えるとれ 13
ラナイとジェニが【オルディグ】を出ると、人々は幾らか起き出して何かを始めたようだった。
飛び飛びに聞こえる力の無い槌の音が響き、ひとつも会話を交わさずに木材を運ぶ連中、手持ち無沙汰にそこらを彷徨く兵士たち。
だが、やはりほとんどの人々がまだ地面に腰を下ろしたままだ。
とても活気を取り戻したとは言えない街の風景。
そこで率先して指示を出しているのは、白い人型だった。
外套を捲り上げて木材を運ぶのを手伝うバイバル、また増えてしまった遺体を抱えて歩くウィルバル、イニバルは座り込んだ人々に何か語り掛けている様子だ。
ラナイがそれをぼんやり眺めていると、下方から見上げてジェニが言う。
「そもそも用意するものなんて何も無いんだけどね、ボクは」
「……だろうな」
「まさか……とは思うけど、オマエ……」
含みをもたせて言うジェニに、ラナイが視線を合わせる。
「好きなのは、今の妖獣人かい? ルール―ウィップっていう」
「また……それか……」
堪らずラナイが鼻息をもらす。
「なんなんだよ、さっきから」
「だって、待ってるんだろ? 彼女のことをさ」
「…………」
「好きだから、だろ?」
「違う」
「えー。またそんなこと言ってさー。いい加減素直になったらどうだい?」
ニヤニヤと、その表情が煩わしくなったラナイが視線を逸らすと。
「ベルバル様」
二人に気づいたイニバルが歩み寄ってくる。
「いや、ベルエル様と呼ぶべきでしょうかね?」
「おれは……」
言い掛けてラナイは、自分のことを"ラナイ"だと言い切れない自分に気がついた。
それは、言わずもがなベルエルとしての自覚を得たからで。
だからといってラナイである自分を忘れたわけでもない。
二重の自覚が、堕天使なのか天使なのかそれともドールなのかはっきりとさせないのだ。
少し待っても返事がない白い人型の様子にイニバルは小首を傾げ、
「ま、別にどっちでもいいですよ。僕は」
薄く微笑んでそう言って、「一応言い慣れているんで"ベルバル様"と呼ばせてもらいますけど、いいですね」と一方的に話を終わらせた。
そして、ラナイと同じく内輪を歩く二人の堕天使に視線を向ける。
「……見てくださいよ、ベルバル様。あいつらの忠実なことったら、笑えません?」
「別に、笑えるようなことはしてないだろ」
「そうですかね。僕は、面白いと思いますよ。あんなに賢げにしてたのに、一度わからなくなったら人の言うことを聞くしかできることがない……」
まったく、滑稽と言うか純粋というか。
そう続けてイニバルは、クスと笑った。
「ともかく、ここは僕たちが見ていますから。ベルバル様は安心して好きなことをなさってくださいよ」
好きなこと。と、それがよく理解できずラナイが訊き返す。
するとイニバルがまた笑って言う。
「まあまあ、ベルバル様も随分と可愛らしい。やはり、僕の見立て通りあなたはまだベルバル様じゃないのかもしれませんね」
「まだ……?」
「ええ。そういうのは、覚醒が済んでいないってことなのかもしれませんよ。何がどうあれ、ベルバル様はルトゥールを考えついた堕天使なのですから」
「……どういう意味だ?」
「さあ?」
肩をすくめ、イニバルはおどけた顔を見せる。
「それは僕にはよくわかりませんけど。でも、ハッキリ言えるのは、ベルバル様の思想に則ってルトゥールが起きたってことです。考えてみれば、そのきっかけを僕たちは知らない。そして、あなたも……?」
言ってイニバルの覗き込むような視線がラナイに向けられる。
何か訊きたそうな、そんな好奇心を孕んだ視線に、ラナイはやれやれと頭を振った。
「憎悪だ……。あの時一瞬だけ感じた。それがルトゥールを考える前、ベルエルとしての感覚だとしても、ベルバルとなったおれが忘れたとは思えない。だからきっと、ルトゥールには憎悪があったはずだ」
「まあ、それはなんとなく予想してました。っていうか、それしかないでしょう。だから、もしそこを考えるのであれば"何に憎悪したか"じゃないですか?」
何に、の答えをラナイは微かに覚えている。
ただ一人の名。彼女の名が、その答えだ。
「エル……エル……」
ふとラナイが口にすると、イニバルの表情がぎょっとして感心したものに変わった。
「ほう。彼女を思い出したので?」
「誰だかはわからないけど、そいつの名前が掻き立てるんだよ」
そう言ってラナイが自分の背中を気にすると、イニバルが言う。
「エルエルは、訂正軍アトニモ白鳥隊の副隊長ですよ」
「え……?」
「裏切りの天使ミシエルとエルエル。ちなみに天使のため正確な性別はわかりませんけど、姿形と口調や振る舞いが人のメスに近いので僕たちはメスとして見ていましたね」
天使の生き残りですよ。
イニバルが言うのと同時、ラナイが飛びつくようにその細い両肩を掴む。
「今も、なのか! 今もあいつは天使なのか!?」
「そ、それは知りませんよ。ただ、彼女らの姿は、思い出せなくとも僕たちが天使だった頃とも違ったかと……」
「どんなだ!? あいつはどんな姿を!?」
「飛竜に似た翼膜をもった翼です。それと……」
呟くように言って、イニバルはラナイの体をまじまじと見つめた。
そこには汚れを落とし、再び白い人型となった関節部の無い不思議な棒人形のような身体がある。
「黒……ですね。今朝のベルバル様と同じく黒い色をしていたと思います。どうにもはっきりとしないですが、そのへんは確かだと思いますよ」
「く、黒? 全身が、か?」
「ええ。まるで影のような姿です」
「それで、生きているのか? エルエルは……」
「さあ、それもわかりません。けど、押し迫る闇が来たとて彼女らには翼がありますからね。逃げおおせたとしてもおかしくないでしょう」
そう聞いてラナイはたじろぐようにイニバルから離れていく。
そして呟くのだ。
あいつはまだ生きている。
たった一言に込められた不穏な気配は、そばにいたイニバルのみならず、離れたところにいる二人の堕天使にも届いていた。
ふと向けられたバイバルとウィルバルの視線。
それに気づいてイニバルが、まあまあ、と手振りで遠くの二人を制す。
「ベルバル様、落ち着いて。その殺気、興奮します」
しかし一度浮かび上がった憎悪が、イニバルを侵す。
浸されて、イニバルは大口を開けてニヤついた。
「ダメですよ、ベルバル様。我々はどうしても、あなたに惹かれてしまう……」
だから、とイニバルはラナイの肩にそっと手を触れた。
「鎮めて、ベルバル様。今はそう駆り立てる時じゃない」
邪悪にニタリと歪んだ表情とは正反対に冷静な助言。
それと一緒にラナイの耳の穴に飛び込んできたのは、旋律だ。
一つの音が確実に鳴る、低音域から高温域までを順不同に何度も駆け上げていくそれは、瞬時に凍てつき、全てを冷たく閉ざす氷を思わせる。
一度閉じ込められれば、その内で何をしようと無意味。
強制的に虚無を感じさせられ、ラナイの煮え立つ憎悪は歪な形のままそこに収まった。
と同時、イニバルの表情もまた落ち着いていく。
そうして狭い周囲の気配が元通りになると、ジェニがラナイを見上げていた。
「どうやら、ボクはオマエの役に立てる。ここまでツボに嵌ってくれる客は珍しいから嬉しいよ」
ふふん、と鼻を鳴らすジェニ。
そのくしゃくしゃの髪を押しつぶして無理くりにイニバルが頭を撫でる。
「助かったよ、プライア」
「プライアだけど、一応ボクはジェニと名乗っているよ」
「そうかい、ジェニ」
急に仲良くする二人のそばで、ラナイは一人唖然としていた。
それは、彼らに向けられたものではなく、ほんの一時に変貌した自分へ向けられたもの。
ラナイは憎悪を理解しつつ、それが自分自身に与える影響に納得できなかった。
なぜ憎むのか。
それがわからないからだ。
「……ベルバル様。優先順位こそあなたが決めることかと思います、が。それでも言わせてもらいたい」
イニバルの声がし、ラナイは自分自身を見つめる視線をそこへ移した。
「あなたは、その憎悪の理由を知るべきだ。そうでなければ、我々は自由でいられない」
「そう……みたいだな……」
力無く両腕を垂れ俯く姿は、困惑しながらも明確に示せる最も簡単な反省の姿勢だった。
そんなラナイをじっと見つめていたイニバル。すると。
「我々堕天使はいつもあなたと共にある。思念声が聞こえなくとも、我々は繋がっている……。それは、離れていても変わらない。実際にそうでなくても、そうです。いつだって我々はあなたに加勢する心構えができている」
そして我々は戦闘狂です。
そう言ってまた顔をニヤつかせたイニバルからは、しかし先ほどのような邪悪さは感じられない。
「……ああ、わかってるよ」
落ち込んで言うラナイに、イニバルは微笑み返す。
「さあ、行って。僕よりふにゃふにゃなあの二人がまだ興奮してますから」
「す、すまん。イニバル」
謝罪の時間すらないのだとイニバルは、さあさあ、とラナイとジェニを門の方へ促した。
二人が番人を変えた抜け道を通り中輪へ出ると、そこにはまだ逃げようとして襲われた人の亡骸が幾つか残されたままだった。
その数人を眺め、ラナイは空を見上げた。
高いところで薄雲が風に押し流される光景、ほとんどががらんどうで薄水色ばかりの空には雨が降る気配は感じられない。
そこに少しだけ陽光の鎮む橙色を期待するラナイだが、それもまだ数時間先のことだろう。
一日は始まってまだ半分しか経っていない。
目まぐるしく生じた変化を思えば、それがあまりにも遅すぎるように感じられた。
(正反対だな……)
その日見た晴れ空を浮かべながら、ラナイを何も起こらない時間が満たしていた。
広がる悠久のような草原。
一緒に歩いていたのは。
「……ジェニ、このまま【コルト】を出よう」
それ以上、思い返すのは止めた。
ラナイはそして改めてジェニに訊く。
「手始めに、お前が初めてビクターと会った場所へ行く。いいか?」
「まあ、それはいいけどさ。その前にオマエをなんて呼んだらいいかな? イニバルみたいにベルバルとでも呼ぼうか、それともラナイか?」
「……ベルエル。今はそう呼んでくれるか」
そう言ってまた空を見上げる白い人型を見上げ、ジェニは「ふむ」と唸った。
「では、ベルエル。行こう」
快活に言い、ジェニは【コルト】の門に背を向けた。
それは崩れた城壁の方角。
どこに行くつもりか。問い掛けられると、ジェニは振り返る。
「輪の内側だ。ボクが初めてビクターと出会った場所はそこにある」
◯
そうして背に痕を残す白い人型"ベルエル"とジェニが二人、【忘れられた水路】を塞ぐ瓦礫の一部と化した城壁の穴の間に立つと、竜の鼻歌が鳴り始めた。
タイミングとしては旅路を送るかのようなものだが、しかし、流れてくる鼻歌はただの遠い叫び声のようにしか聞こえない。
乗じて二人を強い風が押し始め、その時だった。
「ラナイ」
声がして、振り返るとそこにはあの馬鹿に大きな鞄を背負ったスズが立っていた。
彼女は無言でベルエルのそばを通り過ぎ、ベルエルとジェニの前に立って「行くよ」とだけ言った。
二人は顔を見合わせて、何も言わずにスズの後を追い【コルト】を出る。
すると。
「ベルバル様!」
再び声がして、三人が振り返る視線の先にはこちらへ走ってやってくるイニバルの姿が。
イニバルはベルエルのそばで立ち止まり、「良かった」と右手を差し出す。
「まったく。ご自由にとは言ったものの、まさか門を無視していくとは思いませんでしたよ。おかげで無駄に走らされた」
呆れたように言うイニバルの細い指の間に引っ掛かるようにして収まっているのは、短い灰色の嘴に全身が青みがかったそれも灰色の体毛に覆われた四本足の不思議な生物。
ジュイ、と耳障りな鳴き声を発するそれを、当然ベルエルは知っていた。
「種火守が邪魔だっていうんですよ。ベルバル様が従えている野獣でしょう?」
「……しばらく見なかったけど、【オルディグ】にいたのか?」
「みたいですね。鬱陶しいから連れて行ってください」
ベルエルがイニバルの差し出す下に手を添えると、ジュイは短い足を蠢かせてベルエルの手の平に乗り移る。
ベルエルは、手の平のジュイをそのままジェニの頭にまた移した。
「ありがとう、イニバル。それじゃあ、行くよ」
「ええ。お気をつけて」
そう言って深々と頭を下げるイニバルを背後に、ベルエルとジェニとスズは輪の内側へ向かって歩き出した。




