えるとれ 7
何を言いたいのか、自分自身のことながらラナイはその意味がわからなかった。
この期に及んで、というよりもこの状況で、いったい何をもってして隠密行動となるのか。
どうせ穴は塞ぐのだ。
その時に黄色の息を吐いて、静かでいられるはずもない。
二箇所からの監視をすり抜けたとして、どうせ穴に近付けば地下からの侵略者がいるだろう。だからひっそりと穴を塞ぐことなど不可能だ。
(……結局、強行突破するのと変わらない)
考え至り、ラナイが身を潜めた壁から出ようとしたその時。
突如として【忘れられた水路】の方角が騒がしくなる。
奇妙な口の中を鳴らすような声が無数、全貌は見えないもののそれらが地底人の鳴き声なのは明らかだ。
その中に混じる重く鈍い音。
ズン、と大地を伝わる振動が、それを何かの足音のように感じさせる。
超大型の野獣だ、と咄嗟にラナイは理解し建物と壁をすり抜けて穴を直接眺められる場所まで移動した。
そうして目の当たりにした光景に過るのは、(……変だ)という思い。
ラナイがそう思う理由、それはやはりこれまでの地下からの四度の侵攻による。
ラナイたちが【コルト】に到着する前、発生した死者のノット化と数日後に現れた地底人の群れによるものを一度目とし。
二度目は、ラナイたちが到着したその日に起きた地底人の再来とそれらの後についてきた地下棲の野獣、そしてノットによるもの。
三度目は、それに加えてワシヅカミの出現も確認され、さらに二度目の騒動で仕掛けが壊れ開きっぱなしになった【コルト】の門から外の野獣が入り込み。
四度目は、地上の野獣が幾らかに加え、三度目までに回収しきれなかったおそらく住民の死者がノット化したそれと、地底人によるものだった。
そして、これら地上に這い出てきた地下に棲む生物は皆互いを敵と認識していた。
その上でやはり"人"を優先的に襲っていたのは、地底人のみ。
それが結果として地底人と野獣の連携となることはあったが、あくまで自然的な結果としてだ。
それなのに、今ラナイの目に映る光景は"明らかな意志"である。
細く長い首の先で地面すれすれにまで頭を垂れ、太って丸い体を引きずって進む近くの建物と変わらないほど巨大な生物。
全身を覆う長い薄紫色の体毛からは何かしら液が滴るほど濡れていて、その巨大な生物がひと目見ただけでその重量が尋常でないことを想像させる。
表情は不明、体毛の下にどれほどの肉体が隠れているのかもわからないそれは、ラナイの記憶にある常識的な生物ではない。
おそらくは、アンノウン。
少なくともラナイにとってはそうだった。
動きは鈍そうで頭も悪そう、巨体であること以外凶悪さもいまいち感じられないそのアンノウンの首には蔓を束ねて撚った綱が巻かれている。
巻かれた綱の先には例の姿勢の正しい地底人が二匹槍を持っていて、時折アンノウンと繋がる綱を張って、それはあたかもアンノウンを従えているように見えていた。
それこそがラナイが感じた地底人の"明らかな意志"であり、アンノウンを牽制するような距離感でついて進む見慣れた地底人の様子はおまけのようなものだ。
(飼っている……んだよな、あれは……)
地上に住む人々にとっては互いに野獣と扱われる二種の生物が、一方の意志をもって主従の関係性を築いている光景。
自らを人の位置におけばなんらおかしくも感じない光景が、どうしてか危機的な状況に思えた。
それはもちろん街が襲われることへの危機感、のはず。
しかし今ラナイにこみ上げるのはまた別の色を孕んでいる。
正確に色を成さないその不可解さが胸をざわつかせ、生じたもどかしさがラナイを身震いさせた。
幾度目かの身震いだ。
いつの間にか握りしめていた拳にラナイは視線を落とした。
(……ああ、そうだったのか)
これは、怒りだ。
ラナイは、危機を感じる心の奥にはっきりとしない憤りのようなものを感じていた。
だが、理解できない。
(何に、怒ってる……?)
拳に語り掛けたつもりが声にはなっておらず、返事も来ない。
そしてふと思うのだ。
これはベルバルなのか、と。
記憶には無い過去の自分。
そのベルバルという堕天使が視線の先の光景に怒りを覚えているのかもしれない。
だとすればそうだ。
(この状況は、間違いなくその予兆だ……)
――ルトゥールの……
自分で出した結論が正しいことを予期し、ラナイは改めて慎重に行動するべきと過ぎった自分自身と向き合う。
「…………」
危機感に混じり込んだ憤りのおかげで冷静になった頭でラナイは考える。
いったい何を慎重にすべきなのか。何が無理なのか。
自分自身においても、あの穴においても、塞ぐことは可能だろう。
なら、今ここで大胆にも姿を晒し野獣の飼育を始めた地底人たちと戦うことが、ということだろうか。
ラナイが思い出すのは、【否読の書】に記された一節だった。
その末尾、書かれていたのは『生まれた身体の意味を知ればこそ。』という言葉。意味するのは、ラナイの身体が食事によって成っているということ。
だから自分の身体の特徴について何が知れたわけでもなかったが、その一言をきっかけにラナイは自分の身体のことを考えるようになった。
ダメージを受けても蓄積しづらい特別な身体だと。
完璧な治癒ではないにせよ、ラナイの身体はダメージを受けた箇所だけ元に戻す反発力のようなものを持っている。
硬く思えて柔軟性があり、傷ついて歪になってもおよそ元の形に戻る身体。
おおよそは人のそれと変わらないようなものであるその最大の特徴は、外側ではなく内側にあるのだろう、とラナイは考えていた。
自分の身体の中身のことについてはわからないことが多く、食欲を思い出してからラナイは食事をするようにはなったが、満腹を覚えたことはない。
さらに、呼吸。
ラナイはそれを自然にすることがない。
しようと思えばできるものであり、そうしなければ苦しい、つまり窒息するということが感じられないのだ。
だからやろうと思えば身体が壊れる限界まで息を吸えるだろうし、吸った分だけ吐き出せるのは当然。
唯一、息を吐き出した時に反射的に吸い込む一度だけが自然に起きるものだ。
その空気をためる部分を、肺、とラナイは理解しているが、実際それが肺なのかはわかっておらず。あくまで感覚的に、という話だ。
口を使う行為について、受け取るばかりで戻すということをほとんどしない不思議な身体。
つまるところ、やはり【否読の書】に書かれている通りなのだろう。
そこに在るものをワタシは得るのだと。
そして、この身体を考えればこそ。
おそらく数十、百程度の野獣を相手にしても壊れないと、不思議とそう思える。
(だからきっと、そういう意味でも無い……)
いくら考えても時間の無駄か。
迷いは暇だ、と促されてラナイが再び穴の方角に目をやると、そこには先ほどの超大型のアンノウンに続きラナイの二倍はあろうかという体格をした獣型のアンノウンがぞろぞろと姿を現し始めていた。
後について出て来たそれらには綱は付けられておらず、代わりにそれぞれの頭部に猫背の地底人が齧りついている。
アンノウンの後頭部辺りに地底人が大顎を食い込ませている奇妙な光景だ。
脳髄を吸い出すという地底人がアンノウンの後頭部で何をしているのか、ラナイにわかるのはそれが食事中ではないだろうということだけで、どうしてアンノウンがあれらの言うことを黙って聞いているのかはわからなかった。
しかし、そんなこと。
着々と整い始める地下からの侵攻は、もう藻獣がどうのアンノウンがどうのという姿にはならないだろう。
ラナイが今目にしているのは、紛れもない"敵軍勢"だった。
考えはまとまらず、自問自答に答えが出ないまま、ラナイは立ち上がっていた。
無心、ではない。
この軍勢が街の中心に向かうのを阻止しようと考えていた。
逃げる間も与えず、攻撃する間も与えず敵を殲滅する最速最大威力の先制攻撃を見舞うのだと。
吸え。
吸え、とそれだけがラナイの白濁した瞳の裏で響く。
すると、初めは体の周りの空気が。
徐々に力を増して足下の塵がラナイの口内に飛び込んでいき、腹の中の何かが忙しなく蠢き出す。
いずれ擦れ合う風同士が鳴き始め、数匹の地底人がラナイの姿に気づいたのはこの時だった。
地底人は叫ぶような鳴き声を上げ、いきり立った猫背の地底人が五匹、その後方から獣型のアンノウンが三頭ラナイに猛進してくる。
そこで一旦呼吸が止み、黄色の息充填は五割程度。僅かに膨らんだものの、ラナイの体はまだ通常時と大差ない。
一方、向かってくる地底人は建物と壁の間を走り、その奥から来る獣型のアンノウンは道を狭くしている壁や建物の間に体をねじ込むようにしながら遅く進み、それがかえって狂暴と見える。
時点でラナイとその敵との距離は、まだ百メートルほど。
地底人が到着するまでの数秒を目測し、ラナイはそばの建物の壁をよじ登った。
風の流れや振動で相手位置を知る地底人を欺こうという考えからだ。
屋根の上まで上りきったラナイは、早速息を吸い込み始めた。
再び音は静かなところから始まり。そうして黄色の息充填が六割まで達したがしかし、少し離れた向こう側の屋根の上にニ匹の地底人が姿を現す。
ラナイは前方のそれを顔をしかめて見つめつつ、下方で残る三匹の地底人が自分のいる建物に向かってくるのを確認。
屋根伝いに突っ込んでくる地底人二匹を無視して、今度は屋根から飛び降りた。
すると、突如感じ取れなくなった白い人型を探して二匹の地底人はくるくると回す。
それでまた少し息を数時間を稼げるかと思いきや、屋根の下は下でラナイの予想外の出来事が起きていた。
鉢合わせだ。
ラナイが着地したその目の前に、ノットが両手に剣を構えて立っていた。
(おいおい、なんでこんな時に……っ)
飛び退き、同時に"上"にも気を取られたラナイをノットは見逃さない。
瞬時に間を詰め、振りかぶった両手二本の剣で横薙ぎ。
二度目の後退には飛び跳ねて回転、舞うような足捌きで追撃する。
それも後ろ飛びに避けたラナイの背後には壁。
間を置かず繰り返される三度目の追撃を、ラナイは膝を当てて防いだ。
衝撃でぶつかり合う刃が細く響くする。
その消え入りそうな金属音に合わせてノットが後退、呻くように喉を鳴らし、再び剣を構え直した。
(全然捗らない。一発で終らせられるのに……)
後方には建物を破壊する轟音、前方にはノット。
遠く向こう側では着々と進む敵軍勢を想像し、ラナイには再び焦燥が湧いていた。
その焦りを見透かしたかのように、上方から屋根を跳ねる物音が鳴る。
(……もう見つかったか)
ちらと見上げたラナイの視線に、屋根の下を気にする地底人の姿が映った。
そうしてまた気を逸したラナイにノットから剣の一本が飛ばされる。
足下に向けて放たれたそれを即座に回避し、ラナイがノットに視線を合わせるのと同時、目の前にはもうすでにもう一本の剣の切っ先が陽光にキラリと輝いていた。
「むぅっ!」
既のところで仰け反って回避したものの、その耳に触れたのは軽快な足音と刃が鳴る音。
まさか、とラナイに過るのよりも僅かに早く、白い脇腹には剣の先が突き刺されていた。
それだけでは物足りないのか、ノットはさらに力を込めて白い体に突き刺した刃を押し込もうとするが、次の瞬間。
剣は折れる。
するとまた響く気のせいのような音が消えぬ間に、ノットの白い拳を受け体をくの字に曲げて道の先まで吹っ飛んでいく。
(あと少し大人しくしててくれよ……)
いつ起き上がるやもしれないノットに視線を向けた一瞬、次にラナイの耳に触れたのは、屋根瓦が崩れる音。
それで地底人が屋根から飛び降りたことを察し、ラナイは着地の足音が聞こえるよりも前に飛び上がっていた。
入れ違いに地底人を混乱させようという考えだった、が。
飛び上がったラナイの指が屋根の端を掴むことはできなかった。
「ンっ……!?」
不意に崩壊した建物の瓦礫に紛れ、ラナイは落下する。
舞い上がる粉塵と背に感じる異物感。
不良な視界の中にラナイが探していたのは、逃げ道ではなく、敵の姿だ。
足音を、漂う香りを、ラナイはそこに違和感を探した。
咄嗟に逃げたとて、視界不良では感覚で追ってくる地底人には敵わない。
なら一瞬でも早くそこにいる敵を察知し、不意打ちを避けなければ。
力負けこそ想像しないものの、数の差で押し込まれる可能性がラナイの頭を過っていた。
そっと体を持ち上げ、蜘蛛の姿勢でなかなか晴れない粉塵の中に感覚を研ぎ澄ますラナイ。
――カラッ……
背後で瓦礫の崩れる僅かな音が耳の穴に触れ、ラナイの目が音の出処を探してピクと反応したが。
(違うっ)
小さな物音とほぼ同時に感じ始めた大きな風の動きと鼻に触れた生臭さの位置がズレていることに気づき、瞬時に視線を前方に戻したそこ。
真っ先にラナイの目が捉えたのは、水掻き付きのいやに大きな手の平だった。
それを同じく両手で受けとめ、中途半端に立ち上がるような格好になったラナイの視線の先に、あの気味の悪い顔面がある。
体同様に無毛であり乾燥していて、顔の両脇にはみ出すほどの大きな目玉が。
口の端はその下瞼近くにまで裂け、大きく開かれた口内には粘土の高い唾液が糸を引き、数えるのも馬鹿らしいと思えるほど無数の小さな歯が上顎全体にびっしりと生えている。
その下で分厚く幅広いどす黒い色の舌らしきものが貼り付いており、そこには食べ残しらしき残骸がすり潰された状態で残ったままだ。
力は、ラナイの予想通り大したものではない。だが。
問題だったのは"重さ"だった。
一応にも怪力のラナイが、受け止めた両手越しにアンノウンを(重い……)と感じていた。
かといって跳ね除けることができないというわけでもない。
両足に力を込め、伝わる力を背に移し、そして肩へ。
肘を伸ばすのと同時に放たれたラナイの"押し"は、アンノウンを後方に一回転させてひっくり返した。
しかしその時、反動で硬直したラナイの隙に別のアンノウンが飛びかかる。
怪力とはいえ、力が抜けていれば軽い白い人型は抗う暇もなく押しつぶされ、また、そこに悔しがる間もなく巨大なおろし金のような口が噛み付く。
弱い顎の力を補うように硬く出来た舌と柔らかく動く下顎は、そうしてあっという間に仰向けのラナイの体の半分を口内に収めてしまった。
口の中で体を削られながら、ラナイが気づくのは、この舌にこそ最も強い筋力が備わっているということ。
押し潰す圧力と押し上げる怪力に加え、上顎にびっしりと生えた無数の歯がラナイの体表面に強大な摩擦かけられることで、今ラナイに自由が利くのは口からはみ出したままの下半身だけだった。
(くそっ、全く動けない……)
体中に力を込め捩ることでなんとか抗いつつも、ラナイの体は徐々にアンノウンの喉の方へと収められていく。
もう、こうなったら。
六割まで溜めた黄色の息を吐き出そうとラナイに掠めた時。
呼び起こされたのは、【否読の書】の一部。
バトルスタンス、とされたそこに書かれていたことを思い出したのだ。
(一か八かっ)
上半身が固定されている状態を利用し、ラナイは下半身を思い切り捻った。
するとつま先は天上から一回転し、地面へ向く。
地に足さえつけば、こっちのもの。
つま先を瓦礫の隙間にねじ込み、足の裏に触れた瓦礫を砕くほどの力を込めて掴み、そして。
ラナイは立ち上がった。
天地が逆さになる不意の出来事に驚いたアンノウンは、それで口の力が抜け、落下。
「……ん?」
瞬く間にラナイの全身はアンノウンの口の中に収められてしまった。
一瞬、マズい、と焦るラナイだったが、状況は改善されている。
突如口から先に地面に落下したことで慌てたアンノウンは口を開いて藻掻き、最早ラナイを束縛する力はどこにもなかった。
それを機にラナイはアンノウンを"脱ぐ"。
不精な人がそうであるように、脱いだアンノウンをそこに放り投げたラナイ。
重苦しい、ドスン、と音が鳴り。グェェッ、と無様な鳴き声をもらしてアンノウンは絶命した。
ただの一撃も食らわせていないのに、なぜアンノウンが死んでしまったのか。
不思議に思ったラナイが先にひっくり返したアンノウンを見やるも、そこにも同様に死したアンノウンの姿があった。
そちらに関していえば、口から涎を垂らし、如何にもという状態だ。
不意の死に考えられる状況は二つ。
一つは寿命、もう一つは"重すぎる"ということだ。
都合よく二頭とも寿命を迎えたとは考えづらい、だから状況が物語るのは後者の方だろう。
力が弱いことからも察せるところ、アンノウンの体は強い筋肉で作られているわけではない。
つまりは筋肉以外のものが重いわけであって、筋肉はこの異様に重い体を支えられるほど発達していない。唯一足の筋肉はそれに足るのかもしれないが、逆さにひっくり返されたのではまるで意味を成さなかった。
だからこれは、
(中途半端な生き物……)。
そう思ってほんの僅かな同情を向けたラナイの視線、死骸と化したアンノウンの下に地底人の腕が見えた。
力なく伸びた指先、そこをラナイがつま先でいじっても何の反応もなく、死んでしまっているように思える。
これでラナイにはわからなくなった。
(いったい、どっちが原因だ……?)
アンノウンの頭に齧りついていた地底人の死か、それとも考察通り自重による死か。
悩むラナイの元に現れたのは、残る一頭の地底人付きアンノウン。
試す必要がある、とラナイは拳を握り締めた。




