えるとれ 10
ポルポの巨体は混乱する人々が無意識にでも避けるべきと判断できる存在らしい。
人波を掻き分けるというよりも、人々がポルポを避けて道が出来ていく。
その後方を続くラナイは、もう一度「どこへ行くんだ」と訊いた。
北の方角。それがポルポの返事だった。
「ワシは逃げてった奴らを抑えにいったルール―ウィップさんを手伝う! だから、おめえはこっちに来ることはねえ! 壁を越えて先に行ってくれ!」
「わかった」
そう返事をしてラナイは北へ体を向けた。
【オルディグ】に向かう際そうだったように人波を避けて進むラナイだが、彼らの密集度はこの一時に随分疎らになっていた。
おかげでラナイは走れる。
そうしてあっという間に北に面する壁を上りきった時。
「ちょっと待って」
女の声がラナイの足を止めた。
「そろそろ降ろしてもらっていいかな」
そう言われて一瞬躊躇するラナイだったが、続く彼女の「大丈夫、待っているよ」という発言で我に返り、女を屋根の上に降ろした。
すると女は呑気な息をもらし、うん、と背伸びする。
それからニ、三度体を曲げて運動し、「さて」と背負っていた瓢箪型の楽器を取り出した。
前回横に構えていたものが、今回は縦に構えられている。
「お前、こんな時にまさか……」
唖然としてラナイが言うと。
「そのまさかさ。これがボクの仕事だからね」
さも当然のように言う女。
そこにラナイとて何も感じないわけはなく、「静かに隠れてろ」と言うと。
女は静かに首を横に振った。
「ボクのことはどうでもいいだろ? それより、ほら。早く行かないと大切な人が連れて行かれてしまうよ」
どうでもいい、とは思っていない。
むしろ必要だとは感じていたが、しかし、今優先すべきことは彼女の言う通りだった。
それでも多少の迷いを見せるラナイをよそに、女は息を吸う。
ゆったりと、大きく。まるで花の香を嗅ぐかのように。
その姿に、ラナイはふと大地に立つ一本の大樹を想像した。
きっと彼女はこの場から動かない。そういう思いが浮かんだのだ。
決心したラナイが女に背を向け屋根を飛び降りると、風と周囲に響く混乱の雑踏に混じって弦の弾かれる音が聞こえ始めた。
一音一音が淡く、しかししっかりと繋がって聞こえるしとやかな旋律だ。
混乱に塗れた現状に不似合いなこの音の流れは、遠く離れれば離れるほど耳に付き。
それは蜘蛛の巣が如く、柔くラナイを捕らえて離さない。
中輪を越え、外輪へ辿り着いて。そこでもう音は聞こえていないにも関わらず、ラナイの耳の穴の奥には女の生み出す旋律が繰り返し、空耳のように鳴り続けていた。
それが齎したものをラナイが理解することはできない。
だが、ラナイの体から強張りが解けていたのだけは確かだ。
おかげで体は軽く。
前方で行く手を阻む零区の建物群の屋根に飛び乗るのに、手を使う必要がなかった。
阻む建物は引き下ろされた幕が如くラナイの視線を流れていき、大量の屋根群という歪な舞台がそこにある。
黒色を含めた暖色で統一された零区の稜線。
その全てが不動の雲のとも思える景色の中に、ラナイは軽快に跳ねる一人の少女の姿を捉える。
「スズっ!」
急ぎ追い、ラナイが声を掛けると、スズは上空を見上げて言う。
「城壁を越えられたら逃げ切られる! その前にっ!」
声を聞き、即座に視線を空へ向けるラナイ。
その目には、城壁の頂上とほぼ同じくらいの高さを白い翼を何度も羽ばたかせて飛ぶアークスの姿が映る。
それはラナイたちの位置から五十メートルほどの高さか。
移動速度がそれほど速く無いのは、【コルト】の中を渦巻く強風が彼の足止めをしているからだろう。
つまり、今なら間に合う。
問題は、この高さをどう打開するかだった。
「スズ、ジウは!」
「走りながらじゃ撃てない!」
スズの意見に、瞬時発想する蜘蛛の姿勢。
ラナイはスズの少し前に飛び出し、「乗れっ!」と叫んだ。
その背中にスズが躊躇なく飛び乗る。
そうして一体となり、屋根の上を走るラナイとスズ。
早速放たれた一発のヒューイは、アークスの体に触れること無く上空へと消えた。
続く二発目も同じ、アークスに当たらない。
「揺れて狙いがズレる! もう少し安定しないか!」
「無理だ! これ以上遅く走ったら逃げ切られる!」
ラナイが抗議すると、脇腹を挟む力が強くなる。
「だったら、もっと速度を上げて! 真下から狙う!」
「なるほど……」
捕まってろ。
そう告げて、ラナイは猿の姿勢に変化。
一気に加速して上空のアークスの真下に向かって駆ける。
「スズ! あいつの真下に飛び込むから、それに合わせてくれ!」
蜘蛛の姿勢に比べ、かなり体がブレる猿の姿勢を考慮しての発言だった。
スズは「了解!」と答える。
駆ける数歩の最中、ラナイの耳に触れた弾込めの音。
カチャリ、とジウが固定されるのをきっかけに、ラナイは前方に向かって高く飛び上がった。
――パンッ……パンッ……!
二発の発砲音が響く。
その弾道を目で追うラナイ。
空中でまた発火し、さらに速く一直線に飛んでいくヒューイの一発が左翼の端に触れ羽の数枚が散るを確認したその時。不意に体が軽くなる。
それは、先ほどのような気分によるものではなかった。
「しまった!」
慌てて下方へ移したラナイの視界に、ジウを握りしめたまま背中から落ちていくスズの姿が。
すると。
「追えっ!」
屋根に衝突する寸前、スズが叫ぶ。
それでまた視線を上空へ向け直したラナイの目には、一瞬ふらついたものの再び翼を羽ばたかせて城壁を目指すアークスが映る。
その胸には長い黒髪の少女。
気を失っているのか、暴れるでもなく彼女は抱かれていた。
そんなアレの姿を見てもラナイが冷静でいられたのは、今しがたのスズの言葉のおかげだ。
まだ追いつける。追いつかなければいけない。
背後に屋根が砕ける音を残し、ラナイが二本の足で着地した場所は影に染まっていた。
もうすぐ目の前には【コルト】の城壁がそびえている。
真っ直ぐに進むだけなら、ラナイの方が圧倒的に早くそこへ到達する。
しかし、またしても高さがそれを阻んでいた。
アークスの飛行位置、ラナイの頭上五十メートルほどの距離は、ラナイが全速力で壁を登り切るまでに相殺される。
つまり。
(城壁の頂上が最後の機会だ……)
そこで逃がせば、アレは戻らない。
そういう緊張感がラナイの体をまた少しだけ強張らせていた。
下手をすればつんのめってしまいそうなほど、ラナイの足は速く動いていた。
そのせいか手を振る感覚がやけに鈍い。
地に足をつけることすら忘れてしまいそうなほど浮ついた状態は、目前に迫る壁に対し踏み切るのを僅かに遅らせた。
一瞬の戸惑い。
半ば衝突するような形で壁に飛びついたラナイは、蜘蛛となってそこをよじ登る。
自然にできたものとは違い精巧に作られた城壁におうとつは少なく、指先の表皮が掛かる薄く些細な感覚と、吹き付ける風がラナイの体重を支えていた。
城壁頂上まで残り四十メートル。
壁に反響して聞こえる羽ばたきが数を増す。
ラナイはアークスが上昇しようとしていることを察し、アークスは城壁よりも僅かに高い位置まで体を持ち上げていた。
城壁頂上まで残り三十メートル。
アークスの羽ばたきが増し、さらに上へ。
ラナイが一瞬、足を滑らせる。
城壁頂上まで残り二十メートル。
アークスの羽ばたきが数を減らし、風を捉え始める。
ラナイの速度は変わらない。
城壁長女まで残り十メートル。
ラナイはすぐそばにアークスの気配を感じていた。
その焦りが城壁の細い隙間を砕くほどの指力を齎す。
そして、城壁頂上。
振り返ったラナイの視界にアークスの姿はなく。瞬間、白い人型には影が触れた。
ラナイが咄嗟に向けた目線は頭上だった。
手を伸ばして届くぎりぎりの位置にアークスのつま先がある。
しかし体はもう城壁を越える寸前。
今かと風を待つ翼は大きく広げられていた。
「アークスっ!」
叫ぶのと同時。即座に体を外側へ向け、ラナイは軽く飛び上がって腕を伸ばす、が。
刹那に加速したつま先には、指が掠めただけだった。
それでもうアークスの体は城壁を越えていた。
追い風が飛び去ろうという妖鳥人の味方をし、彼の体をふわりと持ち上げ、さらに加速させる。
その一瞬にラナイとアークスとの距離は数メートルと離れていた。
だが、まだだ。
まだラナイは諦めていなかった。
再び猿の姿勢を取りアークスの背中に飛び込もうとした間。
何かが下方から飛び上がってくる音が聞こえた。
――フオンッ
と、それは風を貫く太矢の羽が回る音だった。
くるくると回転しながら風の中を泳ぐ太矢はラナイの頭上を越え、山を描いてアークスより少し先へと向かっていく。
当たるか当たらないか、確認している暇はない。
ラナイは太矢の後を追って城壁の端から体を弾き出した。
太矢とは違い、およそ一直線にアークスへと向かっていくラナイが縮めた距離はその脚に足りる。
自ら生み出した向かい風を浴びながら、アークスの垂れ下がった脚に迫るラナイ。
その上方からは太矢が襲い。
そして、とらえた。
「ぐあっ!」
ラナイよりも僅かに早く到達した太矢は、アークスの太もも辺りに命中。
苦痛に声を上げ、アークスはバランスを崩した。だが。
そのブレが、捕らえかけたラナイの腕の範囲からアークスを逃しもした。
そこに吹く大量の風が、不器用に広げられた翼を膨らまし上空へと彼をまた押し上げる。
それは、天上からまるで掬い上げられているかのようで。
離れていく。
離れていく。
離れていく。
落下と相まって異様に速く遠ざかっていくように感じられるアレの姿を見つめ、ラナイはウィッシュバルの瞳に見たあの景色が幻覚でもなんでもないことを知った。
思い出したのだ。
天から地に落ちる最中、叫んだ"あれ"の名を。
える。える。
脳裏に浮かぶその名と同時に湧き上がるのは、間違いなく負の感情だった。
だからラナイは叫ぶ。
言葉にならぬ、声にもならぬ醜い悲鳴のような音を空に向けて。
その時だった。
――来て……
彼女の声が響き、ラナイの口からは叫び声が消える。
「来てっ!」
遥か上空で、少女は腕を伸ばしていた。
何かを求めるように、必死に。
「アレ……アレっ! あっ……」
三度目に彼女の名を呼ぶことは叶わず。
ラナイは大地に衝突し、声は途切れ、そして長い黒髪の少女を眩い陽光の中に見失ってしまった。
「まだだ。まだ間に合う」
大地にめり込んだ体をむくりと起こし、ラナイはアークスが飛んでいった方角を見つめた。
そこにもう雲はなかったが、晴れた空にも彼女らの姿は無い。
「まだ……」
言い聞かせるように口から吐き出される不屈の意志は、背後から投げかけられる「ベルバル様!」の声で止んだ。
ゆっくりと振り返った視線には、似合わない外套を翻し走るバイバルの姿がある。
それがすぐそばに来るまでラナイは立ち上がらなかった。
ただ呟かれる「アレが」という一言。
しかし、バイバルはラナイの苦悩などまるで意に介さないように、それでいて慎重に言う。
「【アーハイム】です。奴らは【アーハイム】に……」
「アー……ハイム……?」
「たった今報告がありました。【アーハイム】に【ガダルタ】の大群が押し寄せていると。しかも、それは完全に組織されている。つまりは"軍"として機能しているようです」
そう言って険しい表情でラナイを見つめるバイバル。
だが、ラナイは未だ整理が付かずに上の空だ。
「そうか……」
そんなまるで気のない返事にバイバルが怒鳴る。
「しっかりしてください、ベルバル様っ。奴らが地上に居城を築くということの意味がわからないあなたではないでしょう!」
「…………」
「立ち上がってください。まだルトゥールは終わっていないのです。過去に達成できなかった悲願を我々は今達成しなければならない」
「…………」
「それを成し遂げられるのは我々堕天使だけだ! 王様気取りの邪悪竜から真の自然を取り戻す、そう伝えたのはあなたです! ベルバル様!」
「……える……」
微かな声に困惑するバイバル。
「ベルバル様……今、なんと?」。
先ほどの叱咤が嘘のように呆けた表情に変わったバイバルが訊き返すと、また触れた。
今度ははっきりと。
――ベルエル
「おれはベルバルなんかじゃない。"ベルエル"だったんだ……」
ラナイはそれだけ言って立ち上がり、空を見上げた。
その背中。
返り血を土に吸われ顕になった白い背中には、なぜかそこだけが洗われずにくっきりと痕が残っている。
左右に一つずつ、それはまるで。
「つっ……」
翼のように見えるのだ。




