あれとれ 8
己が心臓を外側に錯覚するかのような、重く力強い太鼓の音。
そこに鳴る弦楽器の旋律は宙に浮いた心臓を繋ぐ血管となり。
恐らく歌詞のないその楽曲が、湧き上がる歓声によって歌われ、広い空間に出来上がった心臓と血管を巡る血となって熱を帯びる。
その何者かの体内を彷彿とさせる熱い空間。
入ってそのまま一直線の視線には、天井から滑車に吊るされた四本の重厚な鎖以外何もない。
それを伝って視線を下げると、長いベンチが層になって出来たすり鉢状の客席が、部屋の中心の奈落にある金色と銀色二つの巨大な檻を見下ろせる高さで囲んでいる。
その長い席には大小様々な大勢の人々が座っているが、そのほとんどが檻のそばに集中していて、席の中腹より上にはあまり人が座っておらず。
そしてその大勢は、興奮した様子である一点を見つめていた。
そんな熱い視線を一身に集めるのは、檻の上に立つ一人の男。
大きな白い猿顔の面とくたびれたズボン以外に何も身に着けていない男の露出した体は、腕の外側と背中だけが焦げ茶色の体毛で覆われており、腰の付け根のあたりからは体毛と同じ色の毛の太めの長い尻尾が生えている。
荒れた長い髪と尻尾を振り乱し、男は足場の悪い檻の上で踊っていた。
「…………」
何が起きているのか、これから何が起こるのか理解できないまま、アレはすぐそばにある長いベンチの一角に腰を下ろした。
そうして視線が低くなると、この広い空間は余計に広く感じられ、音は空中に溜まっているわけではなく足下から鳴っているのだと気付いた。
男の踊りが続く中、すると「さあさあ、観客ども! 準備ができた!」とまたあの声が響き、それを聞いて観客たちはさらに熱狂する荒々しい雄叫びが上がる。
「闘神"ロード"の名において、開門せよ!」
どこかから聞こえるその声に合わせて、白猿面の踊り子が銀色の檻の端に繋がる鎖の片方を引き下げるような仕草をし始めた。
それに合わせて滑車の回るガラガラという音が鳴り、檻の客席側の両面がゆっくりと引き上げられていく。
自分がどうしてここに案内されたのか。
その答えが檻の中にいるのだと感じたアレは、初めに座った席からさらに三段分階を下げ、檻の中を覗き込んだ。
すると何が何だかわけがわからないアレにとってはどうでもいい呼び声が響き、声に導かれるようにして客席の下から何かが檻の中へと入ってくる。
そこに"いる者"を見て、アレは嘆息した。
頭に浮かぶのは、「だから何」だ。
まず、アレが見たのは大剣を担いだ全身鎧の大きな人間。
それを【ディーズベルグ】の妖獣戦士"アストラ"だと、声は呼んだ。
反対方向から姿を現したのは、"ホロキマイラ"。
それは像のような大きな耳を持つ獰猛な牙の生えた獅子頭を持ち、体に毛は生えておらず、しかしその最大の特徴は見ればすぐに猛獣と判断できるその筋肉質な巨躯だろう。
それらは、檻の蓋が閉じられるなりすぐに戦闘を開始した。
先制したのはホロキマイラの方。
対するアストラは、構えた大剣を振るう間もなくそれを盾に使った。
しかし、アストラがそれなりに大きな人間であったとしても、その二倍はあろうかという猛獣の力を剣一本で受け止めるには至らず、そのまま吹き飛ばされて檻を激しく鳴らした。
それがゴングとばかりに咆哮を上げるホロキマイラ。
飛びかけた意識を取り戻すかのように頭を振って立ち上がったアストラに再び襲いかかる。
その獰猛な爪がアストラを捕らえようという一瞬、僅かに早く気を取り戻したアストラは咄嗟に体を転がせて一撃を回避。
ホロキマイラの空振りが檻にぶつかり、また激しく鳴る。
一体何で出来ているのか、銀色の檻は猛獣の一撃にも傷ひとつ付かず。
その固さに自爆ダメージを受けたホロキマイラが悲痛な叫び声を上げた。
それを好機とばかりに、アストラは大剣を振るう。
素早く縦一線に振り下ろされた一撃は、一瞬沈黙した室内に、ブオン、と鈍い風の音を鳴らし。そして猛獣の悲鳴を呼ぶ。
ホロキマイラの太い前足は大剣になぞられた通りに切り裂かれて、その傷口からはだくだくと血液が溢れ。
アストラが刃に纏わりつく血を振り払うと、その飛沫は大剣の持ち主ではなく、石の床と痛みに呻き声を上げるホロキマイラに飛び散った。
すると観客たちが一斉に湧く。
吠え、叫び、鳴らし、叩き。
皆それぞれに、やりたいように興奮を露わにする光景は、正しく熱狂している状況である。
だが、その端でアレは未だ首を傾げていた。
「……だから、何なの?」
思わず呟いたその声に、二段下の太った男の妖獣人が振り返る。
「へえ、姉ちゃんまだ若えのに賭博かよ。不良だねぇ」
「"とばく"っていうのは、"かけ"と同じ意味の言葉なの?」
「知らねえよ、そんなことは。昔っからそう呼ぶんだからよ」
「ふーん……」
「ところで姉ちゃんは、誰に賭けたんだ? 今やってんのは銀の檻だから、まあ言っちゃあ"前座"だけどよ。やっぱ、ゴーレムに賭けたんか?」
「ううん、違うよ。私は名前の無いところに"かけた"の」
そう聞くと、男は変な顔をしておかしな声を漏らした。
「大穴狙いとは、そりゃ勝負に出たな。姉ちゃん」
「そういうものなの?」
「あったりまえだろう……だって今日は、グリムが来てるんだぞ? あいつのゴーレムが出場するってことは、少なくとも決勝まで勝ち進むことが決まってるってなもんよ」
「そういえば、カウンターの人もそんなこと言ってたわね……。もしかして、そうじゃないとお金が倍にはならないの?」
男は「いいや」と首を横に振る。
「そうとは限らねえけど……定石ってもんがあるだろ?
喉が乾いたら酒。"コンセキ"は半分換金、半分は賭け用に取っとくとかよ」
そんな男の言葉にアレが「なるほど」とひとり納得していると、観客たちのざわめきが分厚い歓声へと変わった。
それを聞くなり男は、「おっといけねえ」と檻へと視線を戻す。
二人の見つめる先では、始まりと終わり、そのどちらもが用意されていた。
一方金色の檻では、そこでひとつの闘技が始まろうとしていて、
もう一方銀色の檻の中では、ひとつの戦闘が終わりを迎えようとしていた。
それ故に湧き上がる歓声も二色で、アレが気になったのは終わりへと向けられた歓声だった。
アレの向けた目の先には、檻の隅に追いやられたアストラとその正面で血と涎を撒き散らしながら興奮した様子で乱舞するホロキマイラの姿があった。
その構図からしてアストラ危うしということはひと目に明らかだが、問題はそれに留まらず。
アストラが鉄兜を失っていることと、手に握りしめているものが心ばかりの刃を残した"柄だけ"になっているということ。
それがつまり、戦闘の終結を予期させていたのだった。
満身創痍の猛獣に武器を無くして追い詰められた妖獣人。
どちらが勝利をおさめるのかは一目瞭然だ、ということだろう。
それを見て興奮する観客たちからは、「早くやれ」「負けたら許さねえ」などなど、檻の中にいる者の苦労を知らない身勝手な罵声が飛ぶ。
「…………」
その様子に神妙な面持ちで見入るアレ。
するとさっきの男がそそくさとアレの隣にやってきて腰を下ろした。
「ありゃダメだな。アストラは殺されちまうよ」
檻の方を見つめたまま、男はそう言った。
そんな男の言葉に、アレは「そうかな?」と応える。
「なんだ姉ちゃん。まさかアストラがひっくり返すと思うのか?」
「それはわからないけど。あの人、まだ諦めてないよ」
見て、とアレが指差す檻の中では、威嚇して咆哮を上げるホロキマイラを目前にして自らの鎧を一つ、また一つと外すアストラの姿が。
そうして下半身に最低限の装甲を残してほとんど無防備になったアストラは、両手の平を広げ、不思議な戦闘姿勢を取る。
「何するつもりだ?」
「たぶん、あの人格闘家だよ」
「は? だったらなんで剣なんか……」
「そんなの決まってるわ。それはあの人が――」
アレがその答えを言う前に、状況は動く。
それまでアストラの動きに警戒していたホロキマイラが、しびれを切らして突進。
太い檻の格子を唸らせるほどの激しい一振りが、隅に追いやられていたアストラを隠した。
途端に歓声。
しかし、そこに誰もが予想していた血しぶきは生じず。
遅れて自身の空振りに気が付いたホロキマイラは、一瞬後ろ足立ちになって反転し、檻の中をその大きな瞳をぐるぐる回して見つめる。
だが、そこに探しものはない。
その瞬間は、観客も猛獣も一心同体だったに違いない。
息の音すらも聞こえなくなるほどの真っ青な静寂が、室内に訪れていた。
「な、なんだ? アストラは……」
檻の中の猛獣とおなじくその半月耳の妖獣人を探す男。
そんな男にアレは、「あそこ」と見るべき場所を指し示す。
それは、檻の天井。
間抜けにも地面に視線を巡らせるホロキマイラのその真上で、格子から溢れる雫のようにしてアストラはいた。
そして次の瞬間。
格子から真っ逆さまに落下したアストラはその両手を突き出し、"潜った"。
その光景を目の当たりにして、男もそしてアレも言葉を失っていた。
ホロキマイラの胴体に落下したアストラは、まるで水に飛び込むのと同じようにして血の一滴もこぼさせずに猛獣の体内へと潜り込んだのだ。
それは通常、いや、何がどうしたってあり得ないような光景だった。
何をどう無視してそれが起きたのか。
答えは飛び込んだ本人にしかわからない。
それから起きたことは、誰にでも理解できたはずだ。
突如ホロキマイラの口から這い出たアストラ。
体中を血で濡らし、彼が地面に着地してもホロキマイラはあんぐりと口を開いたまま身動きすらしなかった。
つまり、皆が目の当たりにしたのはホロキマイラの敗北。
何がどうなったかはさておき、それだけは確かに目に焼き付いたはずだ。
「こりゃあ、番狂わせだ。まさか新人がガーディアンを殺っちまうとはよ……」
男がまだ呆然としながら呟くと。
「やっぱり、あの人アリアスだ」
平然としてアレはそう言った。
「ア、アリアス? そうか、なるほどな……。それにしても、なんでわかったんだ? あいつ見た目は俺たちアトニム人と変わらねえのに」
「戦い方が二つあるなら、そうなの」
当たり前のようにアレが言うと、男は感心して息を漏らした。
「つまり戦ってみればわかるってことだな……。いやしかし、姉ちゃん若えのに実力の見極めなんかできるとはねぇ……」
「まあ、見慣れてるから」
「へえ……」
二人が世間話じみたそんな話をしながら、係員に回収されていくホロキマイラと歓声に答えてポーズを決めるアストラを眺めていると、再び熱い歓声が上がる。
「あっ! なんだ、もう終わっちまったのか?」
歓声に引かれて金色の檻へと目を向けると男はそう言った。
遅れてアレが向けた視線の先。
金色の檻の中では、もう"後片付け"が行われていた。
とはいっても、それは箒で丁寧に床を掃くような光景ではなく、檻の縮尺を小さく錯覚させるほど大きな、短い足の生えた蛇が観客席の下へ引きずり込まれていくというものだった。
それだけを見れば、勝ったのは蛇の方にも思える。
しかしそれは、観客席の下へと徐々に姿を隠していく大蛇が残していくものが"血痕でなければ"だ。
「ねえ、ゴーレムが勝ったの?」
毛筆の"はらい"のようにかすれて残されたその筋が、バケツの水で洗い流されていく様子を見ながらアレが言った。
「ああ、間違いない。ああやって自分が倒した相手の片付けを手伝うのは、グリムのパフォーマンスみたいなもんだからよ。そんでバラバラにしないのは、マナーだって誰かが言ってたぜ」
そう言ってあっという間に空っぽになった檻の中を覗く男。
同じくそこを見つめて、アレは「へえ」と漏らし、眉間のシワを解いた。
そうしてほとんど同時に空になったそれぞれの檻の中では、二人に増えた白猿面の踊り子が、例の如く踊りながら何か水のようなものを撒いていた。
それは、"浄化"なのだと男がアレに教えた。
互いに恨みっこなし、終結のゴングの代わりに全てを水に流す。というそれがポロトロスのやり方だ。
それを聞いてアレはまた「へえ」と声を漏らし、どこか清々しいような顔をしていた。
それが、再び眉間にシワを寄せたのは、次に始まる試合の呼び声を聞いた時だ。
金銀同時に蓋が開かれたその金色の檻。
「西方」と呼ばれて姿を現したのは、"ホワイトゴーレム"。
しかし、槍で突かれて、挙動不審にキョロキョロしながら檻の中へと入ってきたその真っ白な卵頭は、どう見ても……。
「ラ……ラナイ……?」
だったのである――。




