おれとれ 29
『ねえ、サンゴーはどうするの?』
これが、ラナイの記憶の本に書かれた彼女の第一声だ。
声は突然、グリムのアトリエの壁越しに聞こえている。
『身代わりだから、もう戻ってこないわよ』
机上から背後の壁を向いてグリムは言ったが、向こうからの返事は無い。
一度首を傾げてから再び机の上に置かれた様々な石に目を落としたグリム。すると直後、部屋の扉が開く。
『寂しくないかな』
大小一体型の扉の小さい方から、それよりも小さな体を半分だけ覗かせたくるくるの栗色の髪が印象的な少女がそう言う。
『もともと一人だったんだし、別に平気でしょ。っていうかそもそも"寂しい"とかそういう感情は無いのよ。ドールだから』
『違うよ、グリムが』
『アタシが?』
驚いたような顔で言って、グリムは小さく首を横に振る。
『別に。新しいのが手に入ったし、こいつはサンゴーよりも有能だしね。むしろ嬉しいくらいよ』
『ほんとにそう? イチゴーが壊れた時は泣いてたじゃん』
『あ、あれは違うわよ。失敗したから。あんたはそういうことしないからわからないかもしれないけど、何年も掛けて苦労して仕上げたものが一瞬で壊れるってのは言いようもなく虚しいものなのよ。だから』
言ってグリムが机に視線を戻すのを合図に少女は部屋へと入ってくる。
『じゃ、ニゴーの時は? あの時も泣いてた』
『泣いてないわよ。あんたの勘違いじゃない?』
『ううん。グリムは泣いてたよ。それに暴れてた』
『……あんた、性格悪いわよ。聞き耳立ててたのね』
『だって、声でけえんだもん。どうして、ってさ。全部聞こえてたよ』
と、少女は俯いて足下に落ちている小石をつま先で転がす。
『好きだったんでしょ? 少なくともニゴーは』
『ただのドールよ』
『まーたそんなこと言ってさ。毎晩ニゴーに話し掛けてたじゃん。散歩もよく連れて行ってたし……見てればわかるよ』
『…………』
一時の間の後グリムは、もういいでしょ、と少女の方を向く。
少女はそこに佇んだまま、視線をラナイの方へ向けている。
『グリムはさ……人形好き?』
少女の質問にグリムは重いため息をもらす。
そして椅子を回転させ、体を少女へと向ける。
『嫌いになったことはないわ』
『違うでしょ』
『……興味があるのよ』
『それも、違う』
『何が言いたいの?』
『グリムがどうして好きでもないもの好きになろうとするのか気になっただけ』
グリムはまた黙り込んだ。
『ねえ、グリム。その子も代わりにはならないよ。ヨンゴーはヨンゴーだもん』
『…………』
『ぼくも……』
少女が言い掛けたその時。
グリムは彼女の名を叫び、濡れた薄緑色の瞳は僅かに色が濃くなっている。
溢れて頬を伝う一筋の涙を見て、少女は何も言わず部屋を出る。
◯
翌日の、時間がいつ頃なのかはわからない。
カーテンが閉じられ照明も無いグリムの部屋では、そこらに散らばっている熱光石が放つ微かな橙色の明かりが足下に薄く溜まっているだけだ。
そこに一筋の、熱光石とはまた別の橙色の光が差し込む。
重々しい、ギギ、と音を立てて開かれた小さい扉の前に少女が立っている。
『や。キョーダイ、元気?』
扉の下に適当な本を挟み込み、それから少女はラナイの前にしゃがみ込んだ。
『全然しゃべんないね、ヨンゴー。サンゴーと似てる』
そう言って少女は椅子に座らせられたままのラナイの膝に乗り、間近に顔を覗き込む。
『でも、ニゴーとは違うね。ニゴーはね、もっと可愛かったよ。目もよく動いたし、時々勝手に立ち上がったりさ。窓んとこ覗き込んだりとかそういうこともしてた。
グリムの前ではやんなかったけどね……。
もしかして、グリムが君らを利用してるのがわかってたのかな。ヨンゴーはどう?』
と、少女は首を傾げる。
そして小さなため息をもらし、俯く。
『あたしのせいなんだ、ニゴーがいなくなったの。
グリムはそんなはずないって言ってたけど、そうだと思うんだ。
ったく、酒の後悔ってのは取り返しつかねえよなー……』
少女はまたため息をもらし、宙ぶらりんの足をぶらぶらと遊ばせている。
『ニゴーが暴走した前の夜にさ、あたし酒飲ませたんだ。
酔っ払っててさ、ニゴーがリビングにいたから一緒に飲みたくて……。
そん時は何でもなかったんだよ。でも、朝から少しニゴーの様子はおかしかったよ。
いつもぼーっとしてたけど、いつもよりぼーっとしててさ。
っていうか、ニゴーがぼーっとしてるのがわかったのよ。
こっそり話し掛けたらニゴー言ったんだ、「今晩また」って。
その後すぐにグリムが紐付けてさ、またいつも通りになっちゃって。
変わったニゴーのことグリムにバレたら怒られるから、黙ってたんだけど……やっぱあたしのせいだよな……』
がっくりと肩を落とし、少女の宙ぶらりんの足はただ垂れ下がるだけになる。
するとまたため息を吐き、少女は頭を上げる。
『余計なことってさ、酒飲むのと一緒だよね。過ぎてから多かったって思ったりさ。
結局、ジョッキ一杯でいいの。それが空になったら終わり、もう一杯分はジョッキから溢れた分と変わんないわけよ。
溢れて余った分まで飲むから、余計になっちゃうんだよね。
別にさ、吐くまで水飲まないじゃん。
水じゃなくてもそう。絶対気持ち悪くなるまで飲まないよ、普通。
わかってるのにさ、どーしてもやっちゃう。ほんで、そん時やったことは考えなしでさ、普通やらないことやりたくなったりして……』
少女の長いため息がラナイに触れる。
『先には立たねえんだよ。いっつもさ。じっとそこにいて、こっちが失敗すんの見てんの。後悔ってのはさ、そういうヤな奴なんだ』
再び動き始めた少女のかかとがラナイの足を小突く。
『ねえ、ヨンゴー。ニゴーは……』
と、少女がラナイを見上げたその時、グリムの帰宅を告げる声が廊下に響く。
少女はそそくさと部屋を出て行った。
◯
ラナイの目が次に彼女の姿を映したのは、扉が開いた後少ししてからだ。
窓の向こうにも明かりは無く、それが夜であることはわかる。
少女が杖を机に立てかけ、その時に突然姿を現したのだ。
彼女は、前回よりも声を潜め、また同じようにキョーダイとラナイを呼んだ。
『なかなか寝付けなくてさ。話し相手になってよ、また』
そう言って少女はラナイの足にもたれる。
『ずっとこの格好のまま、疲れない?』
と、少女が徐にラナイの足を無理矢理伸ばす。
少女が力を抜くと、ラナイの足はドスッと音を立てて床に戻る。
『やっぱダメか。おっかしいな……』
ぼそぼそと独り言を言って、少女はひとしきりラナイの体を観察するとグリム愛用の椅子に腰掛け、そして改めてまじまじとラナイを見つめる。
『見れば見るほど……サンゴーっぽいね。よくわからないけどさ、ドールってそういうもんなの?』
そう言って少女はラナイの返事を待つかのように静かになる。
その間視線はラナイに向けられたまま、身動ぎもしない。
夜特有の静けさと白と黒だけに映るラナイの目もあって、この時には何か特別な息遣いが感じられる。
『イルル・イルルイ』
突如口を開いた少女の声は、そこらに漂う奇妙な息遣いに混じってか少しだけ存在感が薄い。
『……って知ってる?』
ラナイではない壁の方を見つめて少女は言う。
『大昔の物語の主人公なんだってさ。グリムが生まれるよりもずっと昔の……。
グリムのお母さんが読んでたんだって言ってた。
その子女の子で、気がついたら知らないとこにいたんだって。
すごく綺麗な森だった。
どうして自分がそこにいるのかわからないけど、その子はなんとなくそこが"天国"ってとこだと思ったの。
どこだか知ってる? あたしは知らないけど。
で、その子が"ペット"の犬を探して歩いてたら、別の男の子がそこにいた。
その子は言うの、「ここは天国?」って。女の子は「そうだよ」って答えた。
男の子は、ペットじゃなくてお母さんを探してた。
その後また別の男の子がいて、その子もそこを天国だと思ってたみたい。新しいその子は友達を探してた。
でもね、三人が見つけたのはペットでもお母さんでも友達でもなかったんだ。
三人の目の前に現れたのは"カイジュウ"ってのでね、でっかい生き物だった。
あたしたちはそんなの平気だけど、この物語の子たちはマジヤベエって感じだったんだね。
襲われて、その時二番目に男の子が死んじゃったんだ。
残された二人は必死に逃げた。
ここは天国じゃなかったんだ地獄だったんだ、って。泣きながら逃げたんだ。
夢中で走って、二人はいつの間にか森を抜けてた。
そしたら、そこには小さい集落があったんだって。
ご都合主義っぽくね。
で、女の子も男の子もそこにあった家に飛び込んで助けを求めた。
たしか、女の子はお爺ちゃん、男の子はやっぱりお母さんを呼んだんだったかな。
でもね、そこにはどっちもいなかったんだって。
いるのは無口な大人ばっかり。二人が必死なのに関係ないって感じで、そのおっさんは「お前たちもか」って言うの。
そこで名前を訊かれて、女の子はふと思いついた名前を答えた。
それが、"イルル・イルルイ"だよ』
と、少女の視線がラナイに戻る。
『あたしと同じ名前だよ。正確には、グリムが付けた"ぼく"の名前……』
そう言って少女は歪んだ笑みを浮かべる。
『無いんだ、ぼくにも。名前も、誰なのかってものが何も無い。
だからグリムが付けてくれたんだと思う。この世にいる意味を……』
少女は俯き、短く鼻をすする。
『ねえ、ヨンゴー。君には名前がある?
作り物じゃない本物の名前、生命の名がさ……ある?』
ラナイは何も言わない。
『ぼくは、欲しい。欲しかった。たった一つでいいよ。本当の……』
言い掛けた少女の声の向こう、壁の裏側で「イルル」と寝ぼけたグリムの声がやけにうるさく響く。
少女は椅子を回転させ、杖を持ち、何かを呟いてラナイの目には映らなくなった。
瞼が閉じるように扉が、ギギ、と音を立てて閉まる。
◯
次の日の夜にも少女は突然姿を現す。
様子は前回と違いないようだが、ラナイにキョーダイと声を掛けるわけでもなく、杖を持ったままぐるりとラナイの周りを一周する挙動は今までと違っている。
擦り、擦り、ラナイの体のあちこちを手の平で撫で付ける少女は、首筋を撫でたところでようやくラナイの視界に収まる。
『おーい。見えてるー?』
ラナイの顔の間近に寄り両手を振る少女は、妙に上機嫌で微笑んでいる。
『ったく、グリムのやつ。君に紐付けっぱなしだったんだよ。どーりで動かないわけだぜ。なあ?』
少女が、やれやれ、と頭を振る。
『朝になったらグリムに教えとくね。けど、もう少し付き合って?』
そう言うと少女は昨晩と同じくグリムの椅子に座ってくるくると回転し、すると少女から漂う甘い香りが室内に満ちる。
あの甘酸っぱい酒よりもずっと甘い香りだ。
そうして少女は少しの間鼻歌混じりにくるくると回転を続け、不意に口を開く。
『ニゴーはさ、帰ったんだよな。たぶん、自分の行くべきとこにさ。どこかは知らねえけど……。
もしかしてさ、"天国"かな?
ほんとにそういうとこがあって、ニゴーは思い出したのかもしんないよね。
ドールなんて呼ばれてさ、飾り物扱いだったけど本当は違ったんだもん。でも。
いいなぁ……って時々思うんだ……』
そう言う少女の声色に倣って回転が緩む。
『天国があったってなくたってさ、ニゴーにはちゃんとした過去があるんだ。勘違いでも、ニゴーにはちゃんと、自分がどうだった、って……。
それなのに、ぼくには無いんだ。本当になんも無い。
名前も、故郷も、妖精ってのも全部後付けの貰い物ばっか。
だからさ、グリムには感謝してるんだ。
だって"あたし"にとってはグリムが故郷だし親だしさ』
どこか清々しげに言って少女は椅子から飛び降りる。
そして、ラナイに杖を突きつけ、額を軽く小突く。
『……ぼくはね、人間でも動物でもアンノウンでも妖精でも無い。
生まれた時からこの身体、この声。
性別すら与えられていない作り物さ。
ビクターはね、ぼくを"モンスター"って呼んだよ。
ここには無い言葉……意味は"カイブツ"だってさ。
自分で作っておいて……』
と、少女はラナイから杖を離し、床に立てた杖に自分の額を押し付ける。
『ビクターは、ぼくに色々教えてくれたよ。
ここじゃないどこかの知識、言葉、常識。たぶん暇潰しにね。
ビクターはぼくを"本物の人間"にしたかったんだ。
アリアスじゃなく、プライアでもない本物にさ。
勉強熱心なのも考えものだよなあ。
だってわざわざぼくを作ったのに意味なんてないんだよ?
ただ知りたかった、けど知ることができないから自分で作ったんだよ、ビクターは。
【アトニム】に絶えた本物を求めて、ぼくを作ったんだ。
だからさ、ぼくがどんなのかわかっちゃったらもう用無し。
適当に話し相手にして、それも邪魔になったから……連れて行かれたんだ。
新しい親のとこにさ』
少女は杖に額を押し付けたまま、壁の方を向く。
『……グリムだよ。
けどビクターは、本当は妻って人に会いたかったんだと思う。
だって"二人"って言ってたもん。「お前の新しい指導者になる者だ」ってね。
最初は誰だかわからなかった二人。グリムとリーンティル。
どっちがどっちっては言わなかったけど、どっちかが娘でどっちかが妻だってことだけは教えてくれた。キョーダイになるっても言ってたかな。
だからさ、ちょっと楽しみだったりもしたんだ。
どんな子だろ、とかさ。普通のこと考えてたよ。でも……』
少女は口ごもる。
俯いて重いため息を吐き、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
『……仕方なかったんだよ。きっとそうするしかなかった、でも……』
少女の息が震える。
『グリムはもう壊れていた。
ぼくがビクターとあの家に辿り着いた時にはもう……。
直したのはビクターだよ。もちろん、ぼくも協力した。
十年、かかった。
少しずつグリムが戻ってくるのを見てるのは嬉しかったけど、そこにぼくはいない。【否読の書】が改ざんされてるから仕方ないね。
道端で蹲っている薄汚く汚れた少女、空腹で気を失いかけているところで出会う。ってさ。ビクターがそういう"設定"にしたんだ。
ぼくはそれに合わせてグリムの前に姿を晒しただけ……』
少女の鼻をすする音が聞こえる。
『一応……さ。話したんだ、ぼくが一緒にいたこと。
あたしは作り物だって。
でもね、グリムには届かない。グリムの中にある記憶であたしと出会ったのは【アーハイム】の道端ってのは変わらないよ。
わかってるのかわからないのか、わからないけど。"ぼく"を出そうとするとグリムは取り乱すんだ。
だから……あたしはあたし……。ぼくはいない。
【否読の書】にも、残らない。
ぼくを知っているのは、ぼくとビクターだけ。グリムの中にもぼくはいない』
少女がゆっくりと顔を上げる。彼女は泣いている。
『ぼくはモンスターじゃない。アリアスでも、プライアでもない。
ぼくは、本物の作り物"火の妖精"。名前も何も無い、"人間"の人形。
永遠という【アトニム】の呪いを受けていない唯一の生物だ』
ハッキリと少女は口にし、再び立ち上がるとラナイの目の前に両手を広げて立ち尽くす。
『何も無い"ぼく"のことを、覚えておいてね』
そう言って、少女はラナイのそばに椅子を寄せると、その上に乗る。
そうして近くなった白い顔にそっと両手を触れ、少女は僅かに驚いたような顔をする。
『肌が、他のドールとは少し違う。もしかしたら、君も特別? だったら、やっぱりキョーダイだねぇ……』
声と共に、ラナイの顔に触れた小さな両手の平が静かに瞼を落とし、ラナイの目の前から涙に濡れた少女の微笑みは隠れる。
――あたしはイルル・イルルイ。だからもう、全部忘れて……
暗闇の中、それが最後に聞こえた声だった。




