の穴に、「ふんっ」とまたグリンドルの鼻で笑う音が聞こえた。


「ここはポロトロス。そう簡単に逃げ果せると思うな。ここには、凶暴な野獣どもを調教する強者がいる。彼らは恐らくワタシかそれよりも強いと考えても良いだろう。それを複数も相手にすれば、如何に腕に自信があろうともただでは済まんぞ?」

「……なるほどね。だったら、お前はどうやっておれを逃してくれるんだ?」


 それは、ワタシを倒してから訊いてみよ。

 言ってグリンドルは二本の大槌を構えた。

 

(参ったな……)


 とラナイがため息を飲み込んだ次の瞬間、轟音と共に風が起き、そして石つぶてが降り注いだ。

 顔に当たる石つぶてを気にもせず、ラナイが見つめる先。

 そこではグリンドルもラナイを見つめていた。


 しかし、そこに込められたものは会話の時のそれではなく、間違いのない闘志。

 

 このまま無防備でいることも可能だったが、その覇気にあてられ、ラナイは無意識に構えていた。


「行くぞっ!」


 グリンドルは掛け声と、そして雄叫びを上げた。

 そして、右手に握った大槌を勢い良く振り下ろす。

 それは目標に当てるための一撃ではない。

 

 叩きつけた大槌の反動でふわりと体を浮かせたグリンドルは、地面にめり込んだそれを支点にして回転。

 次の二打目も地面に叩きつけた。

 長いリーチもあってほんの二打でラナイの目の前一メートルほどの位置に振り下ろされたそれは、先と同じくつぶてを飛ばし、ラナイの視界を曇らせる。


 普通なら目を瞑ってしまってもおかしくない状況。

 だが、ラナイは目を閉じていなかった。


 おかげで二打目の反動で自分に振り下ろされるグリンドルの足の軌道がよく見えていて、二度の回転により素早さを増したその鋭いかかと落としを容易に、"受け止める"ことができた。


 本人にとっては、咄嗟とはいえ当たり前の防御行為だった。

 しかし、技を放ったグリンドルにとっては意外のことに外ならず。

 一瞬驚愕、そして掴まれた足を解くとために一度ラナイへと縦に向けられた軌道を横の軌道と変えて、体軸を横回転させた。

 衝撃で、一度締めたラナイの指が弾かれる。


「おっ……と」


 指を弾かれた衝撃に驚き、それを散らすように手首を回すラナイ。


「いい目をしている。怪力と……それに、戦闘経験も素人というわけではなさそうだな」


 また間合いを取り、グリンドルが言った。


「体はね、そうみたいだ。けど、おれには記憶がない。だからこういうのはただの勘でやってるんだ」

「面白い奴……っ! 気に入ったぞ!」


 吠え、次にグリンドルは大槌を振るわなかった。


 代わりにグリンドルが見せたのは、傍目にも肺が膨らんでいるとわかるほど大きな深呼吸。

 それが三度目の"吸い"で、ラナイにも彼が何をしようとしているのかわかった。

 その飛んでくるものを妄想し、ラナイは肺の中に溜まった空気を限界まで吐き出す。

 そして。


 グリンドルの二つの口からは二筋の白い風が吐き出された。

 それは絡み合い、ひと束の太い綱のようになってラナイに襲いかかる。

 

 そうして飛んでくるものが予想とは違い、若干慌てたラナイだったが、一度吐ききったものを戻すためにできることは一つしか無く。

 できるかどうかも考えずに、大口を開けてその白い風の綱を飲み込むつもりで息を吸い込んだ。

 するとそれはみるみるラナイの喉奥へと引き込まれていく。


 出来上がった不気味な口移しの構図は観客たちの声を奪い、それだけでなく息を止めた。


 相対する二人には聞こえないことだが、広い室内には幾度目か、また静寂が訪れていたのだ。

 隣、銀の檻で行われる戦闘すらも中断するほどの衝撃的な光景。

 係員も含め、全ての視線がそこに集まっていた。


 まるで麺でも啜るかのようにグリンドルの白い風を吸いきると、すぐにラナイの口からは密度の濃い靄が溢れ出し。

 それは雲となって宙へ浮き上がって、広い天井の空間に溜まって空を作り上げた。

  

 すると室内には「なんだと」とラナイには覚えのある空気が漂う。


「……またか」


 と、思わず漏らしたため息は黄色の息。

 慌てて口を抑えるが時すでに遅し、口に戻しきれなかった黄色の息が指の隙間から溢れた。

 どこか気まずい気分で静かな周囲に視線を巡らせるラナイ。


 観客たちは皆一様に唖然としていて、まるでラナイには興味が無い様に見える。

 では何を気にしているのかといえば、それは過去だ。


 今は終えた、つまりは"さっきまで"の光景に支配されて、彼らは皆身動ぎを忘れてしまっていた。

 音のほとんどを失って、見るべきものすらも見失って。

 挙句その原因であるラナイすらも静寂に飲み込まれそうになったその時。


 観客席の高いところで一人静寂に飲まれず、両手を振り回し身振りで何か伝えようとしている人物が目に入った。

 その艶の美しい黒髪少女は、小さな体で大きな口を開け、どこかを指差している。


(た……ん……す……?)


 言っている意味がわからず、ラナイがどことなく檻の中を見回す。すると。


「もうっ!」


 と例の憤怒が聞こえ、「チャンス! ラナイ!」。

 

 その声に反応したのは、ラナイだけではなかった。

 観客たちのざわめきが戻り、そしてグリンドルが咄嗟に大槌を振るう。

 

 猛進してくる正体不明の生物に恐れをなしたグリンドルがそうして放った一撃には、今までみせたものとは全く違う威力が込められていた。

 宛ら"トドメの"とも取れる強烈な一撃。

 それは、目前に迫るラナイの頭部目掛けて打ち下ろされる。


 ガチンッ、と金属の打たれる音と共に細い閃光。

 追って周囲に起こった"痺れるような振動"によって前列の観客数人が腰を抜かし、大勢が手に持っていた酒瓶を手放していた。 

 それはアレも例外ではなく、しかし彼女が崩れ落ちそうになったのを隣にいた太った男の妖獣人が受け止めた。


 それら全ては一瞬の出来事で。再び訪れた沈黙の中、グリンドルは独り我に返ったかのように「ハッ」と息を漏らす。


 持ち主の頭部を模した両端の潰れた四角錐型の先端。

 それが縦に重なって、間違いなく目標に命中していた。


「な、なんということだ……っ」


 グリンドルは武器から手を離し、頭に大槌をめり込ませたままうつ伏せに倒れて動かないラナイのそばへとしゃがみ込んだ。

 恐る恐る、「ヌシよ」と声を掛けるもそこに寝そべる白い人型はピクリともせず。


 それを合図にバラバラと周囲に声が戻り、そして出しどころを探るようなまばらな拍手と囃し立てるような声が、一度失われた室内の熱気を呼び覚ましていく。

 少し時間が経ってようやく騒ぐべきなのだと自覚した観衆は、一つになって闘技場に熱を取り戻す。


 そうして観客たちが戦士グリンドルの勝利に各々感情を露わにする中、小さな異変が起きていた。


 それは銀色の檻での出来事。

 観客たちが熱を取り戻したのと同じく、自らのやるべきことに焦点を合わせた一人の戦士と対峙する一人の使役者をよそに、使役されるべき大粮"リムル"は吠え続けていた。


 隣の金色の檻の方を向いてただひたすらに。

 それは"必死に"といった方が良いかもしれない。

 リムルは、全身に力を込め、何かを威嚇し続けているのだ。


 困惑した"リオ"がいくら命令しても聞かず、対する妖鳥人"アイシャ"は一度振り上げたサーベルを下ろすしかなかった。


 そうしてやっと異変に気付いた観客たちは、再び乱れた流れを「どうした?」「何やってるんだ?」と案外冷静に事態を飲み込もうとしていた。

 いつしかリムルの吠え声以外に呆れたため息だけが聞こえるようになり、状況の悪化を鑑みたポロトロス側が金色の檻に目隠しを被せるために動き出した。


 すると、拍子抜けのざわめきが室内に立ち始め。

 いずれ吠えと巨大な布を引きずるバタバタという音が目立つようになった。

 そんな状況だ。

 会場を去ろうと一人、二人席を立ち始めた。そして。


 突如、室内にいた全員が"正しい"異変を察した。

 いや、それは察したというものではなく、感じた。

 全員が全員、同時にその"匂い"を捉えていた。


 しかし出処がわからず、あちこち縦横無尽に視線が飛び交う室内。

 それが一点、ブレずに金色の檻を向き続けるリムルへと向けられるのにそう時間は掛からなかった。


「リ、リムル……?」

  

 それまで叱咤するように投げ掛けていたリオの声が生じた異変によって消沈していた。

 

 以前止まぬパートナーの声に、リオが視線を合わせたのはこの時だ。

 駆け回るポロトロスの係員によって覆われた金色の檻、その目隠しと床との隙間から薄く黄色み掛かった何かが漏れ出していた。


「なんなの……すごい匂い……」


 リオが観客含め全員の中で二番目に異変の出処に気付いた者だった。

 そうして、一人と一匹が見つめる金色の檻。

 二人が目の当たりにする異変の正体は、目隠しの布を端から徐々に短くしていった。


 見た目には焼けて縮れていくようにも思えたが、それぞれの鼻に感じるのは物の焼ける匂いなどではなく、刺激臭。

 ジリジリと、下部から縮れていくそれが"溶けているのだ"と気付いたその時。


 幅の広い巨大な布の至る所に穴が空き始め、瞬く間にその穴は広がっていった。

 布が消えて失くなるまでに掛かった時間は一分か二分か。


 再び顕になったそこに金色の檻はなく、床は抉れたように歪んでいて、そのへこみには何やら薄茶色の濁った液体が溜まっている。

 その中心付近では大きく胸を膨らませたグリンドルと、


「あれは、なんなの……?」


 大槌を後頭部にめり込ませたまま、手足を地面につけ、蜘蛛宛らの格好で対峙する白い怪物の姿があった。

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