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えるとれ 16

 その日が暮れるまで、ジェニが野獣の鳴き声を奏でた回数は十回。

 それでも三人がやって来た野獣と相まみえたのは、三回ほどしかなかった。


 一応音に釣られて野獣はやって来るものの、姿をちらと見せるだけですぐに隠れてしまうのは、「この辺りではオマエたちが強すぎるからだ」とジェニは言った。

 

 野獣たちは、人に比べて五感が鋭いが、その中でも特に嗅覚と聴覚が研ぎ澄まされているものが多く。

 耳を騙せても、鼻で強い獣だとバレてしまうのだ。


 しかし輪の内側を歩くにおいてそういうことは日常茶飯事で、補助策として体臭を隠す香水もあるにはあるが、スズの大荷物にもそれは含まれていなかった。

 ならば捕らえた野獣の体液を塗って誤魔化す案もスズから出されたが、それはこれまでの野獣の分布を狂わせる結果になるかもしれないということで廃案とされた。

 

 おかげで道のりは多少難航し。

 ジェニの予想では一日あれば着くはずの【小心者の拠点】に辿り着くことは叶わなかった。

 

 それでも、「明日には辿り着けるだろうさ。最後に現れたのは、"ヨチヨチザル"だったからね」。

 だから、最低なら後二回ほど野獣を呼び出し、そこで同じ野獣が連続して現れればその先に【小心者の拠点】があるはずだ。


 その"後二回"を確実に見極められるか、それがこれまでの十回分の演奏と残されていた野獣の死骸を踏まえたジェニの判断に懸かっている。

 そして、ジェニにはその自信があった。


 曰く、「伊達にお荷物をやっていないさ」。


 前線に立たず、あくまで補助に徹してきたジェニだからこそ得られた特別な知恵があるからだ。

 そういうジェニ特有の能力は、単に観察力というだけでなく、日々変化する輪の内側の植物の群生状況を加算して分析するところにある。

 つまり、洞察力が優れているのだ。


 目視ではいまいち気づきにくい大地の起伏、立っている木の数、その高さ、草木など植物の成長具合い等。

 熟練の狩人や戦士でも見落とすような細かな周辺状況をジェニは見逃さず。


 加えて、蓄えられた豊富な野獣の知識と前後の縄張り状況への理解によって、先にどの程度の野獣が待ち構えているのか、野獣が無意識に好む地形を把握し。ひいてはそれらが隠れている位置や体長、同猛さの加減すら予測する。


 そこには当然の如く、歪で不規則な縄張りを理解する力も備わっており。

 つまるところジェニは、輪の内側の野獣と変わらない行動を取ることを可能としているのだった。


 ならば、野獣との接触回数を最低限に抑えることもできる。

 深部に棲む強力な野獣と対当する猛者宛ら、自称音売りで戦闘力が低いお荷物の女は、"逃げ"の達人として、この危険な輪の内側を歩けるというわけだ。


 愛器ターを用いれば、そういうジェニの力はさらに増大され。

 いってみればこのジェニという存在は、輪の内側において"移動する村"そのものともいえよう。


「そう。だからオマエたちはとっても運がいいのさ」


 朗らかにそう言ったジェニは得意気で。


 しかし、一緒にいるだけでは到底気づくことができなかったその本質をこれでもかと聞かされたスズは、とっくに疲労困憊して眠ってしまっていた。

 おかげでくしゃくしゃ髪の賢人の視線は、ベルエルが独り占めしている状況だ。


「ああ、そうかもな」


 適当なベルエルの相槌にジェニは深く頷き、「ああ、そうだろう」。

 

「しかしまあ、あれだ。ベルエル。オマエがボクを好きになるのを止めろとは言わないけど、残念ながらボクには心に決めた人がいる」


 残念ながらね。

 忠告するように同じ台詞を二度も告げ、ジェニはどこか期待に満ちた顔でベルエルを見つめる。


「……なんだよ」

「いや、だから。ボクには心に決めた人がいるんだ」

「わかったよ。良かったな」


 そんなベルエルの反応が気に入らないのか、ジェニはベルエルに詰め寄り、また同じことを言った。

 耐えきれず、ベルエルが鼻息をもらす。


「わかったわかった。で、その心に決めた奴ってのは誰なんだ。聞いてもわからないだろうけどな……」


 呆れてぼやくベルエル。

 するとジェニは、待っていましたとばかりに笑顔を浮かべ、言う。


「あの人はね、勇敢で不屈で美しいんだ。荒ぶる暴風に舞い踊る木の葉のように、翻弄されて見えるが、実は世界のどんなことにも意に介さず自分を失わない。そんな究極の自由を体現して見せたりもする。凶暴で隙だらけで、儚げで凛としていて。とにかく、すごい人なんだよ」


「あ、そう。それで、お前はそいつが好きなんだな」


 良かったじゃないか。

 またしても適当に言ったベルエルだったが、次にジェニは悲しげな表情を浮かべた。


「簡単に言えばそうなのかもしれない。だけど、あの人はあまりにも自由でボクは触れることができないのさ……」


 切なげに言って、ジェニはぼんやりとしたため息をもらした。


「よくわからないな。お前はそいつの自由さが好物なんだろ? 見てるだけでも腹いっぱいになれるってのに、落ち込む理由があるのか?」

「……オマエは何もわかってないね。好意とは、食欲と同義ではないんだよ」

「だから、おれにはわからないって言ってる。食いたいと思うものが"好き"でいいじゃないか」


 そこにまた、ジェニのため息が。


「いいことなんて一つもないさ。だって、食べたらなくなるだろ?」


 目からウロコ、感心してベルエルが「へえ」と声をもらす。


「確かに、言う通りだ」


「だろ? だからさ。敢えてオマエの話に合わせると、ボクがあの人を想う気持ちはお腹が空くのに似ているかもしれない。

 好きだから食べたいけど、食べたら失くなるとわかっている。

 だから、食べたくない。けど、食べたい。

 同じものが二つとあれば話は別だけど、実際あの人は作物じゃないからね。一度食べてしまえばもう二度と手には入らないんだ。まあ、それとこれとも話は違うけどそういうことさ」   

  

「何がだ?」

「人を想う気持ちってやつがさ。その一瞬の幸福感は確かにあるけど、飲み込んだ後から少しずつ……あっという間に味は消えていくだろ? 消えたらまた感じたいものだけど、その時と同じようには感じられない。また新しいものへと変わってしまっているものなのさ」


 そう、これもまたラプチャだ。

 ジェニの口から重い息があふれる。


「ラプチャ、か。なんとなくわかってきた気がする……」


 本当にそう思ってベルエルは頷いたが、ジェニの口からはため息が止まらない。


「……他に何かあるのか?」


 ベルエルが訊くと、ジェニはゆっくりと空を見上げた。


「ボクは一度もその人に会ったことが無いんだ。つまりこの感情は好意である気がするだけで、ほとんどが憧れの部類なのさ。美味そうだとは思うけど、触れるどころか確認もできやしない。これが、オマエに理解できるかい?」


 そう言われて、ふとあの甘酸っぱい味がベルエルの舌に蘇った。

 覚えから読み解けば"懐かしい"とも思えるその味の錯覚が、また味わいたい、と感じられないこともない。


 ジェニの言葉から改めて感じられる感情は、懐古に加えて念願であり。

 記憶が失くなる直前、最後に飲んだ酒のことを、この時初めてベルエルは意識した。

 そして、気づくのだ。


「おれは……酒が好きだった……」


 思いの外深刻な声がもれたベルエルだったが、ジェニは「ああ、そういう人は多いね」と軽く相槌を打っただけだ。


「でも。何度も言うけど、あの人と酒は違うよ。唯一無二なんだ、彼は」 

「……世界に一つ?」

「もちろん、そうさ。この世界が永遠に呪われていても、彼だけはね」

「特別な……」

「うむ。オマエもわかってきたじゃないか。そう、彼は特別なんだ。ボクにとってだけでなく、世界にとってもね」

「決して、触れてはいけないもの……」

「いや、確かにそうかもしれないけど……。そこまで強く禁じたんじゃ、救われないさ。"恋"はもう少し柔軟なものだよ。でもまあ、そういう曖昧さがまた恋の形でもあるだろうね」


 いやいや、この一時に随分成長したな。

 切なさはどこへやら、満面の笑みを浮かべてジェニが言ったその時。


「……思い出した」


 白濁の瞳を剥き出し、ベルエルはジェニを真っ直ぐに見つめていた。

 その淀みない視線を受け、ジェニは一瞬ドキリと体を硬くした。


「こら、待てベルエル。いくら恋を思い出したからといって、今はスズもいるだろう? 眠ってはいるがしかし……ボクには心に決めた人がいて……でも……」


 ボクとて君が嫌いなわけじゃない。

 そう言って多少困惑したような背けるような表情を浮かべ、ジェニは「一度だけだぞ」とそっと目を閉じる。


「酒だ……」


 ベルエルの発言に、ジェニがハッとする。


「バっ、バカなことを言うなよ。この状況で酒など飲んだ暁には……」

「罪だ」

「いや、罪だなんて言ってくれるなよ。そう硬くならなくても、ボクには多少心構えができて……」

「おれの、罪だ……酒が。【オウモ】は酒に触れたおれに怒り、そして……」


 落とした。

 愕然として言ったベルエルは、突然体の力が抜けたように地面に手を付き、吐くように声にする。  


「エルエル……あいつが、おれに……」


 様子がおかしいベルエルにジェニが声を掛けるが、その声は届いていない。

 続くベルエルの言葉には、「知らなかった」、「嵌められた」、「おれは」と後悔と憎しみが込められ。

 乗じて閉じられていく手の平が草を掻き、千切る。


「ベルエル、落ち着くんだ」


 そうして滾るベルエルは、声を掛け続けるジェニをよそに己を憎悪で満たしていく。

 そこに見た目の変化はなかった。

 だが、その背の翼のような痕がより濃く、黒い輪郭をくっきりとさせているように見えたのだ。


 それが何を意味するのかはわからない。

 とにかくとジェニはターを構え、氷の旋律を奏でる。


 前回と同じく駆け上がる音階が周囲に響くと、いずれベルエルは落ち着きを取り戻していった。


「……ベルエル、落ち着いたかい?」


 ジェニが言ってベルエルの肩にそっと手を触れると、「わるい」とベルエルは何事も無かったかのように返す。

 そのいつもと変わらない様子に、ジェニは短く息をもらした。


「やれやれ。どうやらボクは余計なことを言ってしまったみたいだね」


 ジェニが言うと、ベルエルの視線は自らが抉った大地に向けられる。


「わかってはいるんだけどな、今さらどうしようもないって。それなのに、おれは……」


 ベルエルの苦悩に、ジェニが首を横に振る。


「気にすることはないさ。今はボクがいる。オマエの苦しみを解してあげることはできないだろうけど、それでも。オマエが"また"後悔してしまわないよう、前を向く手助けくらいはできると思うよ。少し残念だけどね」

「ありがとう、ジェニ……」


 心からの感謝を伝え、しかしふと疑問がベルエルに過ぎった。


「でも。おれたちは会ったばかりなのに、どうしてだ?」


 ベルエルが言うと、ジェニは「ふむ」と頷いた。


「それは、オマエが好きだからさ」

「そうか、それで……」

「なんだ、あっさり受け入れるんだね」

「ああ、よくわからないからな。だけど……わかるよ。気に入ってる奴のことは、なんとかしてやりたいと思う。そういうことだろ?」


 聞いてジェニは、ふふっ、と小さく笑う。


「もちろん、そうさ。ボクはオマエが気に入ってる。オマエのわけわかんねえところが特に、ね」

「わけわかんねえか、おれは……。だろうな」


 と、ベルエルが白い体に目線を落とす。

 すると。

 

「体のことじゃないさ。ボクが言っているのは、オマエ自身のことだよ」

「おれ自身?」


 そう。


「その白い人型の"中"にあるもののことさ。憎しみ、怒り、想い、落ち込む……でも理由がわからない。そういう混沌としたオマエ自身だよ」

「おれは、そんなに複雑か……」

「そうじゃなきゃつまらない。ボクはアリアスなんかに興味は無いよ」

「アリアス? なんで今アリアスが関係あるんだ?」


 ベルエルが訊くと、ジェニはまた「ふむ」と唸った。


「そうか。オマエは、というかオマエたちはまだ気づいていないんだね……」

「何を?」

「アリアスという者の存在に、さ」

「どういうこと?」


 突如した声は、見つめ合うベルエルとジェニの向こう側から聞こえた。


 二つ分の視線がそこへ向くと、いつの間にか起きていたスズがすでに武器を構えた格好のまま呆然と二人を見ていた。


「おや、スズ。起こしてしまったか」

「当たり前だよ。あれだけ怖い空気……感じたら目が覚めないはずがない。それよりも、今の話どういうことなの? アリアスを俺たちが知らないって……」

「聞きたいのかい?」

「うん」


 ふむ、なら教えてあげよう。

 ジェニが立ち上がり、ベルエルとスズの二人を見渡せる位置まで移動する。


「結論から言えば、アリアスは珍しい存在ではない」


 そんなこと【アトニム】の常識だ。

 ただ、アリアスは通常の人間と変わらないためなかなか判明しづらい。


「その通り。理由は、【否読の書】が他者には見えないし確認しようがないからだね。じゃあ、その【否読の書】を読めるのがどうしてかわかるかい?」


 それは、未だ解明されていない。

 アリアス本人曰く、それは他者の記憶であり、自在に体現できるということだけが知られている状況だ。


「それも、その通りさ。全ては本人の言うことだけで信じ難いけど、だけどボクたちは彼らが突如発揮する不思議な能力を目の当たりにする。だから彼らの言うことを信じるしかなくなって、確認することのできないそれを"読むことのできないもの"……【否読の書】と呼ぶようになったのさ」


 それも常識だ。


「じゃあ、訊くけど。そこに疑問は無いかな?」


 学会がまとめ、今や常識となったアリアスへの理解に疑問など今さら浮かぶはずもない。


「学会、か……。確かに彼らの言うことは正しい。けど、それでも他者個人の発想でしかないよ。つまり、スズ。オマエは、"読むことのできないもの"というものが【否読の書】と呼ばれるものだけなのか、それを疑問に思うべきなんだよ」


 そんなもの、あるだろうか。

 

「わからないかい? なら質問を変えるよ。"誰が"、読むことのできないものだろう?」


【否読の書】は、本人しか読めないもの。

 だから、読むことができないのは、本人ではない他者だ。


「正解。【否読の書】は、"他者が読むことのできないもの"だね。だったら、それは誰にでもあるんじゃないかい?」


 誰もが持つ、自分ではない他者が読めないもの。

 今見ているもの、感じているもの、考えていること。


「いいね。そういうことさ。ボクたちはそれをまとめたものを、記憶……とそう呼ぶだろ?」


 その通りだ。  

 

「だったら、もうわかるね」

「【否読の書】は、アトニム人皆が持っている……?」


 恐る恐る答えたスズに対し、軽快に「そうさ」とジェニが応える。


「だから、アトニム人は皆アリアスだともいえるわけだ」

「で、でも! 【否読の書】は、本人自身が他者の記憶を客観的に捉えるものだって……っ!」

「よく考えてごらん。それって当たり前じゃないかい?」

「あ、当たり前?」

「ああ。だってそれはただの過去だろ?」


 淡々と言うジェニ。

 だが、納得できないスズは、「どこが?」と突っかかるように言った。


「両親だよ。アトニム人には親がいるだろう」

「お……や……? それが今何の関係が……」

「ボクたちプライアには無い、つまるところそれが答えだと思うよ。

 アリアス……いや、アトニム人には親がいるんだ。彼らはその記憶を引き継いで成長している。だから、今まで【アトニム】は加速的に進歩してきたんだ」


 結局、アトニム人は教わることとは別に両親の記憶を糧に、今に活かし成長しているだけさ。

 そう言ってジェニは肩をすくめた。


「じ、じゃあ。【否読の書】に書かれている他者の記憶っていうのは、その人たちの親のことだっていうの?」

「実は一概には言えないけど、結局はってことかな」

「なに、それ。ここまで来て急にそんな言い方……」


 スズが苦言を呈すると、ジェニは「参ったな」と首を傾げる。


「まあ、強いて言うなら"前の人"かな。時代的には"先人"ともいうね」

「どうしてそれが、今の人たちの記憶に……?」 


 その質問には、ジェニが首を横に振る。


「"それは"わからない。今言ったことは、単にボクが気づいただけのことだからさ。でも……その原因には"永遠"の呪いが関係していることだけは確かだろうね」

「じゃあ、どうして【否読の書】には読める人と読めない人が?」

「それは……」


 ジェニは言い掛けて、ふむ、と頷き、


「鈍い人と鋭い人、ってのがあるだろ? それが【否読の書】だと気づく者と気づかない者、あとはただ単に秘密にしているだけだろうさ」


 やはり軽快に、迷いなく話されるジェニの言葉を聞いて、スズは突然崩れ落ちるように寝そべり。

 草が折れて、パキ、と鳴ると、二人の間にはほんの一瞬だけ心地よい目覚めの朝のような澄んだ静寂が訪れた。


「ねえ。君、いったい何者なの……」


 スズがぼんやりと空に向けて放った一言に、ジェニが答える。


「天才的でとってもすごい唯一無二の最高な音売りの、いい女さ」

「ハハ……」


 圧倒されたように声がもれ、そうして笑うスズの口からあふれ出すのは、どこか上の空な腰が抜けたような声だった。


 しかしその向こう、砕けた二人の空気の外でベルエルは独り、新たに浮き上がった謎によって身動ぎを奪われている。

 今ジェニが言っていたことが真実なら、自分が読んでいるものはいったい何なのか。

 それが、わからなくなったからだ。

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